続・サンタロガ・バリア  (第180回)
津田文夫


 身辺バタバタで2ヶ月サボってしまいました。
 ということで、もはや旧聞となったけれど、6月に日本クラシック・ギター界のプリンス(還暦すぎたのでもはや大御所か)福田進一が、地元美術館でロビーコンサートをやるというので早めに並んだら、なんと演奏者から5メートルもないところで聞くことが出来た。1時間半のソロ・コンサートは結構本格的なプログラムが組まれていて、演奏中はギターの直接音に体が覆われるような感じがして、楽しく聴かせてもらった。
 印象的だったのは、「アルハンブラ宮殿の思い出」のトレモロをかなり高速かつ大音量で雑音をモノともせず弾ききったことで、これはパク・キュヒのまろやかでゆったりしたトレモロへの挑戦状みたいに聞こえた。帰りの最終バスに乗り遅れそうになってアンコールの最後を聞き逃したのは残念。
 本屋の音楽雑誌のコーナーに、クラシックのCDが数十枚置かれているのを見て、フーンとチラ見したら、カラヤンやクレンペラーの名前が見えた。最初は気がつかなかったのだけれど、暫く眺めていたら、ケンペの名前が目に入った。へぇっと手に取ってみたら、これがケンペが初めてイギリスに渡ってフィルハーモニア管弦楽団を振った1955年ステレオ初期の録音。曲はモーツァルトのオペラ序曲4曲とアイネ・クライネ・ナハトムジーク。
 尾埜善司『指揮者ケンペ』によると当時はEP盤(いわゆるシングル盤)で発売されたらしい。世界初のステレオレコードは1957年に発売されたと云うことなので、当然モノラル盤だったと思われる。それが僅か370円(税抜き)でオリジナルのステレオ音響で聴けるとは、ビックリだ。
 演奏自体は、ケンペが結成10年目のフィルハーモニアを的確にドライヴしており、モーツァルトの音楽をいかにもケンペらしいアポロン的響きで鳴らしている。ステレオ録音自体も変に加工されていないので、ケンペの作るオーケストラ・サウンドのバランスの良さがよく分かる。400円でおつりが来る値段なので、どうしてケンペが未だに聴かれるのか知りたい人は買ってみるが吉。ちなみにカップリングは、カラヤン/ベルリン・フィルのモーツァルトの交響曲第29番で1960年のステレオ録音。

 なかなか落ち着いて本が読める状況にないので、読みたい/読まなきゃという新刊が積ん読状態になっているのだけれど、その中で、読めたものは以下の通り。

 映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』公開に合せて発売された『攻殻機動隊 小説アンソロジー』は3月末発売だったけれど、あまり食指は動かず、読んだのは映画を見た後だった。
 円城塔、三雲岳斗、朝霧カフカ、秋田禎信、冲方丁とまあ、顔ぶれに不足はないけれど、題材が題材なだけにやや期待薄だった。円城塔がバトーとトグサの会話を書くとは、一見の価値ありだけれど、作品自体に衝撃力はあまりない。基本的にオリジナル(漫画/映画)へのオマージュとしてそれぞれの作家の得意技が見られるけれど、『Blame』のアンソロジーに較べると想定内の仕上がりと感じられる。

 何でも書けるというか題材のバラエティのすさまじさに驚かされる宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』は、読者を一種の思考停止に追い込むかなり無茶な設定だけれど、宮内悠介にとって無茶な設定などラノベ並みになんでもないことを証明した1作。
 ほぼ消滅したアラル海跡地に出来た新興国家の国家消滅の危機を、”後宮”の女子学生達が救う、それも主役は日本人少女・・・て、ラノベだよねえ。
 読んでて楽しいことは間違いないが、ちょっと眉にツバつけておきたい。

 読者を思考停止に追い込むことでは、宮内悠介以上なのが、神林長平『フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉』
 冒頭の「序文あるいは長い副題」で、フォマルハウトの三つの燭台がそろうと世界が終わるという話を紹介しておいて始まるのが、トースターにもAIがあり、あらゆる家庭電化製品にAIが組み込まれて、AI同士の調整を仕事が成り立つ時代という設定の物語。そのAIトースターが死んだ、自殺したというところから物語は始まるのだけれど、そこからフォマルハウトの三つの燭台がそろってしまって世界が終わるところまで行き、その後のエピローグまで書かれてしまう。
 これも相当無茶な設定と話の運びだけれど、神林長平はのほほんと書き切ってしまっていることもあり、「兎に角」のジャカロップが印象的なスラップスティックになっている。  

