続・サンタロガ・バリア (第181回) |
相変わらずバタバタで、また2ヶ月サボってしまいました。
前回紹介した本屋で買ったCDは、ケンペがフィルハーモニア・オーケストラを指揮してモーツァルトのオペラ序曲4曲とアイネ・クライネ・ナハトムジークを振ったものだけど、この曲目は以前買ったテスタメント盤にあったことを思い出して、引っ張り出してみたら、なんと全く同じ演奏の録音だった。
テスタメント盤は2002年発売で、ボケた頭で15年もたてば、気がつかなかったということもあるけれど、聴き比べてみると、初めて聴く演奏だと勘違いしても無理がないほどまったく音の響きが違うので、改めてビックリした次第。
テスタメント・レーベルは当時(今やワーナーに買収されてしまった)EMIの持つ古い音源を丁寧にデジタル・リマスタリングすることで有名だったが、この盤で聴くケンペのモーツァルトは、しなやかでややつつましく、ヴォリュームを上げて聴くとようやく今回買ったCDの響きが少し感じられるようになる。テスタメント盤のリミックスが出来るだけアナログ録音の良さを残そうとしたものだとすると、今回の廉価版は各楽器パートの響きを強調したリミックスになっており、いわばデジタル画像のように輪郭線がくっきりと浮き上がり、カッティングも音圧を高めにして、一聴はつらつとした演奏に聞こえるようにしてあるのだ。
前回、「モーツァルトの音楽をいかにもケンペらしいアポロン的響きで鳴らしている」と感じたのは、このCDの制作者がおそらくマスタリングを適当にやったからではないかと思われる。ま、400円足らずで面白く聴けるんだから文句は言うまい(ゆうてるよ)。
最近次々と出た2010年代型キング・クリムゾンのライヴ盤等については次回まわしです。
まったくといっていいほどノンフィクションが読めない。前回次の機会にといったもののここで紹介できるのは春頃に出た3冊だけである。
仁科邦男『犬たちの明治維新―ポチの誕生』は草思社文庫2月刊。以前新書の『犬の伊勢参り』が話題になった作者の、幕末・維新期の資料から犬に関わる文献を博捜して、明治維新が犬たちにとってどれほど悲惨な文明開花だったかを語る1冊。後半は西郷隆盛と犬をとりあげて、その関わりを深く探っている。
西郷さんは幕末・維新期最大の評価を受けた人物で、勝海舟や坂本龍馬、アーネスト・サトウらが絶賛するキャラだけれど、個人的にはあまり興味が持てないので、フーンというところだった。一方、文明開化以前の村に住む犬たちは、基本的に村全体で飼われており、個人の飼い主というのは、武家や寺社以外には滅多にいなかったのが、明治維新以降飼い主が明らかでない犬はすべて野良犬とされて、処分されてしまったという前半の話がとても印象的だった。
ポチの語源については諸説あり、著者は居留地の西洋犬にまだら模様が多かったので、日本人が西洋犬たちを「ブチ」と呼び、それを聞いた英語圏の外人が犬は「ブチ」なので、日本語を翻訳して犬のことを「パッチ」と呼ぶと思い、日本人に向け犬をさして「パッチ」と呼んだため、今度は日本人が外人は犬のことを「パッチ」と言うんだと思い込み、日本人も犬を「パッチ」と呼び始めたが、それが「ポチ」へ変化したという説を支持している。これはそうかも知れないなというほどの説得力しかないのが残念。
同じく草思社文庫で4月に出たのが渡辺尚志『百姓たちの幕末維新』。こちらは当時日本の人口の8割以上を占めていたはずの百姓にとって、幕末明治維新は現実としてどういう作用をもたらしていたかを、出羽国(山形県)の一地域にあった村々の資料を中心に、当時の村人の様子を描き出している。
近世後期の百姓が構成する村は基本的には自治集団で、田畑(もしくはそれに代わるもの)から収穫を得ることがその存在理由である。しかし幕末ともなると農村の経済的社会的矛盾はそれまでの農村体制を突き崩すところまで深刻化していて、特に農地に関わる金銭貸借は村の崩壊につながりかねないものだった。それでも武士階級が村に口出しすることは、村側の要請がない限り滅多に出来なかった。
