内 輪   第325回

大野万紀


 ネットを見ていると、10月に新☆ハヤカワ・SF・シリーズから、クリストファー・プリースト『隣接界』の翻訳が出る(幹遙子との共訳)古沢嘉通さんのツイートで、とんでもないものが紹介されていました。古くからある神戸のタウン誌「神戸っ子」のアーカイブで、1975年の第14回日本SF大会「SHINCON」の特集を見つけてくれたのです(1975年8月号のPDF-4)。
 筒井さんの「開会の辞」から始まり、プログラム、眉村さんのエッセイ、そして筒井さんの司会によるネオ・ヌルとSHINCONスタッフの座談会! わー、みんな若い!(当たり前)、恥ずかしい! この中にはもう亡くなった人もいて、写真を見るとしんみりとしてしまうのですが……。
 ぼくもこのときは21歳。懐かしいというよりも、そんなこともあったんだなあ、という感じです。何しろもう何をやったかほとんど覚えていない。全くしろうとなのに、オープニングの演出なんかをやったような記憶があるのですが。まあ、もう40年以上前の話です。
 今月も読み終えたのは3冊だけ。いや、理由はわかっているんです。そう、ドラクエのせいですね。だって面白いんだもの。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『深海大戦 超深海編』 藤崎慎吾 角川書店
 〈深海大戦〉三部作が、2年ぶりに第三部が出て、ついに完結。
 この三部作は文句なしに面白い。ロボットものエンターテインメントとして戦闘シーンに迫力があるのはもちろんだが、何より、未来の海洋民たちの生き生きとした生活と、とてもリアルな海底描写がすばらしい。
 ロボットといっても人型(一応手足はあるが)というより、イクチオイドというくらいで海洋生物に近いのだ。これって具体的な画像で見てみたい(できれば動きのあるアニメで)と思う。表紙絵はちょっと人型によりすぎているように思うのだが。この三部作の最初の方で、妖精やテレパシーといった要素があって気になっていたのだが、ここにきてSF的な説明がちゃんと入り、さらにより壮大な、宇宙的な背景が明らかとなった。
 ローカルなところでは沖縄独立運動があり、主人公たち、海洋漂泊民(シー・ノマッド)と対立する日本やアメリカなどの既存国家の圧力、それに荷担する海賊のような武装集団がある。より大きなところでは、他世界の地球である海洋惑星アビッサス、そこから来た者たちと、地球人類との関わりがある。本書ではそれらが複雑な構造をなしているのだ。
 でも主人公の宗像梢は、そんなややこしいことを頭から追い払い、ひたすら身近な人々の命と、自由な海の暮らしを守ることを願って、それを壊そうとする敵と戦う。そんな彼こそ、人類と異星の人々の未来を定める、運命の鍵となる選ばれた者だったのだ。本人にはまったくその自覚はないのだが。
 物語は、ハワイ沖の深海にある、地球とアビッサスを結ぶ回廊が開き、彼をアビッサスへ送ろうとする味方と、それを阻止しようとする敵との激しい戦いが描かれる。敵にはクトゥルフを名乗る最強の戦士がおり、最後の最後まで気を抜くことはできない。宗像が最後に大事な使命を果たすという部分がちょっとあっさりしすぎている感もあるが、息をつかせぬ戦闘シーンがそれをおぎなって余りある。結末で、「七つの海」という言葉に、さらに新しい壮大な意味が加わる瞬間に、どきどきするようなセンス・オブ・ワンダーを感じた。
 ところで、ずいぶんと長い時間をかけて書かれたこの三部作、そして独特な用語が多数使われていることもあって、読んでいてこれ何だっけと思うことが多かった(ぼくの記憶力が衰えているせいもあるが)。簡単な人物紹介と用語解説はついているが、かんじんの世界観を示す用語がほとんど書かれていないので、ちゃんとした用語集をつけてほしかった。え、自分で作れってか?

