続・サンタロガ・バリア  (第182回)
津田文夫


 ようやくバタバタも収まりつつあるので、開館10年目にして初めて三原市のポポロ・ホールへ行ってきた。広島県内で1500人以上はいる大ホールがあるのは、広島・福山・呉の3市ぐらいだけれど、21世紀になる頃から700人から1200人程度の中規模ホールがいくつか小規模な市にも建てられるようになってきた。ポポロ・ホールもそのひとつ。
 JR呉線で約2時間電車に揺られながら30年ぶりくらいに三原の駅に下りてみると、駅前が昔の記憶とは全く違っていて、ほとんど人通りがない。30年前は駅前に小さな百貨店があり、それなりに賑やかだったように思ったが、今はさっぱりとした感じのバスターミナルになっている駅前広場に、ほとんど人通りがないのだった。目指すホールはバスで10分ほどの広い公園内に建てられていた。
 と、まあなんでそんなところにあるホールへわざわざ出かけたのかというと、堀米ゆず子がバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを演奏するという新聞広告を見たからだ。堀米ゆず子は1957年生まれ。1980年のエリーザベト王妃国際音楽コンクールで優勝して、その記念コンサートが、当時NHK-FMで放送されたのだけれど、このときのシベリウスの協奏曲の演奏がとてもはつらつとして耳に残るものだった。その演奏は話題となって後にレコードにもなったほどだ(もちろん買いました)。だけどいまでも記憶に残るのはレコードではなくてFM放送で聴いた演奏の方だ。
 その堀米ゆず子を生で聴いたのは、30年ほど前のこと。来日オーケストラがなんだったかは思い出せないが曲はメンデルゾーンの協奏曲(ググったら、1986年のスロバキア・フィルハーモニー管弦楽団で指揮はズデニェク・コシュラー)だった。当時30才手前だった堀米ゆず子のヴァイオリンは、コンクールに優勝したときのちょっと不安定だけれどきらめきを発する若々しいものから、見事に安定した音色を奏でるプロのヴァイオリニストのそれに変わっていた。以来30年、堀米ゆず子はヨーロッパに活動拠点を移していたこともあり、これまで聴くチャンスがなかった。
 数年前に堀米ゆず子がバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲をCDにして出したことは、CDジャーナルで読んだ覚えはあるけれど、そのときはピンと来なかったのか、買ってない。しかし、生で聴けるとなれば話は別だ。
 コンサートの開演は午後3時という変則的なマチネー。普通は2時間のコンサートだから、1時間に1本しかない電車との時間あわせが、ちょっと心配だったけれど、終わってみれば、これは杞憂だった。入場料は4000円と良心的と思ったけれど、プログラム(手作り)を見て納得。パルティータの3番と1番で前半、後半はソナタ3番1曲のみ。有名なシャコンヌが入っているパルティータ2番を含め残り3曲は、来年1月に同ホールで古澤巌が弾くことになっていた。ということは全曲弾いても1時間足らず、休憩とアンコールがあったとしても80分程度の演奏会なのであった。
 ホール内部は装飾に気を遣わず音響の方に力の入った感じするかなり広いステージを持ったものだっった。堀米ゆず子は還暦を迎えただけあって、昔よりスタスタとそっけなくステージ中央に立ってちょっと頭を下げてすぐにパルティータを演奏し始めた。コンサートの副題が、―グァルネリ・デル・ジェスを弾く―というくらいのものなので、さすがにデル・ジェスの響きはストラディヴァリウスに比べると甘やかなことがわかる。パルティータは基本的に短い舞曲の組み合わせ(シャコンヌだけが長い)なので、次から次へと様々な曲想(?)が現れては消えていく。堀米ゆず子のパルティータは鬼気迫ったりはせず、見事な音色/響きで見事にコントロールされた強弱を聴くものに心地よく届けてくれる。
前半のステージは明るいままだったけれど、後半のソナタになると、照明を落としてスポットの中で演奏して見せた。その演出はパルティータとソナタとの性格の違いを強調するように聴衆にも集中力を求めるような雰囲気を醸して、実際の演奏もパルティータに比べシリアスな表情を感じさせるものだった。拍手が続く中、短い曲(パルティータの1曲?)をアンコールに弾いて、笑顔を見せたあとまたスタスタとステージをあとにしてコンサートは終了したけれど、そういえば堀米ゆず子は一言もしゃべらなかったような気がする。演奏自体は満足のいくものだったので何の不満もない。
 帰りはホールが用意した送迎バスで三原駅へ。5時過ぎの列車で再び2時間揺られて帰途についたのであった。

