続・サンタロガ・バリア (第184回) |
ついに朴葵姫(パクキュヒ)のソロ・コンサートに行けたのだけれど、場所がシンフォニア岩国というオケが入る大きなホールで、しかも席が18列目、葵姫がはるか20メートル以上向こうにいてアンプなしで演奏という、最悪のリスニング・ポジション。葵姫が弦を弾いて、こちらの耳の届くまでに0.1秒くらいかかっていたんじゃなかろうか。もともと弾弦が柔らかくて音量控えめだから、いくら客席がシンとしていても響きのほとんどはドデカイ空間(天井まで10メートル以上ある)に吸い込まれてしまう。
今回の葵姫は前回の赤いステージ衣装と似たデザインの黒バージョン。プログラムはバッハと同時代というスカルラッティの短いソナタ2曲で始まり、ソルの有名な「モーツァルト(魔笛)の主題による変奏曲」(主題部分が45年前のNHK教育TV「ギターを弾こう」のテーマソングだった)そしてタレガの「涙」「アルハンブラの宮殿」「アラビア奇想曲」とこれまた有名曲を披露。スペイン編の最後はアルベニスの「カタルーニャ奇想曲」「コルドバ」「セビリヤ」とスペインの地名づくしで前半が終了。葵姫は作曲家が変わるところで毎回作曲家についてMCを入れていた。
後半は非ヨーロッパ系の作曲家の作品で、いきなりアンドリュー・ヨークの「サンバースト」から入る。葵姫のMCでも云っていたけれど、10数年前村治佳織の演奏がTVCMに使われてその頃はよく耳にしていた。そういえば最近はあまり聴かない曲になっていた。そのせいか、葵姫はそう長くもないこの曲だけ譜見台に楽譜を置いて弾いて見せた。そして今回のリサイタルの目玉とも云うべき4楽章からなるレオ・ブローウェルの大曲「旅人のソナタ」。初めて聴く曲だ。使われるテクニックも音響も現代音楽的で、随所に不協和音の高速アルペジオが顔を出す。楽章は連続していてだんだんリズムが烈しくなるのは分かるけれど、一回聴いただけでは何が面白いのか分からない。目の前で聴いていればまた別の感想がわいたのだろうけれど。
難解なブローウェルのあとはメロディーの美しいバリオス(ボリビア人)のワルツが2曲。いくら遠方で鳴っていようとも、これはさすがに気持ちよく聴けた。最後はチュニジア出身パリ在住で一昨年亡くなったというローラン・ディアンスの「ヴァルス・アン・スカイ」と三原でも演奏した「フォーコ」。葵姫がMCで「アン・スカイ」というのは「偽物」という意味ですといっていたので、「ヴァルス・アン・スカイ」は「ワルツもどき」ということになるけれど、曲自体はワルツのリズムが強調された本格派。いったんステージを下がってからのアンコールは十八番「タンゴ・アン・スカイ(タンゴもどき)」。相変わらずカッコいい。これであっさりステージをあとにした葵姫は恒例のサイン会。前の2回のコンサートでは時間の余裕がなくそのまま帰ったけれど、今回は会場で葵姫のベスト盤(2015年発売)を買ってサインをしてもらった。いままでサイン会などには並んだことはないのだけれど、葵姫ならミーハーも悪くない。もらったサインはいまいちよく分からないが(当然KYUHEE PARKだろうけど)。
それにしても早めに指定席を取ったのにと、家に帰ってからこの文章を書くために、三原のコンサートの時よりシンプルなプログラムに挟んだチケットに目を遣ると、「R-3」と印刷してある。いま気がついたのだが、これは前から3列目なのだった。なんで18列と思ったのかというと「R」は普通のホールでは18番目を意味しているからだけれど、シンフォニア岩国では「R」は「右側席ブロック」を意味していたのだ。ショックが大きすぎて笑ってしまったよ。
今頃になって感想を書き忘れていたのに気がついたクリストファー・プリースト『隣接界』は、プロローグからは予想がつかなかったけれど、誰もが云うようにまるで自作のレトロスペクティヴみたいなつくりになっていて、その上レトロスペクティヴされた各作品よりもずっと読みやすく、表面上はわかりやすい。そしてまさかのハッピーエンド。
とはいえ正三角形の爆発痕をはじめとする謎めいた設定があちらこちらで顔を出しているので、単に物語を追っているレベルでの楽しみとは別の世界を垣間見せるわけだけれど、当方にはそこまで読み込む気力は無いです。
ようやく『J・G・バラード全短編集4 下り坂カーレースにみたてたジョン・フィッツジェラルド・ケネディ暗殺事件』を読み終えたので、いざ書こうと思ったら、『J・G・バラード全短編集3 終着の浜辺』のことを書き忘れているのに気がついた。
