みだれめも 第221回

水鏡子


西村寿行『世界新動物記』あとがき

 8月京都下鴨神社の古本市の3冊500円コーナーで勝利出版版『世界新動物記』(71年刊)を入手した。ページをめくるときパリパリはがれる、読んだ跡のない蔵出し本である。西村寿行の最初の本である。
 徳間書店から79年に出た再刊単行本は既に持っていたが、この勝利出版版を見て愕然とした。大変なものが省略されていたのである。
 著者あとがきである。
 それ以外にもいくつもの異同があるのでその紹介から。
 まず、帯である。
 「わかりやすい“母親と子供”のための動物百科」と銘打ち、「この本は各界の先生がたが監修指導して下さいました」として7名の名前が並べてある。
 石原慎太郎、高橋圭三、近藤啓太郎、秦野章と見たことのある謎の名前が並んでいる。推薦ではなく監修である。しかし帯以外、本本体にはどこにも監修者の名前がない。79年に徳間が出した再刊本には一切監修者名がない。ちなみにこのうち、石原慎太郎はまえがきを記しており、近藤啓太郎は著書に載せた挿話が本文中に引用されている。
 奥付の著者紹介は下記の通り。

「西村寿行(としゆきとふりがな) 1930年香川県生まれ。幼少のころより動物に興味をもちはじめ、日本全国各地の動物の生態を調べ歩く。また、海外へも三度にわたり動物にまつわるさまざまなエピソードを収録している。新しいタイプの動物生態研究家として活躍中。」

 『瀬戸内殺人海流』以前であるので、ある意味当然の略歴と言えるが、69年のオール読物佳作入選作「犬鷲」への言及がない。
 元の版でB5判だったものが徳間書店版では四六判に一回り小さくなっている。巻頭にあった8ページの写真が無くなり、挿絵画家が変わり、「百科事典にもでていないエピソードを集めた本」という副題が消え、目次が簡略化され、巻末の動物豆資料の一部が割愛されている。そして、まえがきとあとがきが削除されている。
まえがきは、石原慎太郎によるヨイショ文なのでまあどうでもいい。
問題は著者によるあとがきである。これが見過ごせない過激な内容なのである。

「(前略)
 私は動物を見るとたいてい哀しくなる。特に類人猿はいけない。仲間を檻に閉じこめているような複雑な気持ちになる。先方もそんな表情で、何万人という見物客をただ虚ろな目で眺めている。人間の不遜さを詫びたい気持ちになる。
 動物園を造り、あらゆる人に動物をみせようというのがどういうことなのか、私にはよくわからない。日曜日ごとに何万と押しかけ、動物を躁鬱病にさせる。大半の観客はキリンの首はなるほど長いとかそういうことしか覚えていない。そんなことなら動物を閉じ込めるより、完全な野生状態の写真とかフィルムで見せるほうが効果がある。ほとんど野性味を失った憂鬱そうな動物をみても価値はない。
(中略)
 近所の番犬で三百六十五日つながれっぱなしの犬がいる。一分と離してもらえない。門の格子から頭を出し、照っても降ってもただじっと通行人を見送っている。ふさいだ目だ。それでも犬を可愛がっていると、飼い主が考えていたら、何かが狂っている。
 そういう閉じこめた動物を子どもに見せても、子どもは当然だとしか思わない。哀れだという気が起きない。これはたいへんなことだ。こういう子どもは閉じ込められた人間を見ても反応しなくなる惧れがある。それを防ぐには、子亀でもよい、自分で飼わせてそれから死ぬ様もつぶさに見せることだ。殺したければ殺させてもよい。それで動物はかわいそうだと思うようになれば、まともな人間だ。
 いきなり近年大流行の動物愛護を説いたところで空念仏にしか過ぎない。ビフテキを食いながら、牛の頭を撫でているようなものだ。
 動物を殺しまくるハンターが、突然、純粋の愛護家になる例は実に多い。空念仏ではなく、悲惨な血の数々、動物のどうしようもない哀れさをつぶさに知るからだ。
 知ることは大切だ。
 花はなぜああも種類があり、それぞれに色彩豊かなのか?クジャクはなぜあんな美しい羽があるのか?ライオンの尻尾は長くてなぜ先にだけ毛があるのか?スカンクの体色が鮮やかなのはなぜか?皆それぞれに理由がある。そういうことと、動物のかくれた生態をこの本には集めた。
(後略)」