 2015年に大阪フェスティバル・ホールで2日目公演を見たキング・クリムゾンは、その後も解散することなく、年寄りバンドらしいペースでライヴを続けているようだ。クリムゾンは好きだが、次々と出るあのCDが20枚とか入っているボックス・セットはもはや買う気がしない。還暦過ぎて集中力がなくなったので買っても全部聴く気力がないだろうと思われる。
 ということでこの秋は立て続けにでたCD2枚組3セット(あ、ひとつは3枚組だった)を聴いていた。
 ライヴ・ツアーに合せてつくられるTHE ELMENTS 2017はグレッグ・レイクとジョン・ウェットンが亡くなったことを受けて何か入れてあるかと思ったら、いきなりグレッグ・レイクのヴォーカルのみの、アカペラ版「21世紀の精神異常者」が始まり、2番に入るところで現在のバンドのライヴがバックに流れるという、なかなか泣かせる演出。ウェットンの方は演奏テンポがほぼ限界状態のThe Great Deciever の1974年ライヴで、これも嬉しい。どちらも1枚目のCDに収められていて、2枚目は「太陽と戦慄」PartⅠからLevel Fiveまでのライヴ・トラックを順番に並べて、曲間に1974年ライヴの一部を挟み込んだもの。アイデアとしてはいいんだけれど、曲と演奏の出来がまちまちでこちらの集中力が続かなかった。なお、1枚目の方に入っていたクリムゾンの3枚目のアルバム『リザード』の1曲目Circusの2016年ライヴを聴いたとき、不覚にもちょっと目頭が熱くなった。

 注文するタイミングの都合で、先に聴いてしまったのがLIVE IN CHICAGO。2017年公演のオフィシャル・ブートレッグ。セットリストからはファースト・アルバムの「エピタフ」や「クリムゾン・キングの宮殿」が落ちて、代わりに80年代クリムゾンのNEUROTICA やINDICIPLINEが入っている。また「サーカス」やTHE LIZARD SUITE といった、2010年代クリムゾンになってようやくフリップがライヴ演奏を実現したサード・アルバムの曲が顔を出している。
 1980年代クリムゾンの曲はさすがにジャッコとしても歌いづらいようで、「インディシプリン」の歌部分がかなり編曲されていた。「ニューロティカ」はTHE CONSTRUCTION OF LIGHT 同様歌なしの演奏のみだ。アルバム『レッド』からは今回 FALLEN ANGEL が演奏されて、これで『レッド』の曲はインプロヴィゼーションを除いて全曲ライヴ演奏されたことになる。
 しかしこの2017年ライヴで一番印象的だったのは、ジャッコの歌う ISLANDS だった。この全くドラマチックな展開をしない鎮静剤みたいな曲が、スタジオ盤同様に聴き入ることが出来るものだったのには驚いた。久しぶりに聴いた「アイランズ」のメロディーがしばらく頭を離れなかったくらいだ。

