内 輪 第328回
大野万紀
近所のシネコンで映画『スター・ウォーズ 最後のジュダイ』を見てきました。60歳を越えると映画が1,100円で見られるので嬉しいですね。さすがに客席は満席でした。年寄りだけじゃなく、けっこう若い人も多かったです。
今度のスター・ウォーズ、色々と批判もあるようですが、長時間の映画なのに飽きるところもなく、ぼくには大変面白かったです。まあぼくは昔のSF大会で予告篇を最初に見た時からずっとファンなので(でも全然マニアとはいえないです)、何でもアリになっちゃってるかも知れませんが。
いってみれば旧世代を乗り越えようとする新世代の物語なのだけど、思いのほか旧世代のじじばばが頑張る。ダメダメだったルークに、まさかあんな見せ場があるなんて。最後を一人で持って行ってしまいました。またエンドロールの、キャリー・フィッシャーへの追悼の言葉にはうるっとくるものがありました。
異星の動物たちがたくさん出てくるのも良かった点です。ただ、SF忘年会で話題になったことの一つが、何で異星動物の乳搾りをルークがするシーンにあれだけ時間をつかっていたのか、ということ。確かに謎ですね。他にも、宇宙空間での爆撃機による爆撃シーンなんて、まあこの世界では宇宙にも上下があるからだといってしまえばそれまでですが、ぼくの説では、この世界の宇宙船には回転もしてないのに人工重力があるわけで、それが船の外へもしみ出しているんじゃないかと。戦域を囲むローカルな空間は、外の宇宙と切り離されて存在しているんじゃないかと思うのです。いや、きっとマニアの間では正しい公式設定があるんでしょうけどね。夜遅くまで、こんな話を延々と笑ってできるのも〈スター・ウォーズ〉の魅力かも知れません。
実際のところ、最大の問題は、この戦争のスケール感がさっぱりわからなくなっていることでしょう。もはや大局的な状況など、どうでもいいのかも知れません。それから、反乱軍の暴走するヒーロー、ポー・ダメロン。こんな役割のヒーローって、どこかで見た記憶があるなあと思ったのですが、考えてみれば日本のアニメやマンガのヒーローって、こんなのばっかりだったような気がします。あと、レイとカイロのすさまじいチャンバラシーンは確かにすごかった。堪能しました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『隣接界』 クリストファー・プリースト 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
プリーストが2013年、70歳にして書いた新作長編である。これがまた傑作なのだ。
第1部から第8部まで、互いに関連した8つの中短篇から成るが、それぞれの物語で同じイニシャルをもつ登場人物たちが、別々の時代、おそらくは別々の(〈隣接〉した)世界に生きながらも、記憶が、夢が、意識が、世界が混ざり合い、複数の現実を共有する、そういうある意味とてもプリーストらしい作品である。
とはいえ、過去の作品に比べても、格段に読みやすく、また物語そのものがどれも非常に面白くて、謎と緊迫感があり、心に残るものとなっているのだ。
すべての物語に戦争が影を落としている。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして未来のテロ戦争。第1部と第3部、第4部、第6部、第8部が(基本的には――実際は微妙に異なっているようだ)同じ近未来のイギリス――イスラム化し、気候変動に見舞われ、テロの恐怖に怯えている――を舞台にしている。主人公は写真家のティボー・タラント。トルコで反政府ゲリラのテロに遭い、最愛の妻を失っている。イギリスに帰ってきた彼は、基地に向かう装甲車両の中で奇妙な女性と出会い、不可解な体験をすることになる。
何ものかの攻撃を受けたロンドンは一区画がまるきり消滅しており、自宅に帰れず基地に留められた彼には、不条理な現実が待ちかまえている。他の物語では、この奇怪な攻撃が〈隣接界〉という物理的な理論で説明されており、多世界の存在が示唆されている。どうも複数の隣接する現実が、相互に作用しあうことによって異様な現象が起こるらしい。いや、一応そういうSF的な説明はあるのだが、そんな理屈はあまり重要ではない。どんなに異常であっても、つじつまが合わなくなっても、主人公たちには自分たちの日常――やりがいのある仕事や愛する人や目の前の細々とした事実こそが現実で、それこそが重要なものなのだ。
