内 輪   第320回

大野万紀


 必要があって、Facebookを始めました。これまでSNSといえばツイッター中心で、フェースブックはちょっと敬遠していたのですが、始めて見るとこれはこれで面白いかも。長い文章が書けるというのは大きいですね。まだ使い方に全然慣れていないので、戸惑うことも多いのですが、まあぼちぼちやりましょう。
 ツイッターで「漬け物SF」って何かあったっけ? と呟いたら、思いのほか反響がありました。もともとは、バラライカ宮崎さんの、「SFマガジンに<新春漬け物SF特集>が載っている夢を見た」というツイートからなのですが、鼎元亨さんからは、Ferrett Steinmetzの”Sauerkraut Station”(未訳)という、スペースコロニーで水耕槽がどうのこうのという短篇を、山本弘さんからは小松左京「四次元ラッキョウ」を、牧眞司さんからは梨木香歩『沼地のある森を抜けて』を挙げていただきました。
 この中だと、梨木香歩『沼地のある森を抜けて』がずばりの「漬け物SF」ですね。化粧品メーカーの研究室に勤める独身OLのところに持ち込まれた、一族に代々伝わるというソラリス的ぬか床の話。世話をさぼるとうめき出すし、卵を産むし、そこから人間もどきも現れる。傑作です。
 他にも、小松左京「お茶漬けの味」(これは確かに!)、石原藤夫のブラックホールのお茶漬けはどうかとか(いくらお茶漬けでもブラックホールは漬け物じゃないような――「お茶漬けSF」という別ジャンルがあるのかも)、理山貞二さんからは「中内かなみ「沈蔵(キムジャン)」が漬け物ファンタジーです」との指摘があり、また別の方からは「山田正紀さんの『辛(かろ)うござる』は、純時代小説に見せかけて、キムチに唐辛子を入れることを考案したのは朝鮮出兵当時の日本人、というSF的発想です」というツイートもありました。
 漬け物SF――奥が深いですね!