 と、結構刺激的だった2017年ライヴのあとで、わざわざ国内盤を買った『ライヴ・イン・ウィーン2016+ライヴ・イン・ジャパン2015』を聴くことになったのは、ちょっともったいなかったけれど、まずボーナス盤の2015年日本公演の各日から1曲ずつ取った盤を聴いてみた。
 実演を見た大阪フェスティバル・ホール2日目からは「メルトダウン」が入っていて、当日は全くこちらの頭に入っていなかった新曲と云うこともあって、何が何だか分からないうちに終わったような記憶しかないが、いまやすっかり曲調になじんでいるので、フツーに、ああ「メルトダウン」だなあ、な感じしかしない。それはそれでちょっと悲しい。
 このボーナス盤の最後におまけとしてシカゴ公演の「アイランズ」が入っていた。こちらで初めて聴いたとしてもやはり驚いたろうが、予告編的な扱いなので、2017年ライヴ全体の中で聴いた時のような驚きではなかったろうと思う。
 2016年ライヴの方は2017年ライヴのあとで聴くと、過渡期の演奏のように聞こえてしまうのは仕方がないだろう。この演奏を聴いていると2014年以来演奏している曲は見事に安定した演奏になっており、同じ曲でも少しアレンジが変わってきていることが分かる。その意味では2017年ライヴの定番曲はもはや衝撃力が弱まったといえるかも知れない。そういえば2017年盤の定番曲はやや演奏にラフさが増しているような気がした。2016年盤で印象的なのは、この年からセットリストに入った「サーカス」と「インディシプリン」の演奏だ。特に「インディシプリン」の方はジャッコの歌がまだ変な感じがして2017年とはだいぶ違う緊張した印象を与える。ボウイが亡くなったことでアンコールナンバーとなった「ヒーローズ」の方はボウイらしいポップなナンバーで、ジャッコの歌に不安定感はまったくないんだが、面白いとも思えない。

 ようやく読めた国書刊行会スタニスワフ・レム・コレクション最終巻『主の変容病院・挑発』は、初期リアリズム長編という『主の変容病院』がとても興味深く読めた。
 1948年に書かれたという物語からは、若い精神科医の視点で描かれたナチス軍迫る時代のポーランドの暗さが伝わってくるが、その雰囲気は精神病院が舞台と云うこともあってどこかバラードを思わせる。しかし、実際に感じられるのは『ソラリス』と同じ質感だ。それは主人公と同僚の精神科医そして患者である詩人との関係がもたらしている。
 視覚的なクライマックスは脳外科手術の執拗な描写だが、物語的には精神病患者をナチスの手から守るため解放しようとしたワルプルギスの夜みたいなシーンだろう。
 解説を読むと、レムはこの長編を一種自伝的なものとして描き、3部作の大長編にしたらしいが、2部3部は社会主義国家の制約に合わせるよう改変を迫られて、とことん嫌気がさしたらしい。それが後にSF作家レムを誕生させたわけで、ファンとしてはなんとも言いがたい。
 80年代に出た『挑発』の方はレムらしさが横溢した架空書評もので、宇宙論などは現代の理論とちょっと違うような気もするが、気宇壮大かつ皮肉だ。

 最近はハリウッド映画化で3部作とかの惹句を目にすると、とたんに読書意欲が失われるのだが、まあ世評は高いので、眉にツバ付けて読んだのが、ラメズ・ナム『ネクサス』上・下。のっけからいかにもベストセラー3部作風のSFアクションで、ハイパーITソフトにナノテクがらみそして意識変容がらみのハイテンポなストーリー運び。どうもこれは退屈しそうだと思ったら、途中でニュータイプの悲劇的な思い込みがメインになって、えらく古典的なSFドンパチものになっていく。まあ十分うまく書けていると思うが、あんまり興味は持てないなあ。

 ちょっと目先を変えようと手を出したのが、ちくま文庫から出たレオ・ペルッツ『アンチクリストの誕生』。表題作含め8篇を収めた短編集。名前はよく聞くが読むのは初めてだった。
 なんとなく19世紀末の作家と思っていたが、解説を読むと、19世紀末のプラハに生まれ、ナチス台頭まではウィーンに生活したユダヤ人作家だった。
 この短編集は生前発刊された唯一のものということだけれど、いかにも中東欧の物語作家らしい面白さを醸すタイプだった。作家自身が第1次世界大戦で負傷したこともあって、その体験から生み出されたと思われる作品がいくつかある。冒頭のロシア革命がらみの粛正を扱った「主よ、われを憐れみたまえ」やそれに続く「1916年10月12日火曜日」そして中編の「霰弾亭」などがそれに当たるが、語られる物語そのものは一種の綺譚である。
 80ページある表題作は、それらと違って18世紀半ばのパレルモを舞台に、いわゆる「悪魔の子/アンチクリスト」が生れる物語で、視点は父親側に傾いた一種のドタバタ劇である。アンチクリストの正体が明かされる幕切れこそキリスト教徒でない日本人読者にはへえーってなものであるが、話の運びはとても面白く、印象深い。
 この短編集の訳者である垂野創一郞の訳で国書刊行会から何冊も翻訳が出ているようだが、それらの長編が読みたいかというと、今はその時間がないというところ。その前にグラビンスキを読まないとなあ。