これをメインのストーリーラインとして、第2部では、第一次大戦を舞台に、奇術師トミー・トレントとH・G・ウエルズとの、塹壕戦の戦場での出会いが描かれる。第5部は第二次大戦中の、イギリス空軍の基地――そこは別の物語の舞台ともなっている――で、ランカスター爆撃機隊の若い整備兵マイク・トーランスと、航空輸送予備隊パイロットのクリスティナ・ロジュスカとの切ない、つかの間のラブストーリーが語られる。このロジェスカがとても魅力的だ。凄腕の飛行機乗りで、何よりも飛行機を、とりわけスピットファイアを愛する女性である。プリーストの描写力と臨場感にあふれた文章もここで最高潮に達する。戦場の空、その空をどこまでも飛んでいこうとする戦闘機。この第5部だけでも、本書は物語を読む楽しみを与えてくれる優れた作品だといえる。
そして第7部は、何とあの〈夢幻諸島〉が舞台になる。そこでは、こちらの世界の物語に出てきた人々の、微妙に異なる分身たちが、よく似ているがまた別の物語を繰り広げる。自然も政治も文化も異なる異世界ではあるが、人々は同じ現実を部分的に共有している。そのキーワードが隣接性(Adjacent)ということなのである。ここにきて、夢幻諸島がファンタジーの異世界ではなく、この現実から少し位相のずれた現実であることが明らかになったように思う。
『宇宙探偵ノーグレイ』 田中啓文 河出文庫
田中啓文の最新作はSFで、それも連作SFミステリーだ。すごい名探偵らしい(だって宇宙の大物たちから直接捜査を依頼されているのだから)宇宙探偵ノーグレイ。彼はどうやらひどい借金を背負って宇宙マフィアに命を狙われているようだ。だからどんなとんでもない依頼でも断ることができない。そして「怪獣惑星キンゴジ」、「天国惑星パライゾ」、「輪廻惑星テンショウ」、「芝居惑星エンゲッキ」、「猿の惑星チキュウ」という、その名の通りの非常識な惑星での、あり得ない殺人事件の謎解きを(まさに命がけで)請け負うことになるのだ。
それぞれの惑星で起こった事件も、その惑星の設定も、よくもまあ考えたというようなとんでもないもので、めちゃくちゃ面白い。彼はその謎を解く中で本当にえらいことになってしまう。それぞれの設定は笑ってしまうほどありえないものだけど、SF的にちゃんと論理が通っており、まったくデタラメではない。不可能な事件の謎解きも、しっかりと納得のいくものである(もちろんその設定の前提を了解した上でのことだけど)。
ただ、読んでいてエッと思うのはその結末だ。各編の結末で、ぎゃっと叫ぶようなえらいことにになって終わる。ということは、この5つの物語は、実は――と想像されるのだが、そこははっきりしていない。いや最終話がそのオチになっているのかも知れないが、もしかしたら続編で、さらにえらいことになってしまうのかも知れないと思わせる。でもね、確かにSF的にきちんとつじつまを合わせることも可能だけれど、作者のことだから、平気な顔で「知らんがな」っていわれそうな気がする。
――といったことをSNSに書いたら、作者本人から、続編はないですと返事がありました。そうですか、やっぱりあれがオチですか。あらら、そこに猿が見える……。
『構造素子』 樋口恭介 早川書房
第5回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。津久井五月『コルヌトピア』との同時受賞である。言語とそれにより記述される世界について、哲学的・知的な考察を深めていく、いささか難解で実験的な小説である。しかし、コンテストでこの小説を推した評者たちが述べているように、「意外に」読みやすい。
とはいえ、それはしばらくページを読み進めた後のことであり、とりわけ「構造素子」を説明する冒頭の一節はひどくとっつきが悪く、小説の(少なくともエンターテインメントの)文章とは思えない。それはまるで、小説エンジンの要件定義書のように見える。
本書の文章には、大きく2種類のものがある。一つは、そんなメタなレベルで小説の(あるいは世界の)「構造」について述べる文章。もう一つは普通の小説の、ドラマや情景描写や人物の会話がある文章である。