一方、戊辰戦争において官軍と旧佐幕勢力の戦いは北陸東北地方で最も烈しい戦いとなったが、侍同士の戦いに借り出される百姓はいても、志願して侍同様に戦いたいという百姓は少数であった。この戦争において戦いに借り出された百姓の多くは軍夫として、いわゆる軍属的な役割を負わされたようで、身分は百姓でも直接の戦闘員は農兵という形でサムライ扱いになった。侍側も村にとどまる百姓に対してはあくまで生産者としての百姓として対応するので、めったやたらに村を荒らしたりするわけにはいかないのだった。もちろん激戦になった場合は村を焼き払ってしまうこともあったが、そしてそれを実行したのが農兵だったいう悲惨も見られたらしい。
あと、幕末に頻繁に起きた百姓一揆も取り上げられて、その様子を描いた絵がカバーに使われているが、百姓一揆はあくまで百姓社会の矛盾に対して生起しており、同じ百姓身分でも富裕層と貧困層との間で一揆が行われることが多い。百姓一揆が領主を初めとする武士階級に対する直接抗議の形をとることは珍しいといえる。
本書では、幕末の百姓/村を説明することに大半のページを費やしており、明治維新後の作用としては、地租改正がその最大のものだったが、これについては巻末に1章を設けた程度で、詳しくは語られていない。廃藩置県と地租改正が武士と百姓がもたれ合った江戸時代の社会構造を終わらせたことについて、もう少し語ってもらえればよかった。
4月に出たけれど読んだのは夏頃だったのが、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』。20年近く前にデビュー作『存在論的、郵便的』を読んだのは、名大SF研の「ミルクソフト」で紹介されていたからだったことを思い出しながら、「新展開」とされる「観光客の哲学」と併録の「家族の哲学(序論)」を読んだ。
なんで「観光客」なのかという疑問に対して、東はルソー・カント・ヴォルテールなど18世紀啓蒙哲学の流れからヘーゲルを経由したあと、20世紀に入ってカール・シュミットの政治学、コジェーヴのヘーゲル論そしてハンナ・アーレントの人間理解を参照し、20世紀知識人による「人間」のとらえ方では21世紀を生きる我々に希望を与えないことを理由に挙げる。引用すると、
「・・・二〇世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間でないもの」の到来として位置づけた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がクローバリズムが進む二一世紀で通用するわけがない。実際、人文学の影響力は今世紀に入って急速に衰えている。だから、ぼくたちは人文学そのものを変革する必要がある。それが、本書の基礎にある危機意識である」(110ページ)ということだ。
そして次のページで東は、
「観光客は、その企図のためにとても適した存在である。観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上をを飛まわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集まっている。観光客はまさに、二〇世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、二〇世紀の思想の限界は乗り越えられる」(111~112ページ)と熱弁する。
この考え方は非常に興味深いが、東はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『帝国』(訳書では『〈帝国〉』という山括弧が付く)という、冷戦後の世界を分析した本から「マルチチュード」という概念を取り出し、「観光客の哲学」を考える上で土台を提供するものだとした。だから腰巻きの裏の惹句が「ネグリたちのマルチチュードは、あくまでも否定神学的なマルチチュードだった。〔・・・・・・〕けれどもぼくたちは、観光客という概念のもと、その郵便化を考えたいと思う。(以下、略)」という本文の引用になっているのだけれど、これがよく分からない。処女作『存在論的、郵便的』がそうだったように、ここには決定的な結論はない。ここにあるのは東が突き詰めようとした考察の過程であって、処女作が考察の過程それ自体が面白かったように、面白く読めるだけである。そしてそれで十分なのだろう。
「家族の哲学(序論)」は「観光客の哲学」を踏まえているけれども、お父ちゃんである東浩紀の思想の始まりというところかな。
フィクションの方も新刊を2ヶ月以上遅れて読んでいる状態だけれど、以下のようなところまで読んだ。