 結構速いペースで出る長編がどれも面白くて好調なことが分かる神林長平『オーバーロードの街』は、帯の惹句がミスリードするように、一見どこまでもエスカレートしていく電脳スペースからの侵略もののように思えるエンターテインメント。
 500ページもあるので、メインキャラだけで3人、メインキャラのカウンターとして重要なサブキャラも3人いて、ひとつの筋立てに全員が絡んでいて物語は忙しい。
 しかしサスペンスやアクションに各キャラが背負うあれこれと、いっぱい詰め込まれた話の、本来クライマックスであるべき場所にはめ込まれているのは、神林のテーマである意識そのものに対する考察なのだ。だから幕切れは何か放り出されたような感じで、惹句の「人類の滅亡の予兆」やエスカレートしていく状況の元凶である〈地球の意思〉が何だったのかのはわからない。

 ノンフィクションで読んだのは、まず円城塔+田辺青蛙『読書で離婚を考えた』。これは夫婦で互いに読むべき本を指定して、夫婦が交互にその本の感想もしくはそれ以外のあれこれを記した、いわば夫婦の交換日記みたいなもの。フツーはそんなもの読まないよ。 しかしこれは一種の掛け合い漫才で、あっという間に読み終えてしまった。ま、おもろい夫婦のおのろけエンターテインメントだなあ。

 もう1冊は早川書房ノーベル賞3冠のひとつ、ジャンナ・レヴィン『重力波は歌う アインシュタインの最後の宿題に挑んだ科学者たち』
 これは実用に耐える重力波観測施設LIGO(ライゴ)が完成して初めて重力波を観測するまでの歴史と、それに関わって重要な役割を果たした科学者たち(基本的に全員男)に女性天文物理学者が取材して、とても興味深い読み物に仕立てたもの。文庫で300ページだから日本で云えば新書みたいなものだ。
 腰巻きの惹句に「ノーベル賞受賞間近!」とあるように、キップ・ソーンたち3人がノーベル賞受賞以前に文庫化されているので、少なくともカズオ・イシグロよりは受賞確実ことが分かっていたのだろう。2016年出版のこの本ではLIGOが最初に重力波を関知するところまで書かれているので、いかに狙って文庫化されたかが分かる。
 肝心の中身の方は重力波そのものの解説はとても簡素化されていてわかりやすいが、主眼は科学者たちの織りなす人間ドラマである。そして印象深いのは、ここでも外れくじを引いた科学者たちのエピソードだ。実験装置自体は失敗だったが、重力波観測のアイデアに大きく貢献したジョセフ・ウェーバーや本来ならノーベル賞受賞者に名を連ねるべき貢献者なのに失意の内に亡くなったロナルド・ドレーヴァーそれにプロジェクト責任者としては大役を果たしたのにプロジェクト責任者を追われたロビー・ヴォートなど、問題のあるキャラクターの持ち主だったとはいえ、彼らのその後は悲しい。原著のタイトルBLACK HOLE BLUSE はその意味で付けられたのだろう。でも日本人にとっては邦題の方がなじむことは確かだ。

 そういえば遅ればせながらまだ上映中の映画館に行って、『ブレードランナー2049』を見てきた。息子も見たいというので一緒に見た。
 一番の感想は「長いなあ」というものだった。前半主人公自身が纏う謎がサスペンスを生んでいて、ワクワクして見ていられたのだけれど、デッカードのオヤジ(じゃないけど)に会いに行くところぐらいからどうも緊張感が失われたようで、結果、長いなあという感想になったのだろう。息子も最後の方になると面白くなかったと云っていたので、親子して似たような感想だったらしい。


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