『ジャック・グラス伝 宇宙的殺人者』 アダム・ロバーツ 新・ハヤカワ・SF・シリーズ
 作者はロンドン大学教授で、奇想SFを得意とする作家(訳者後書きによる)。本書は2012年の作品で、英国SF協会賞とジョン・W・キャンベル記念賞を受賞している。
 経歴からは文学的で凝ったマニアックな作風を想像させるのだが、本書は「”黄金期”のSF小説と”黄金期”の推理小説を合体させ」た(作者のことば)ような作品で、宇宙冒険ものとしてもSFミステリとしても、娯楽性豊かな傑作だった。しかし何しろ、謎解き要素の強いミステリとしても書かれているので、内容紹介が難しい。
 舞台は遥か未来の太陽系。人口は1兆を超えているが、ほとんどの人間は貧民階級としてバブルと呼ばれる劣悪なコロニーに暮らしている。太陽系全体は頂点にいるウラノフ一族が専制的に支配し、その下にいくつかの貴族的な一族(クラン)がいて、さらにその下には公司(コンス)と呼ばれる会社組織があるという厳しい階級社会となっている。
 宇宙的殺人者――ジャック・グラスとは、そんな世界の中で、革命的扇動者であり、体制への反逆者であり、おそろしく頭の切れる殺人者として、体制側に恐れられている人物だ。
 本書は三部に分かれているが、冒頭で、そのすべての犯人がジャックであると明かされている。ただしその謎解きは、SF的な(ハードSFというよりまさに奇想SF的な)要素が密接にからんだもので、一筋縄ではいかない(わかってみるとわりあい単純なものもあるのだが)。
 第一部では、監獄小惑星に閉じ込められて放置された囚人たちの、苦闘と脱出劇が描かれる。この閉塞感と、囚人同士の力関係からくる虐めや暴力の描写がなかなかえぐい。トリックはあるが、どちらかというとモラル的な衝撃の方が大きいかも知れない。
 第二部は一転して、太陽系を支配する一族(クラン)のひとつ、序列第二位のアージェント一族のエヴァとダイアナの姉妹が登場する。二人は地球にある一族所有の島へと旅行する。ヒロインとなるダイアナは十六歳、大のミステリマニアで、謎解きが大好き。そこへ起こった一人の召使いの殺人事件を嬉々として解決しようとするのだが――それは太陽系の体制に関わる巨大な陰謀へと発展する。
 第三部はこの事件で運命が変わることになったダイアナたちの、その後の逃亡劇を描き、またしても起こった物理的にあり得ないはずの殺人の謎に挑むことになる。
 謎はすべて解ける。ジャックはなかなかに渋い万能なアウトロー・ヒーローだし、第二部からのヒロイン、ダイアナは、頭がよくて活発でしかも高飛車なお嬢様(でも根は素直)という、まるでラノベやアニメのヒロインみたいな、魅力的な存在だ。さらに強烈な悪役、個性的な脇役もいて、とても面白かったのだが、でもストーリー全体としては、えっこれで終わりなの?という感じ。これがアメリカならまず三部作の第一部で間違いないところだが、作者はこの続きを書く気はなさそうということだ。スピンオフでもいいから、読みたいよねえ。