 驚異的に長い引用をしたのは、熱烈な寿行ファンでも、この文章を見た人があまりいないと思ったからだ。とくにぼくが太字にした部分。基本的にこのあとがきの向かう先は本来の読者である子供ではなくその親である。だからこそ「“母親と子供”のための動物百科」なのだということだろう。このあとがきを踏まえて親にこそこの本を読んでもらい感想を子どもと分かち合ってほしい、そんな強い意思表示ととれる。
 これはさすがに先月紹介したように元上野動物園園長が監修者に名を連ねることを断るのは当然だよなとまず納得した。

 しかし本文を読んでみると違和感が生じてきた。
たしかにこの本は、人の傲慢さでもって様々な動物たちを虐げてきた殺伐とした挿話が教育図書としては過分なほどに盛り込まれている。けれどもそこに人間批判は驚くほどない。狩られ滅びゆく動物に哀しいとつぶやきながら、狩り滅ぼす人間の行為について、やりすぎるという指摘はしてもスタンス的に中立である。哀しみの視線はあるが慈しみは意外と見えず、この種の挿話を人類批判と自然保護につなげる定番からみると異質な立ち位置で、猟師としての自らの生活体験に起因するように思える。
 そして集められた挿話のかなりの部分が、動物園での聞き取り調査によるもので、そこには動物園に対する親愛感が見え隠れする。あとがきとの違和感が半端でない。

 ここからは推測になるのだが、このあとがきは元上野動物園園長、本文内容から判断するとおそらく上野動物園、多摩動物園園長を歴任した林寿郎氏に監修を断られたあと、その怒りに任せて書き上げられたもののように思える。
 林氏が断ったのは、挿話における著者の主観的な思い入れと興味本位な取り扱いが、教育図書としては検証の弱さや科学性に疑念を生じる箇所が散見したところにあったのであり、動物園批判によるものではなかった気がする。
 けれどもこの上梓された本は、どうみても動物園関係者、自然保護運動関係者に喧嘩を売っており、業界内活動の幅を狭め、文で身を立てるにはノンフィクションからフィクションへの転身を余儀なくさせる結果となっている気がする。
 ただ、この気負いに満ちたあとがきには西村寿行のその後を具現化する本質的な一面がはからずも指し示されている。
 動物園の「動物」を「人間」に、「動物園の檻」を「社会や制度という檻」に置き換えてみればいい。
 そうすれば、見えてくるのは、虐げられ去勢された人間である。彼らの人間としての復権とは、すなわち野性の復権であり、それには社会や制度の檻が中にいる人間をさらに虐げ凌辱の限りを尽くすことにより、自らの意思で檻を食い破ることで果たされる。
 そこに横たわる風景は、寿行の格調高い動物小説以上にハードロマンのそれである。
 そう考えれば、著者のミステリへの鬱屈も見える気がする。ミステリという結構は、事件で歪んだ世界の中で、より住みよくなった檻のなかへの帰還だから。
 あとがきの特に太字にした部分。この過激さは単純にして深い。71年の段階で寿行の立ち位置は既に固まっている。

 「自分で飼わせてそれから死ぬ様もつぶさに見せることだ。殺したければ殺させてもよい。それで動物はかわいそうだと思うようになれば、まともな人間だ。」

 この文章を繰り返し噛みしめていたい。

 徳間版はなぜこの貴重なあとがき削除したのか。まこと残念至極である。本人が削ったんだろうなあ、たぶん。大ベストセラー作家になった79年という段階で編集者判断で削れるとは思えない。引用しなかった部分に飼い犬初代ちーこの悲惨な老境への言及があり、「もういけない。二度と動物は飼わないつもりだ。哀れで見ていられない。」という悲痛なつぶやきがあり、二代目を飼ってしまったことで削除することにしたのでないかと思っている。