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『伊藤計劃トリビュート2』 早川書房編集部編 ハヤカワ文庫JA
 『虐殺機関』の劇場アニメ化に合わせたのだろう、オリジナルアンソロジーの第二弾。
 世界が「伊藤計劃的なもの」に覆われていこうとする現在、「伊藤計劃的なもの」がますますその重要さを増しているのは確かだ。でもそれは、現代SFの、あるいは現代文学の重要なテーマの一つとして、もはや一人の作家を越えた普遍的なテーマとなっているのではないだろうか。すごく雑な言い方をすれば、かつてハーラン・エリスンたちが書こうとしたテーマを、コンピューター科学や認知科学の力を借りて、現代的に語り直そうとするものだと言えるだろう。
 でも塩澤さんのまえがきにある「テクノロジーが人間をどう変えていくか」という問いを内包したSF」というのは、あまりにも大ざっぱすぎて、ほとんどの現代SFがそれに合致してしまうのではないかと思う。
 本書は、ハヤカワSFコンテストの受賞作家を中心にした、20代以下の若い作家六人によるアンソロジーだが、直接的な伊藤計劃トリビュートとなっているものはあまりない(その中で黒石迩守の作品は情動の記述言語を扱っていて「虐殺機関」の直接のトリビュートだといえる)。とはいえ、いずれも「伊藤計劃的なもの」を独自の語り口で語ろうとしている。
 草野原々「最後にして最初のアイドル」は第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞の受賞作品だが、大きな話題になって、先に電子書籍で出た作品だ。ぼくもそちらでレビューしているが、失敗作と紙一重のぶっ飛んだ作品で、だがSFらしさでは突出している。ぼくは当然断固支持だ。
 ぼくのりりっくのぼうよみ「guilty」の作者は18歳のアーティストということだが、いかにもアマチュアらしい作品だ。例えば世界設定をとっても、読者を納得させられるものになっておらず、まさにリリカルな感性のみで読ませようとする。でも文章は悪くない。ネットや同人誌のような場でもっと磨いて、がんばってほしい。
 柴田勝家「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」はもはやベテランの貫禄である。ある一つの山岳民族がまるごとVRの中で生活するようになったという状況を描いていて、発想が面白い。語り口もいい。ただしアイデアが中心で、内容的にはそこからあまり発展しておらず、物足りないといえる。作者なら、ここから先が描けるのではないか。
 黒石迩守「くすんだ言語」は、先に述べたようにコンピューター・ソフトが人間の思考を記述し、それがフィードバックして悲劇を招くという言語SFであり、作者の受賞作よりもシリアスで、リアリティもあり、傑作だといえる。否定されたはずのチョムスキー的な普遍言語のスキームがこういう分野ではまだ力を持っているのだなとも思った。また昔ながらの、人間の意志を離れて自走するテクノロジーを描いた作品でもある。
 伏見完「あるいは呼吸する墓標」は、地球規模の災厄で文明の衰退した世界において、人間の脳をサーバの一部として利用する自立した統合医療ネットワークが、人間への福祉を実現しようとして実質的に人々を支配している。そんな世界で古代都市の遺跡のある砂漠を調査中に、歩く死体を発見したというのだが……。短い作品なのに語り口がストレートではなく、読者をもやもやとさせる。『屍者の帝国』から一歩進めたようなアイデアは面白いが、正直、物語に入り込めなかった。
 さて問題は、本書の半分以上を占める小川哲「ゲームの王国」である。キリング・フィールドの前、シアヌーク/ロン・ノル時代のカンボジアを舞台に、後のクメール・ルージュと政府の秘密警察との残酷な闘いに翻弄される人々を描いて、とても読み応えのある作品だが、未完の長編の一部抜粋なのである。前の『伊藤計劃トリビュート1」にも長編の一部となる作品が3編も含まれていて、これが編集方針なのだろうか。ある意味ではお得かも知れないが、長編はちゃんと完結した形で読みたいものである。
 若い作者はシアヌーク/ロン・ノル時代のカンボジアなんてリアルタイムでは知らないだろうから、とてもよく勉強していると思う。ぼくら、リアルタイムにテレビや新聞で聞いていた世代からすれば、えっと驚くような内容も書かれている。そして、スパイ活動や秘密警察のおぞましい恐怖、この世界にいくらでも例があるだろう理不尽で不条理な人間性の抑圧と残酷な死、そんな中で生きる少年少女たちの未来に、さらに恐ろしいキリング・フィールドが待っていることをぼくらは知っている。群像劇だが、それぞれのキャラクターたちはしっかりと書き込まれ、生き生きと描かれている。後半に主要な人物となる、天才的な頭脳をもつ少年と、特別な血筋をもち、嘘を見抜く能力を持つ少女が出会い、いよいよストーリーが動き出すというところで終わっているのだ。現時点ではSF的な要素は(その少年と少女の能力を除き)見当たらない。傑作となる作品に違いないが、こんなところで中途半端に放り出されると評価のしようもないのだ。何とかしてよといいたくなる。早く一冊の本として完成されることを望む。

『終わりなき戦火 老人と宇宙6』 ジョン・スコルジー ハヤカワ文庫SF
 〈老人と宇宙(そら)〉シリーズの第6巻。まだまだこの続きがありそうな気もするが、3年前の前作『戦いの虚空』から続く、コロニー連合対〈均衡〉編の完結編である。一応、前作を読まなくても、本書だけでも十分話はわかるし、面白い。
 様々な異星人たちの連合組織〈コンクラーベ〉と、宇宙に出た人類を統べるコロニー連合、そして地球(この前の事件でコロニー連合と対立しているが、異星人から見れば同じ人類である)が互いに政治的・軍事的に複雑なゲームを繰り広げている。コンクラーベ内も、コロニー連合内にも内部対立があり、そこにつけ込んで宇宙の覇権を握ろうとする謎めいた〈均衡〉という組織が、色々と悪さを仕掛けてくるというわけだ。
 コロニー連合もコンクラーベも、決して正義というわけではないが、今回は〈均衡〉という明らかに悪の組織としか思えないものが敵役として扱われるので、話はとてもわかりやすくなっている。視点人物の異なる4つの章から構成されているが、全体を通して、〈均衡〉に拉致され、脳だけが宇宙船に接続された兵器となった男、レイフの活躍が主軸となっている。色々なレベルでの陰謀があり、戦いや悲劇、勇敢な反撃が描かれるが、どことなくほのぼのとしたユーモラスな雰囲気があって、ひどく重くなりそうな物語を救っている。
 それにしても、ここで描かれる政治は、作者がそうあってほしいと思っているのだろう、アメリカの民主主義の理想像を善しとしていて、昔ならやれやれと思うところだが、現実の今を思うと、これがすなおに輝いて見えるのだから、困ったものである。