1963年から66年の4年間に書かれた短編19作を収めた第3巻は、短編作家としてのバラードの最盛期を示していると云っていい。ここまで来るとバラードの小説は、一部にSFとして読めるヴァーミリオン・サンズものなどがあるけれど、SFというジャンル小説ではなくもはやバラードが書いた小説という作品群であることが分かってくる。この巻の前半の作品はまだSF雑誌へ発表したものが多いが、後半は短編集が初出になっている。そしてそれらの作品はSF的と云うよりはバラード的というべき作品群へと移行している。それでも「おぼれた巨人」や「永遠の一日」はジャンルSFの感触が強い。そして短編の発表先は、ヴァーミリオン・サンズを例外として、SF雑誌からムアコックの「ニューワールズ」や詩や散文を載せるアート系の「AMBIT」へと移っていく。
一部だけれど残虐行為展覧会/コンデンスト・ノヴェル系の作品が入っている第4巻は、作品の発表年代が1966年から77年と広がり、バラードの短編はいわゆるSFからコンデンスト・ノヴェルまで多様な形態を見せ、かなり自由な創作活動ができていることが分かる。一番の呼び物は、腰巻きにもあるとおり、野口幸夫訳の中編「最終都市」(70ページもある)だろう。これは人口減少に伴い人々は田園へと生活の場をうつして都市が見捨てられた時代に、ある若者が田園から脱出してうち捨てられた都市へ入り、そこで出会った人間と都市を一部再生させようとする話。いかにもバラード的な冒険SFで、作風からすると少し前の時代のもののような感触があり、70年代のバラードとすればやや感傷的な感じがする。主要登場人物のひとりである発明家の名前がバックマスターで、これはバックミンスター・フラーにちなんだと解説されているところからも60年代っぽい。
設定自体が理解不能に近い最近の作品に較べると、少なくともある実験により別の宇宙「新真空」が侵食してきたというわかりやすい設定のグレッグ・イーガン『シルトの梯子』は、15年前の作品だけあって、SFとしてエンターテインメント性が高いといっていいのだろう。
第一部の「サルンペト法則」が何なのか分からないまま読み進める内に、これまでのイーガン作品でおなじみの、微少な宇宙船で微少なボディに意識を乗せた視点人物の女性(だろうな)が執念で実験を続けた結果、異宇宙である「新真空」を発生させてしまう。これが設定編で普通はプロローグに当たる。
で、本編に当たる第2部は、プロローグの時代から数百年たって、「新真空」が侵食範囲を広げていく中でいくつもの太陽系を呑込まれ、地球のある太陽系もそろそろ危ないという時代でドラマが展開する。イーガンなので、ハードな物理学的議論がよく出てくるけれど、基本的なドラマは他宇宙の侵食をどう防ぐかというという点で、他宇宙全面破壊派と未知の世界を知るべき派との争いの物語になる。ドラマづくりという点でイーガンの作法は一本調子であって、これは直交3部作でもあまり進歩が見られない。しかしそんなへたくそなプロットでも、イーガンの美点は、ほかのSF作家にはほぼ期待できない異宇宙を読者に垣間見せてくれるところだ。とはいえ文系頭にはそれをどう視覚化して良いのか分からないんだけれど。でも読んでる最中はそれなりに嬉しい。
訳者の山岸真さんが、登場人物の性別と言葉遣いについてミクシでつぶやいていたけれど、第2部の語り手が男の子でツンデレ(?)なパートナーが女の子と感じてしまうのは、生殖というものを考えたときに、読み手の習慣でそうなってしまうのは仕方が無い。ヴァーリイみたいなはっきりした性別交換ならともかく、登場人物がすべて「彼女」な『反逆航路』だって強い女主人公と弱気な若者のコンビに見えてしまうのは習慣のなすところで、この作品の実体としての人間が、いまの人類とはかなりかけ離れたものであると云われても、心は自動的に保守的な想像をしてしまうのだ。
ハヤカワ文庫SFで新訳が立て続けに出たフィリップ・K・ディックは、未読の『ジャック・イジドアの告白』を読んでみた。昔は「三文小説家の告白」として記憶していたら『戦争が終わり、世界の終わりがはじまった』という題で翻訳が出て、何じゃそりゃと思ったことは覚えている。読まなかったけど。
これは1950年代に当時の世相を、(あくまでディック的に)リアルに反映しながら書かれた普通小説で、主な登場人物は、主人公ジャック・イジドア、その妹フェイと旦那チャーリー、そしてフェイが目を付けた若夫婦アンテール夫妻の夫ナット。舞台はカリフォルニアの片田舎で、チャーリーが鉄工所を経営してフェイは退屈かつ贅沢な生活をしている。そこへ万引で捕まってしまうような生活能力へ乏しい兄のイジドアを連れて帰る。 主人公は一人称だけれど、フェイをはじめとする主要人物は、各自に割り振られた章立ての中では、三人称一人称で語っていて、物語の視点移動は忙しい。主人公を含め、主要キャラはディックの分身ともいえる濃い性格が与えられ、内省の声はまさにディックとしか云いようがない。
この時代に書かれたキャラクターとしては、自己中心的で三角関係をつくって夫やナットを(ついでに兄も)振り回す主人公の妹フェイが素晴らしい出来。主人公はフェイのつくり出す世界をいかにも非常識なやりかたで壊しに回る。そして主人公は世界の終末は近いという終末教にハマるのだが・・・。