後者の、普通の小説の部分は、SF作家である父と子の物語から、あり得ないスチームパンク的ユートピアであるもう一つの19世紀や、テロリストのDDoS攻撃をきっかけとした第二の地球人類の滅亡や、ポーやウエルズや、機械人やソフトウェア人格や、そういった断片的な「構造素子」が描かれていて、そこがとても面白く読めるのだ。
一方、メタレベルの文章は、矛盾に満ち、様々な概念がねじ込まれて難解だが、これはこれで面白い。どうも言語、論理、数式、遺伝子コード、プログラムなどによって記述される「物語」は、階層が違うだけで現実と等価なものだということのようだ。それが「構造素子」であり、階層を意味するL、時空を意味するP、規模を意味するVを用いた、L-P/Vという表記によって示される。いや、正直よくわからない。
L-P/Vは数式ではなく、いわば命名規則であり、構造素子=物語につけられた名前、ラベルである。だからL8-P/V1というように修飾子がついて、それが表題となっている。
本書の扉には一つの論理式が書かれているが、それは矛盾を示しており、全てが無意味であることを示している。こういう韜晦が各所に現れ、ある事象に対する矛盾した肯定と否定の言明が繰返し描かれる。どっちやねん?と思うが、最初に宣言されているとおり、どっちも正しく、どっちも間違いで、つまりは無意味なのだ。でも、論理的に無意味だったらつまらないかというと、そのことと面白いという感情は並立し得る。
物語の部分、断片的な「構造素子」の面白さに対し、全体の構造がわかりにくいのだが、とても親切なことに、巻末にはこの小説の仕様書として「梗概」が記されているので、理解の助けになるだろう。それがこの小説とどこまで対応しているかは、また別の話だが。
ただ、読んでいてとても気になったのは、小説の言語が世界を記述するものだというのはいいとして、その記述から意味を生成し、物語をドライブしていくのは何かということだ。普通に考えればそれは作者の脳であり、最終的には読者の脳ということになるだろう。書かれた文字、記録されたストレージ、DNAにエンコードされた遺伝情報、データとして保存されたプログラムは、それだけでは静的なものであり、何も生じない。何らかの処理系がそれにアクセスし、それを読込み、時系列的に動的に処理して、物理的な効果を生み出す。L-P/Vだけでは時間の変化を含まず、本書でもL7-P/V1-1のように最後に-nをつけて時系列を示している。一体それは何なのか。
面白かったけど、メタな部分ではそのあたりが物足りなく、もう少し小説側にバランスがあればもっと読みやすかったのでは、といったことをTHATTAの会合で話したところ、この本は「構造」そのものを書こうとしているものなので、これはこれで正しいのだ、という指摘があった。確かにそうかも知れないな。
『コルヌトピア』 津久井五月 早川書房
『構造素子』と同時受賞の第5回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。1段組で180ページ弱と、長編にしては短め。『構造素子:』と比べればSFとしてずっと素直で、すんなりと読める。もちろん全然違うタイプの話なので、単純に比較することはできないが、本書もまた面白く読むことが出来た。
本書では何よりも、植物がコンピューターとなり、都市のインフラを支えているというビジョンがいい。都市も建築もそれに合わせて最適化され、緑にあふれた、ある種ユートピアとしての未来都市のイメージがとても印象的である。もっとも植物が計算資源になることについての詳細な科学的説明はなく、遺伝子操作で植物特有の情報処理機能を操作するといった漠然としたものだが、それでもSF的なリアリティレベルは充分に保たれている。
2084年の東京。震災後、植物を計算資源に応用するフロラ技術により、東京は周囲をグリーンベルトに取り囲まれた都市となった。主人公はフロラ設計を行う企業に勤める青年で、角に似た装置(それはギリシア神話の豊饒の角=コルヌコピアを想起させるものだ。表題はそれとユートピアをかけている)を使って、植物群(フロラ)とインタフェースをとり、その活動状況を描画(レンダリング)できる。はっきりとはわからないのだが、コンピューターのログを読むような感じなのだろうか。それとも、ほのめかされているように、植物の意識を読み取るような、コミュニケーションの手段となるようなものなのだろうか。