2年前に話題作だったミシェル・ウエルベック『服従』が4月に文庫化されたので、読んでみた。
フランスで政治状況の混乱からイスラム教徒の大統領が誕生するという設定が話題になったのだけれど、ウエルベックが今回作り上げたユイスマンスを研究する大学教授の語り手は、これまでの作品に登場したメインキャラクターとして一番衰弱した人物といえるだろう。
イスラム教徒が大統領になると云うことは、国立大学の教授であろうとすればイスラム教徒にならなくてはならないということを意味し、当然主人公は逡巡する。それまでのヨーロッパが築き上げた文化が主人公に与えてくれた享楽は、しかしイスラム教に帰依しても本質的に変わるわけではないと思えるようになり、主人公は選択する。
ま、「服従」のたとえに『0嬢の物語』が使われているようないかにもウエルベックらしい通俗さで、読みやすくわかりやすいが、ウエルベックの作品としてはあまり上出来とは言いがたい。
株式会社共和国という出版社(?)から出たルスタム・カーツ『ソヴィエト・ファンタスチカの歴史』は、その装幀を含め、ヘンテコとしか云いようがないの1冊だった。
訳者解説を読まずに読み始めたものだから、何が何やらの違和感がずーっとつきまとう状態で、読んでも読んでも、これがどこまでまともなノン/フィクションなのか判断が付かないままだった。さすがにウェルズやアメリカの作家たちが出てくれば、これが全くのフィクションであることは明らかになるのだけれど、そうなったらそうなったで、この作者は何でこんなものを書く必要があったのか、と思ってしまう。腰巻きにあるように「反革命的メタメタフィクション」と云うには、読む方の内容に対する基礎知識が決定的に欠けているために、フィクションが機能してくれないのだ。
おそらくこれを読みながらギャハハハと笑える読者がロシアには多数いるのかも知れない。特にスターリン/主義の狂気が文学に及ぼした影響は、ショスタコーヴィッチに代表される音楽への影響と同じかそれ以上だったのだろうが、この作品からではそれがギャグとしてよく理解できない。
解説を読めば、作者名からしてフィクションであるから、タイトルが意味することもフィクションであるということに何の疑問もないけれど、それがソ連SF史に応用されるとここまで正体不明の作品になるのかという驚きに圧倒された。叢書「世界浪曼派」というのも意味不明。まあ、奇書ですな。
ここからは8月に出た新刊。
コードウェイナー・スミス『人類補完機構全短編3 三惑星の探求』は、キャッシャー・オニール関連の全4作(三惑星なんだから3作じゃなかったのか)を含む全短編集の完結編。奥さんがスミス名義で書いた作品まで入っているのはさすがにどうかと思うけれど、まあ作品は悪くない。
キャッシャー・オニール・シリーズは、本来オニールが出身惑星の専制者に追放され、彼を倒す目的で必要なものを手に入れるために冒険をする設定だったはずだが、専制者を倒す場面はオニールの冒険の素晴らしさに対比して非常にあっさりしたものになっており、作者の興味は冒険譚そのものにあったことが分かる。
その冒険譚は集中一番長い第2作「嵐の惑星」で頂点を迎える。話の展開は2段構えで焦点が合っていないような感じがつきまとうが、そんなことはお構いなしにコードウェイナー・スミスにしか書けない世界が強烈な魅力を発揮している。第3作「砂の惑星」と最終作「三人、約束の星へ」はSFとおとぎ話が合体したような 感触があり、内容的な繋がりはないけれど、モーツァルトのオペラ『魔笛』を思い出した。
大野万紀さんが解説でゼラズニイがコードウェイナー・スミスの大ファンだったことに言及してくれたのがうれしい。
新☆ハヤカワ・SF・シリーズから出た、アダム・ロバーツ『ジャック・グラス伝 宇宙的殺人者』は、予想と違って、中編3作で構成されており、1作目の小惑星/密室パターンの物語づくりがちょっと斬新で、もっとアクロバティックな作品なのかと思ったら、舞台や設定はオーソドックスなSFなのに、話の展開は通常のミステリになっているというものだった。
これがなぜジャック・グラス「伝」(原題はJack Glass)なのかは、結末で明かされるが、ミステリ好きはすぐ分かるのかなあ。ま、シャーロック・ホームズの物語もシャーロック・ホームズ「伝」に違いない。