膨大な訳注を読めば分かるように、この小説は当時ディックが住んでいた現実のカリフォルニアの片田舎をリアルに描き、三角関係という普通小説/文学として最も古典的な題材を描いているにもかかわらず、ディックはSF的なガジェットなしでディックのSFを書いてしまっている。それは、物語の結末で終末教に裏切られた主人公の思いに象徴されていて、その思いはディックのSFへとつながっていくものなのだ。
訳者である阿部重夫がこの小説の舞台を訪れ、また当時の世相と生活世界を徹底的に調べ上げて膨大な訳注をつくっているところに、ある意味この作品の意義を感じさせるものがあるのも確かだ。おかげで「三文小説家/Crap Artist」の本来の意味が「習慣的嘘つき/詐欺師」ということも教えてもらった。となるとこの小説は『詐欺師の告白』となるわけで、その内容から考えるとこの作品がメタフィクションみたいに感じられるようになる。
山本弘『プラスティックの恋人』は、これまで作者がいくつかの短編で取り組んできた性的モラルをエンターテインメントSFとしてどういう風に書くことができるかという試みの長編版。語り手/報告者を若い女性ライターとして、アンドロイド娼館の体験取材を通して、美少年アンドロイド/AIが一種のVRとして描かれ、人間の性的嗜好の鏡であることを示した、長谷敏司『BEATLESS』のテーマを性的ファンタジーに絞った作品ともいえようか。
小説としては非常に読みやすく、物語的結構も長中編的な感触で、すぐに読み終わる。作者も還暦を迎え、これまでの短編で見せた過激さは、より安定した視野で観察されていて、この作品の終わりの方に登場する娼館のオーナーである初老の紳士に、自作の試みに対する自己評価を語らせているように、オトナ的見識を示す。
小川一水『アリスマ王の愛した魔物』は久しぶりの、連作じゃない短編集。5年以上前に発表された作品が多く、書き下ろしが1編。「ろーどそうるず」「ゴールデンブレッド」そして表題作は再読。女子のお仕事SF「星のみなとのオペレーター」と書き下ろし「リグ・ライト―機械が愛する権利について―」が初読。
バイクの一人称で世界の移り変わりを描いた「ろーどそうるず」や自給自足小惑星を舞台にニッポンを映した「ゴールデンブレッド」は小川一水らしいが、表題作はかなり残酷な寓話で、中国の古典やアラビアンナイトの雰囲気を醸している。初読の2編はまたこの作者らしい楽しく心温まる物語になっているが、書き下ろしの方は、人間の鏡ではないアンドロイド/AIを作り出す、いかにも小川一水らしい作品だ。
第5回ハヤカワSFコンテスト最終候補作という伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』は、巨大太陽フレアの影響で送電網が破壊された世界で奮闘する主人公と周辺の人々を描いた1編。この作品はテーマが絞られていてしかも舞台はほぼ現代なので、SF的飛躍は最小限。文章がこなれていて読みやすく、これまた長い中編を読んだような感触が残る。
SFとしての飛躍のなさとディザスター小説としてはまれに見るさわやかさで、とくに太陽フレアがもたらす被災状況だけに話が絞られていることもあり、うまく宣伝すれば、ベストセラーが狙えそうなアクチュアリティがある。
それにしてもこの北海道愛はすごいなあ。もしかして草野原々のお仲間か。
短編集『夢見る葦笛』にプロローグ的な1編が収められていた上田早夕里『破滅の王』は、いわゆる支那事変から大東亜戦争が終わるまでの上海や南京を舞台に、研究者としての良心を守ろうしながらも、731部隊で有名な石井部隊で、石井の意向とは関係なく、所員が開発した治療法のない細菌兵器「キング」を巡る暗闘に巻き込まれた若い細菌学者をメインに、戦時中の上海や南京を描く情報小説としてのリアリティを現出させた1作。
このタイプの小説は巻末の参考資料を見れば分かるように、作者自身の資料読解とそこからどのようにリアリティを保ちながら想像を羽ばたかせるかによって、作品の仕上がりは大きく変わるだろう。これは読者を作品世界に連れ込んで、ほぼ違和感を感じさせないという点で十分に成功している。
ただし、作者も読者ももはや経験的にこの時代を知らないわけで、想像の質が映画的なものになるのはやむをえないところ。たとえば「キング」を生み出した細菌研究者のセリフからは『パトレイバー―the movie』の帆場瑛一を思い出すし、この世界のフィクションとリアリティを混ぜ合わせた最後のダメ押しである、登場人物のその後一覧リストは、『アメリカン・グラフィティ』のエンド・タイトルを思わせる。
しかし読後に一番思うことは、これが上田早夕里流の『復活の日』なんだろうなというものだった。
ノンフィクションはまた次回に。