続・サンタロガ・バリア  (第183回)
津田文夫


 あけましておめでとうございます。というとナニガメデタイなどというへそ曲がりもいますが、何はともあれ平成30年というのがSF的に思える年明けですね。

 ようやく朴葵姫(パクキュヒ)を生で見聴きできた。昨年12月15日に広島で広島交響楽団とアランフェス協奏曲、翌日は三原(11月に堀米ゆず子を聴きに行ったポポロホール)で村治奏一とデュオ。当然追いかけました。
 広響は企業主催の3000円均一コンサート。指揮者は柴田真郁(マイク)、初めて聞く名前だけれどオペラ指揮が得意という新人。ちょっと早めに会場についたら自由席だったのでそのまま列に並ぶ。おかげでほぼ思い通りの席が取れた。
 ロッシーニのオペラ「セヴィリアの理髪師」序曲で開幕、オペラが得意というだけあって結構聴かせる。オケの椅子直しがあって、指揮台の上に大きめの富士通タイムドメインスピーカーが1台みえる。まあホールが大きいのでこれは仕方のないところ。いよいよ葵姫登場、赤のステージドレスで小柄でも颯爽とした足取り(胸が豊かなのに驚いたのは秘密)だ。イントロのギターソロが始まる。アランフェス協奏曲全曲を生で聴くのは10年ぶりくらいか。山下一仁や福田進一で聴いたことがあるが、こんなにも真剣にアランフェス協奏曲を聴いたのは初めてだ。葵姫のギターの音はやはり小さいけれど、ほぼ期待通りのまろやかさで、刺激音がほとんど無いにもかかわらず、その響きは豊かな音楽を奏でる。この曲には途中でチェロの短いソロが入るのだけれど、首席チェロのドイツ人スタンツェライトがなかなか熱のこもった演奏を聴かせてくれた。前から13列目の正面左寄りの席でジーっと見つめていたこともあって、聴き終わったときにはホっとしたくらいだ。アンコールは十八番のひとつ「タンゴアンスカイ」。コンサート後半はオケの小品名曲集なので席を立って帰った。
 翌日は一ヶ月前とおんなじ電車で三原ポポロホールを目指す。こちらは指定席券を予約していたので、頃良い時間にホールに到着。今回は堀米ゆず子と違って2時間たっぷりのコンサートだった。
 村治奏一は、姉の佳織が一足先に有名になったけれど、最近は姉が病気療養中だったこともあって弟の名がそれなりに知られるようになった。作曲もする若手実力派としてクラウドファンディングでCDを作ったりしている。
 二重奏の選曲はヴァラエティに富んでいて、古典的なカルリの二重奏曲から始まって、「フール・オン・ザ・ヒル」でなじみのメロディを聴かせたあと、いきなりド派手なベリナティの「ジョンゴ」で盛り上がる。葵姫がギターのボディでパーカッションを担当。ここで村治奏一のソロ2曲。自作のトレモロ多用曲「虹」とイギリス在住日本人作曲家で最近話題の藤倉大が村治のために作った「チャンス・モンスーン」でバリバリとギターを弾きこなす。再びデュオで武満徹の映画音楽「不良少年」に谷川公子の実写版「火垂るの墓」テーマ曲そして前半のトリはファリャの「粉屋の踊り」と「スペイン舞曲第1番」で華やかに閉じた。
 葵姫がMCでポポロホールがマイクなしでギターの音がよく響くホールなのでとても嬉しいと語っていた。堀米ゆず子のときに書いたようにポポロホールは装飾的な見栄えは地味だけれど音響的には聞きやすい構造のホールで、この日は村治奏一のギターの響きとパクキュヒのギターの響きの極端な違いがよく分かるし、葵姫のギターから生まれる音楽がいかに独特かということもよく分かる演奏会となった。
 後半に入ると、デュオでピアソラ「リベルタンゴ」を披露したあと、葵姫がソロで2曲。十八番の「アルハンブラの思い出」に現代ギター界では「タンゴアンスカイ」が人気のローラン・ディアンスの「リブラソナチネ」より第3楽章「フォーコ(火)」。 クラシックではコンフォーコといえば烈しく情熱的に弾くみたいな意味だけれど、この曲もそれに近い。デュオに戻ってアルゼンチンタンゴの古典的な曲(といっても初めて聴く曲だったけれど)を2曲「ラ・トランペーラ」と「酔いどれたち」をプログラムとは逆の順で披露して、大トリは藤井眞吾編「ラプソディ・ジャパン」。これは文部省唱歌や子守歌などを集めて編曲したもので結構長い1曲。演者が二人でこの曲が好きなんですよといいながら弾いて見せたけれど、個人的にはそれほど感銘は受けなかったので、ちょっと残念。アンコールは紹介なしに始まった曲で聞き覚えはあるけれどタイトルが思い出せない(葵姫のツイッターを見たら鈴木大介編曲「ニューシネマ・パラダイス」のテーマだった)。
 コンサート自体は非常に満足のいくもので、村治奏一の溌剌とした現代ギターの強い響きとテクニックのおかげで、葵姫のギターの響きがいかにユニークなものであるかが確認できたのが嬉しい。次回はソロで聴きたい。