〇近況(8月)

 8月は古本市めぐり。合わせて京阪神のブックオフを18切符で漁りまわる。300円縛りの結果、神戸さんちか古本市、大阪阪神と京都マルイ百貨店では1冊も拾えなかったが、3冊500円が大量に並ぶ京都下鴨神社は大収穫。調子に乗って最終日に再度顔出ししたが、あいにくの雨天で目当ての安い本の平台はブルーシートで覆われて拾いがいに欠けてしまった。悔しいのはあきらめて三条市場のブックオフを廻っていると空が晴れ渡ってしまった。戻る元気が起きなくてそのまま。
 8月の総計は214冊。なろう本は65冊と激減。古本市や天牛書店など昔からの古本屋を覗いたことが原因である。

主な収穫

など。
 ブックオフで200円で買う単行本系なろうより、はるかに格調高い本が100円で買えるのはどうなのかなあ。古書価格は間違いなく、安くなっている。
 あとホワイトハートから京極堂のシェアードワールドものが薔薇十字叢書と銘打ちいくつも出ていたことも今月初めて気がついた。

 8月後半は久しぶりのゲーム会。常連1名欠席の4人の集まりになったが、ふだんほったらかしの部屋と台所の掃除洗濯をしていただいてかなり過ごしやすくなった。お礼に昔のギャザのコモン、アンコモンカードを㎏単位で譲渡する。

〇なろう系(現実世界にダンジョンができた話)

 なろうの整理でモンスター文庫を予定していたけどリストが出来上がりませんでした。来月は仕上げることができるよう努力します。
 代わりに、現実世界にダンジョンができた話をいくつか紹介する。全体に今の社会制度や国際情勢、家族生活との擦り合わせにファンタジイ世界以上に知を働かせる必要があり、著者の深い部分浅い部分が露呈するところがあるが、読んだものはいずれもそれなりに頑張っている。歴史も実は意外と古く、なろう出現以前にまで遡る。

 林亮介『迷宮街クロニクル①~④』◎(GA文庫)がそれで、京都に出現したダンジョンの探索行が地味にシビアに綴られる。大学卒業前の青年が主人公、探索記録を書き綴るのがパソコン通信という時代性が逆にリアル感を増すなかで誼を通じた仲間たちがひたすら死んでいく。後続作品が人死ににシビアなものが多いのも、この作品の影響が大きいとみてまちがいない。

 ポンポコ狸『朝起きたらダンジョンが出現していた日常』〇(レッドライジングブックス)はある日世界中にダンジョンが出来て各国が管理に四苦八苦する中で主人公たちが探索者となり成長していく物語。ダンジョンドロップの魔石での発電所の設置による世界経済の激変とかダンジョンでレベルアップした人間たちのテロや反政府活動とか秀逸なシミュレーションが目につく反面、視野を広げすぎてあらが気になる。ダンジョン探索行の部分は地道でいい。出版社がなろうから撤退して1冊で打ち切りになったので、続きはWEBで。現在連載継続中。

 かなり共通した基本設定をしているのがダンジョンマスター『リアル世界にダンジョンが出来た①②』〇(宝島社)。というかこちらが先か。農家である自宅の敷地にダンジョンができたので飼い犬や鶏とダンジョンに潜る。出来栄えは『朝起きたら』より少し上、潜在力では少し下。こちらも2冊で終わっている気配で、続きはWEBで。現在連載継続中。

 中野くみん『秋葉原ダンジョン冒険奇譚①~③』はまあ可もなく不可もなく。某国の王女や女騎士が出てくるところで、これはもう違う話だろう。

 栗木下『異世界じゃなくて、現実世界で魔王になったら』〇(NMG文庫)
謎存在に魔王(ダンジョンマスター)にされた主人公が、他の魔王と闘いながら謎存在打倒に向けて成長していく。大量の魔王に蹂躙されたホロコースト後の世界となるのでこれもちがうジャンル。こちらも1冊しか出ていない。続きはWEBで。2012年157回で完結済。


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