本書では、植物と人間の相互作用は描かれるが、それが異なる知性との接触なのかについては可能性としてのほのめかしに終わっている。それよりも、草いきれやフィトンチッドに満ちた都市という「風景」を描くことに力が入れられている。
一応ドラマはある。グリーンベルトの一部で発生した異常現象、そこだけ演算がストップしてしまうような異常がなぜ発生したのか。主人公は若い科学者の女性とともに、その謎を追う。その途中で事件も起こる。しかし、そのストーリーは淡々としていて、盛り上がりに欠ける。事件は主人公たちとは別の次元で進展するのだ。描かれるのは事件よりも主人公たちと植物との関わり方の方だ。
問題は、主人公たちのキャラクターがあまりにも希薄で、物語をドライブしていく力に乏しいことである。もちろん、SFというものは、すばらしいアイデアや設定があり、それを驚きや魅惑に満ちたビジョンとして描くことができるのであれば、キャラクターやドラマは極端な話、なくてもかまわないようなジャンルである。本書には魅惑的なビジョンがあるのだから、それをもっと発展させていってほしかった。もっともそれは長編では難しいのかも知れない。もしかしたら、作者には長編より中短篇の方が、そのビジョンを示すのに向いているのかも知れない。
『赤いオーロラの街で』 伊藤瑞彦 ハヤカワ文庫JA
第5回ハヤカワSFコンテストの最終候補作。先にも述べたように、今回読んだ3冊は大賞受賞作を含め、いずれもタイプが全く違うので、横並びの比較はできないのだが、個人的には本書が一番面白く、興味深く読めた。
あえて言うならば小松左京を思わせる、徹底的に取材したリアルなパニック小説・シミュレーション小説である。ただし、これまた徹底的に現場の一市民の視線で描かれていることと、北海道の小さな町を舞台にしていることとで、悲惨なパニックの描写はほとんどない(実際にはあったはずだが、主人公の目の前では起こらない)。
巨大太陽フレアによって(といっても数百年に一度レベルのもので、人類が滅びるような超巨大なレベルのものではない――ということは、実際に近いうちに起こってもおかしくないものだ)、全世界で電力網が破壊され、電力、通信、交通がすべてストップ。完全復旧には数年かかるという「世界停電」が本書のテーマだ。でも大地震などと違い、普通の人々からすれば、現象的にはただの停電であり、それが長引くというだけのことに思えてしまう。危機感はそれほどでもない。信号機が止まったための交通事故や、過電流による機器の故障での火災などをのぞき、直接人命に関わる重大な事態はすぐには起こらない。しかし、現代文明を支えているのは電気である。そのインフラが長期間復旧の見込みなく、それが全世界に及んでいるということは、一般市民の生活にも徐々に深刻な影響が及んでいくということである。極端な話、中世のレベルにまで戻ってしまうかも知れない。
主人公は中年のWEBエンジニア。東京の小さな会社に勤めていたが、仕事に倦み、テレワークの体験で北海道・知床の斜里町へ行く。そこで巨大太陽フレア災害に遭遇するのだが、赤いオーロラを見たことと、停電と、スマホが使えなくなったくらいで、何が起こったかもわからない。そんな中で、徐々に情報を集め、彼を迎えてくれた斜里町の人々と、現場の知恵でできることを少しずつ実現していこうとする。そんな物語である。大所高所から論じるのでなく、目の前の現実を、その場その場で何とかしていこうとする人々の小さな働きが、とても心に響く。
個人的に――といったのは、そんな現場の描写が、23年前の震災の体験を思い起こさせたからだ。破壊されたインフラの中での日常生活、そんなあの時の忘れがたい気分を強く思い起こさせたのだ。
コンテストの選評によれば、本書が受賞に至らなかったのは、ドラマ部分が弱いとか、SF性に乏しい(ほぼ現実ベースの物語なので、SFとしてはこの先が読みたい)といった理由だったようである。でもこういうタイプの作品だって、小松左京を引き合いに出すまでもなく、SFに違いない。ドラマ部分については確かに淡々としていて、話がうまく進みすぎると思えないでもないが、これまで小説を書いたことのない新人の最初の作品としては、これで充分だと思う。また、変わってしまった世界の中での日常の再構築というテーマは、個人的にはとても興味があるものだ。というわけで、本書はとても読み応えのある、満足感のある小説だった。