 昨年末は地元映画館で『スターウォーズ/最後のジェダイ(吹替版)』を見た。前半やや退屈だったけれど、後半は見せ場が多くてそれなりに楽しめた。『ローグ・ワン』の影響か、見せ場で特攻精神が強調されすぎていてちょっと困惑。ルーク・スカイウォーカーはギャグっぽくて好きだ。あとヒロインの若さたっぷり感が魅力的。これでオリジナルのメイン・キャラ3人は次回以降(現実的にもストーリー上でも)ヴァーチャル出演ということになるのかな。

 正月に広島福屋百貨店内の八丁座でようやく『この世界の片隅に』を見ることができた。映画自体は15回目の鑑賞。八丁座は音響調整が良くてステレオ感たっぷり。箱が小さいので迫力は無いけれど、クリアな音が気持ちよかった。スクリーンの中で主人公がスケッチしているその建物の中で見ているというのを経験しておきたかったので、とりあえず満足。映画館で見るのはこれが最後になるかな。

 田中啓文『宇宙探偵ノーグレイ』は、「輪廻惑星テンショウ」が既読で、主人公が現世に戻れない結末が印象的だったけれど、そのパターンで統一された短編集だったとはビックリ。その意味でどの収録作も超カゲキなストーリー展開で無茶振りが楽しめるけれど、謎解き自体はちょっと弱いかも。YOUCHAN描くところのカバーイラストがよくできている。

 読む気は無かったのだけれどちょっと読み始めたら調子よく読めてしまったのが、エリザベス・ベア『スチーム・ガール』。楽しく読めたけれども、これは女の子向きのヤングアダルト版スチームパンクで、舞台がとっても狭い。その舞台となるのが娼館でヒロインたちは娼婦なんだけれど、お仕事の場面はないのでジュヴナイル的なお気楽さが横溢している。しかし帯の宣伝文句にある「蒸汽駆動の甲冑機械」がミシンと訳されているので最初は混乱したよ。

 ハヤカワ文庫で日本SF第1世代の分厚い短編集が出ているけれど、いまのところちょっと手が出ないので、筒井康隆『繁栄の昭和』を読んでみた。昨年8月刊。200ページちょっとの薄い短編集だ。それでいて12編収録で最後のノンフィクション「高清子とその時代」が40ページ余り、ということで平均10ページちょっとの作品ばかりである。最短はコント2題の2作で、どちらも見開き2ページのホントにコントだった。これらの短い作品の掲載先のほとんどが文芸誌であり、80才を前にした筒井康隆の自在振りがよく分かる作品集といえる。
 表題作をはじめとする古い探偵小説(乱歩や海野十三)へのオマージュ的な作品群と「リア王」「役割演技」「つばくろ会からまいりました」などの昔でいえば「お紺昇天」系なセンチメンタルな結末がある作品に実験的スラップスティック「メタノワール」「横領」そして解説者の松浦寿輝が偽フォークロア系とする「一族散らし語り」とヴァラエティに富んでいる。完成度という点では「一族散らし語り」が一番印象的だけれど、老大家筒井康隆には完成度など眼中にないかも知れない。 

 筒井康隆と並んで現役の第1世代SF作家である眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書)が、なぜか新刊棚の目立つところにあったので、出版当時は読んでなかったこともあり買ってみた。棚をよく見ると最近テレビ番組で誰ぞやが紹介とか言うパターンで、急遽増刷されたらしく11月30日12刷となっていた。棚には作品だけを集めた文庫もあったのでついでに買っておいた。
 読んだのは新書の方だけだけれど、妻ただ一人のためにプロの作家として精力を傾けて1778日のあいだ毎日1話を仕上げたというのは、やはりすさまじいことではある。そしてここに収録した1編1編にまつわる作者の思い出が語られることで個々の作品の出来不出来が無効になっている。とはいえSFになっている作品が面白いと感じられるのは、作者も読み手もSFが好きだからだろう。