『わたしの本当の子どもたち』 ジョー・ウォルトン 創元SF文庫
 ジョー・ウォルトンのティプトリー賞を受賞した2014年の長編。大変読みごたえのある傑作だ。
 パトリシア――1926年にイングランドに生まれ、2015年に89歳となって一人で介護施設で暮らしている老女――本書は、彼女が生きた二つの生涯を描く作品である。二つの生涯。そう、若き日に彼女が下した一つの決断により、彼女の人生は二つに分岐し、同時に世界も二つに分かれたのだ。本書はその二つの生涯を交互に、ていねいに描いていく。
 よく出来た改変歴史もののように(ウォルトンはあの〈ファージング〉三部作の作者だ)、第二次大戦後の二つの世界はわれわれの世界とは違った、だがあり得たかも知れない歴史の道筋をたどる。ディテールまで作り上げられたその二つの現代史がとても興味深いのだが、作者はそれを背景にとどめ、あくまでも主人公と、その周囲の人々の日常生活を淡々と事細かに、豊かに描くのだ。世界が変わっても、人はその中で生き、愛し、憎み、日常を送る。ぼくは映画『この世界の片隅に』のすずさんを思い浮かべた。そういえば、すずさんは1925年生まれだから、パトリシアの一つ上か。
 パトリシアは戦争で兄と父を亡くし、奨学金を得てオックスフォードへ進学し、文学を学ぶ。同じオックスフォードの男子学生、マークと知り合い、結婚を申し込まれる。先に女学校へ就職した彼女に、彼から毎週のように熱心なラブレターが届く。しかし彼は卒業試験に失敗し、望みの職につけず、彼女に決断を迫る。このまま彼と結婚するか、別れるか――。
 そして、その選択により、以後本書は、二つの物語に分岐していく。本書の分岐点はこの一点のみだ。本当にごくありふれた、この彼女の決断によって、片方ではパットと呼ばれ、片方ではトリッシュと呼ばれるようになるパトリシアの運命はもちろん、その後の世界全体が大きく変わっていくのだ。
 どちらの世界も、われわれの現実とは違う世界である。かたや限定核戦争が起こり、死の灰で癌の発生率が高まり、軍事的緊張がずっと続くような重苦しい世界。もう一つは穏やかで平和的な世界で、宇宙開発はわれわれよりずっと先へ進み、コンピューターの分野ではわれわれと同じようにマックやグーグルが存在する世界。もちろん平凡な一市民である彼女の選択が直接このような世界の分岐と因果関係をもつわけではないだろう。でもカオス理論のバタフライ効果のように、どういうわけか世界全体も変わってしまうのだ。
 トリッシュは結婚し、その正体を現した夫のひどいハラスメントに耐え続けるという、悲惨な暮らしを送る。悲惨といったが、昔は日本でも英国でも、こんな生活がごく普通にあったのだなと思わせるようなものだ。一方のパットは、結婚せず、良きパートナーと知り合って、同性愛者としての自分に目覚め、女どうしで暮らすことになる。またイタリアの魅力にとりつかれ、何度もイタリアへ行っては旅行ガイドを執筆するようになる。こちらの人生はなかなか幸せで、愛に満ちたものだ。トリッシュの方もついに夫と離婚し、それなりに充実した人生を歩むようになる。どちらも子どもには恵まれ、みんな個性的で愛らしい。その中には初めて夫婦で月面基地で暮らすことになる息子や、ヒットチャートの上位に昇るミュージシャンの息子といった有名人もいて、一般人というにはいささか波瀾万丈な人生だといえる。
 二つの人生を交互に描きながら、作者は女性の解放、性の多様性、そしてそこに立ちふさがる様々な現実的な困難さとそれへの対応、障碍者の暮らし、認知症となった親の介護、そして自分自身の老化――といったきわめてリアルな重い問題を、とてもわかりやすく具体的に、心を込めて描いていく。様々な文学的引用や、歴史的、科学的・SF的なアイデア、宗教的テーマ、こちらの現実へのほのめかしなど、ディテールも豊富である。そして筆致は暗くはない。ユーモアもあり、基本は明るいし、物語としてとても面白く読める。
 最後の章で、冒頭とも照応しつつ、二つの生涯は重なり合う。この重なり合いは生きている猫と死んだ猫が同時に存在するシュレディンガーの猫のように、あり得ないにもかかわらずとてもリアルである。そしてそこで問われる問いの重さ。それはわれわれ読者一人一人の抱える問題でもあるのだ。とはいえ、実際のところ、その答えはどんなものでもあり得るし、それが正しいかどうかなどわかるはずもない。ただ、そう問いかけることこそが重要なのだと思う。


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