話を作るうまさにおいてまずは保証付きともいえる、ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』は、高齢者施設に入れられたアルツハイマー症の老女の混乱する思考の流れから始まるが、そこから彼女の二つの人生が交互に回想されていく構成は、下手な作家では説得力に欠けただろうが、この作者にその心配はない。
この二つの人生がSFとして読めるのは、作者がその方向に読者を誘導している所為だけれど、SFではなくそういう記憶自体が症状である女性の回想として読むことも可能だろう。これがフェミニズムSFだといわれればそうだけれど、それが押しつけがましくないのは、この作者の物語づくりのうまさを証明している。
だんだん翻訳SFの供給源になってきた竹書房文庫から9月に出た中村融編『猫は宇宙で丸くなる 猫SF傑作選』は、アンソロジスト中村融のなかなかチャレンジングな作品選びがうれしい1冊。やはりライバー「影の船」を埋もれさせておくのは良くないよね。
ジョディ・リン・ナイ「宇宙に猫パンチ」は他愛ない小品だが、日本語タイトルはやり過ぎなくらいウケ狙いで、その他愛なさが印象的だった。
猫が出てくるSF/ファンタジーという縛りで、先行アンソロジー収録作をよけてなお、これだけバラエティがとれるんだったら、SF/ファンタジーという縛りなしでは何十冊とアンソロジーが出来そうだ。だけど、英米の猫が出てくる短編を読み尽くしたという日本人アンソロジストはいないだろうな。
今回は翻訳SFを読むのに精一杯で、国内は次の2冊だけ。
藤井太洋『公正的戦闘規範』は、大野万紀さんが解説の冒頭に記したように、この作者初の短編集である。って、え、そうなの、と思えるくらい既にたくさんの短編を書いている印象があって、ビックリしてしまう。確かに藤井大洋がSF作家としてデビューしてようやく5年が過ぎたばかりなのだった。しかしその活躍振りを見ていると、ずいぶん前から活動しているように感じられる。
収録作はどれも読ませるし、題材のバラエティと共通するコンピュータ/先端技術への信頼が幸せな読後感をもたらす。それは腰巻きの惹句が雄弁に語っているような安定/安心感だ。その意味では長い間「暴走するテクノロジー」を描くことに力点を置いた先行する日本SF作家との違いは大きいが、小川一水の存在を考えれば、そういう世代であるともいえるかもしれない。
それにしてもここに収録されていない短編を思い浮かべると、すぐにでも第2短編集が編まれても不思議はないと思える。
小川哲『ゲームの王国』上・下は、以前出た伊藤計劃トリビュート・アンソロジー第2弾にかなり長いプロローグが掲載されて、SF味は薄いけれど、ポルポト時代がはじまろうとするカンボジアを舞台に、超常能力者的な子供達をメインにしたマジック・リアリズムを彷彿とさせる物語づくりが強い印象を残したので、結構期待して読んだ。
こうして完成した長編で読むと、上巻に収められたプロローグのマジックリアリズム的な印象は、後半のポルポト時代の物語を読むことで少し違ってくるし、ポルポト時代が過去のものとなって、いわゆる政党政治時代となったカンボジアを舞台に描かれる、下巻の「ゲームの王国」の本来的なテーマの物語から振り返るプロローグは、アンソロジーで読んだときとかなり違った意味合いが生じている。
上巻のポルポト時代前史からポルポト思想万歳となった時代での物語は濃密な空間を作り出している一方、ポルポト時代をくぐり抜けたメインキャラの子供達が成熟した大人になり、子ども時代やったゲームの勝敗に再度決着をつける方向に進む下巻は、もはや濃密な空間を維持して居らず、抽象的な論理/倫理の戦いが前面に出てくる。メインキャラの片方が政治の世界で「ゲームの王国」を実現しようとして、もう一方のメインキャラが論理の化身としてゲームに人生を反映させるプログラムを開発し、最終的に両者は子ども時代に戦ったゲームの決着を付けようとする。
この下巻の持つ現代SF的な雰囲気は、上巻で作者が作り上げた歴史的空間と正反対の抽象的空間を感じさせて、その落差に戸惑うくらいだが、しかし、物語の大団円は再びマジック・リアリズムへと変貌するので、物語全体としてのバランスはとれている。
デビュー作からは想像もつかないくらい見事な成長ぶりを見せたデビュー第2作というのは珍しい。