 最近では滅多にないことだが、読んでる最中ずっとニヤニヤできて幸せだったのがダグラス・アダムズ『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』
 まずこの作品は、読む前に訳者あとがきを絶対に読まないこと、訳者あとがきは読了後に再度読むが吉。というのは、訳者あとがきで安原和見が「そこでさっそくネタバレであるが、本書の大筋はこうだ―」と、この探偵小説のSF的からくりと謎解きを全面的に解説しているからで、作者が繰り出す素っ頓狂なキャラクターたちのセリフや行動をグフグフと笑いながら読めるという点ではやはり、何の情報も入れずに頭から読んだ方がいいと思う。まあ訳者後書きを読んだからといって、結末に近づけばSFファンにはおなじみの仕掛けが見えるので大して影響はないのかも知れないが。

 第5回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作、樋口恭介『構造素子』はそのコワモテの設定が読み手を翻弄するけれど、読み終わってみれば、これはドナルド・ウォルハイムの名/迷言「SFはSFの上につくられる」の最新版ですね。まあウォルハイムの時代に較べるとSFの範囲がめちゃくちゃ広がっているのでそうは見えないかも。
 読んだ後で気がついたのだけれど、表紙に小さく「LOGS of L8-P/V2, L7-P/V1 and others」とあって、これがこの物語の構成を示している。コワモテは「LOGS of L8-P/V2, L7-P/V1」という構成にあるのだけれど、腰巻きにある「ギブスンやスターリングになれなかったSF作家ダニエル・ロパティン。彼が、息子エドガーに遺した未完の草稿にして、現代SF100年の類い希なる総括」という文句が、これからコワモテらしいSFを読もうとする読者へのガイドなっている。もっとも最後の一文は編集者の評価であろう。
 それに気がつくと、本来の目次にはない冒頭(及びエピローグ後)の散文詩みたいなものと「A='A=false and A=true'」が、よくある「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」という意味にも見えてくる。
 コワモテ部分はメインストーリーが、巻末付録の選評で東浩紀が云うよう父と子の物語になっていて、それはリプロダクションに翻訳することができるかも知れない(それともシステムと誤配?)。一方「others」は父が書き残した作品の中で様々なSF的なエピソードの断片が語られるが、それらはSFへのオマージュでありレトロスペクティヴであるといった感触を醸しているため、「現代SF100年の類い希なる総括」ということになったのだろう。もしかしたら『構造素子』というのは目くらましかも知れないな。

 同時受賞の津久井五月『コルヌトピア』は短い長編でたった180ページ、しかも文章が普通に読みやすい1冊。
 短いだけあって主要登場人物は男女2人に男の方へ絡む重要なサブキャラクター1人というシンプルさで、物語的にもほぼ一直線。でも、肝心なのは選評にもあるように植物コンピュータ的環状緑地帯に囲まれた東京23区というイメージだ。残念ながら当方にはそれほどクリアに視覚化できなかったけれど、ヴィジョンとしてはとても魅力的で、SF的裏付けもわりと説得力があってオーソドックスなSFとしてまずよくできた作品といえる。ただ、これも選評にもあるように、主人公たちの作り出すドラマにもう少し熱量がほしいところだけれど、落ち着いた文体なので無いものねだりかも知れないな。

 モリミー「初の決定版エッセイ大全集」と腰巻きに謳われた森見登美彦『太陽と乙女』は、デビューから14年間に書かれたモリミーの雑文を集めただけあって400ページしかないのに大量の雑文が収められている。
 作家本人が一気読みには向かない本だと主張しているが、確かに一気読みは難しかろう。たぶんモリミー汁で中毒症状が出かねない。
 まあ既に明らかであるが、モリミーは真面目であるので、基本的に雑文にはそのモリミー的真面目さが横溢している。モリミーはワタクシ事を目一杯さらけ出しているようであるが、それはモリミー的解釈と技法によって作品化されているため、生々しさはいっさい無い。これがモリミーの醸す文体の特徴であろう。
 巻末の「『森見登美彦日記』を読む」と台湾の雑誌に2年間にわたって連載されたという「空転小説家」が本書の売りである。
 それにしても売れっ子作家になったがためにスランプに陥ったというのは、モリミーらしい上品印だ。

 そういえば『SFマガジン』の最新号の表紙を見て一瞬裏表紙かと思ってひっくり返したよ。両面表紙あっても両面裏表紙はないわなあ。
 


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