 文庫化なった奥泉光『東京自叙伝』は、文体が『ビビビ・ビ・バップ』とおんなじで、こちらが先に出たんだろうから、最近の奥泉光が気に入っている文体と云うことだろう。
 『東京自叙伝』というからには、東京という場所/人物の語りかと思いきや、歴史上の有象無象の記憶がある上にネズミやミミズだったりもしたこともあるという語り手、日本近現代史の有名な事件にはたいていその本人の「意識」として関わっているという無茶ぶり、面白いけれど途中でちょっと鼻につくようになってきた。
 基本的には歴史に名を残していない近現代各時代の人物数名の「意識」として、語り/騙りは行われている。スピード感のある物語だけれど、当方の事情で一気読みできなかったのは残念。

 それに対して1日数ページずつ読むのが正しいと思えるのが、同じく文庫化された 梨木香歩『冬虫夏草』。『家守綺譚』の続編ですね。
 今回のメイン・テーマというか縦糸は、行方知れずとなった忠犬ゴローを探して語り手が村巡り山巡りするというもの。39の断章に分かれ、その一つ一つに植物名が振られており、その所にその植物が顔を出す展開となる。
 前作以上に落ち着いた話の運びで、なかなか愉しい。

 山田正紀『ここから先は何もない』は、いかにも山田正紀らしいスケールのSF/ミステリ。帯の惹句をみればJ・P・ホーガンの某傑作への挑戦が感じ取れるというもの。最近の山田正紀はSF/ミステリを書いて好調な感じがあるけれども、この作品もそんな一作。
 無茶振りは昔からの十八番だったけれど、ここに来てちょっと貫禄で勝負できるようになった印象がある。まだまだ枯れてない山田正紀節でいいんじゃないでしょうか。

 ついに10冊目、と自ら偉業達成を謳う大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 行き先は特異点』は、継続を自慢できるレベルのアンソロジーであることに間違いはないでしょう。
 最近はとみに普通の読者(?)の目には触れにくいメディアからの収録が多く、未読作品が沢山あるという意味ではお買い得。収録作品のレベルが高いかどうかは読み手次第だけれど。とはいえ、SFとしての醍醐味が味わえる作品は後半に集められていて、倉田タカシ、牧野修、谷甲州、上田早夕里、酉島伝法、久永実木彦と充実した作品群が愉しいひとときを保証してくれる。その意味では「SFマガジン」に書くということに対する作家のスタンスは評価できるだろう。
 久永実木彦さんは新人とは思えない手慣れた書きっぷりで、ある意味新鮮味に欠けるかな。もちろん読んで面白いけれどね。

 翻訳SFは読むのに時間がかかりすぎて、ほとんど読めてない。

 またもやデビュー作から既に映画化権が売れてて、三部作になる・・・最近コレばっかだなというたぐいの1冊が、シルヴァン・ヌーヴェル『巨神計画』。書評では意外に評判がよくても、あまり信用せずに読んだところ、インタビュアーとインタビュイイーの記録が物語のメインをなすという新機軸が、読者をくすぐって読みやすい仕上がりになっていた。
 基本的には巨神兵発見という感じだけれど、続編でちゃんと期待を裏切ってくれることを願います。

 伊藤さんの新訳がめちゃくちゃ読みやすい新訳版、ロバート・シルヴァーバーグ『時間線をのぼろう』は、30年ぶりに読んでも面白い、ニュー・シルヴァーバーグとしては珍しいエロチック・コメディ。
 この作品については、シミルボンで田中里尚さんが「ビザンツ帝国」について書かれていたところに、面白いオススメ本としてコメントさせていただいたら、田中さんが早速読んでくださって、素晴らしい紹介をしてくださったことに尽きますね。おまけに岡和田晃氏が、この本が「青春の書」だったというコメントもつけられてて大笑い(いや、失礼〉。

 最後はジーン・ウルフ『書架の探偵』。酒井昭伸さんの翻訳をもってしても、この無茶な設定を呑込むことはなかなか難しい。原題の『借りられた男』では、何のことやらなおさらチンプンカンプンだったろう。
 とはいえ、メイン・ストーリーはまったくのミステリで、話の運びはそれほどうまくないミステリという感じがつきまとう。一種のパルプSF的なサブ・エピソードが興味深いが、物語全体から感じられるのはミステリの骨格だろう。
 ただ、このリメイクされた作家が人間図書として図書館の本棚で生活し、借り出されているという設定の違和感は、物語を読むこと自体を読者に意識させるウルフの仕掛けとして、非常に強力な装置になっている。強力すぎて目眩がするくらいだ。

 ノンフィクション系は次の機会に。


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