『時間のないホテル』 ウィル・ワイルズ 東京創元社
 これは傑作だ。
 もちろん、帯に書かれている通りの話には違いない。いわく、「エッシャー的世界の巨大建築をさまよう悪夢と恍惚の夜」「内宇宙のホテル、謎の支配人、無限に繋がる絵画。J・G・バラード『ハイ・ライズ』+スティーーヴン・キング『シャイニング』悪夢的空間にそびえる巨大建築幻想SF」。どれもその通り。
 イメージそのものは珍しくなく、無限に続く部屋というのは、むしろ幻想的な小説でよくあるものだ。これが和風の旅館であれば、筒井康隆のようだし、四畳半なら森見登美彦だ。ゲームのダンジョンの、ループするやつもそう。中盤以降はそういう幻想的・ホラー的要素が前面に出てくるのだけれど、本書の前半はとても現代的でリアルなお仕事小説である。
 主人公のニール・ダブルはちょっとチャラい感じの若いビジネスマンで、仕事はイベント参加の代行業。様々な業界のイベントや見本市に、多忙な顧客の代理で参加してレポートをまとめるというお仕事だ。全世界にチェーン展開しているようなビジネスホテル(日本でいうビジネスホテルよりは少し高級な感じ)に宿泊しては、コンベンションセンターのイベント会場に通う毎日だ。彼はその仕事が好きで、画一的で個性を主張しないが、合理的で満足のいくサービスを提供してくれる、そんなホテル暮らしを満喫している。今回も、彼が気にいっている〈ウェイ・イン〉に泊まって、隣接する巨大なコンベンション会場であるメタセンターへと通うはずだった。
 ここはイギリスの田舎に建設中のビジネスエリアで、空港と高速道路にはさまれた広大な敷地に、現在完成しているのはホテルとメタセンターだけ。他はみな工事中で、人々はホテルか会場にしか行くところがないのだ。ぼく自身、ビジネスフェアなどには見る側にも出展する側にも何度か参加した経験があるけれど、本書の前半で書かれているのは、まさにそんなコンベンションのとてもリアルで現代的な雰囲気である。おどろおどろしい怪奇現象が入り込むような余地はない。
 ところが、主人公のちょっとした人間的なダメさや、対人関係のミスから、しだいに異界へと近づいていく。以前に別のウェイ・インで会ったことのあるとても印象的な赤毛の女、彼女はこのホテルに飾られている抽象画を調べていて、それらの全てが同一のパターンのバリエーションとして作られていることを発見したという。彼女の存在をきっかけに、ホテル内の空間が変異していく。現代的でありふれたホテルの中庭が、突然光にあふれた異界へと変じて見えるシーンは、モダンな幻想性を示していてはっとするほど美しい。こうして、彼はしだいにこのホテルの魔に引き寄せられ、謎めいた支配人に出会ってからは完全に抜け出せなくなってしまう。そこからはSF的要素のある迷宮ホラーとなっていくのだ。赤毛の女はタブレットPCと位相数学を駆使しながら、この魔と立ち向かおうとする。それがかっこいい。ダメ主人公はほとんど邪魔者である。面白いのは、作者がこの無限ホテルの魔をほとんど肯定していることだ。

『あとは野となれ大和撫子』 宮内悠介 角川書店
 これは痛快なエンターテインメント作品で、もちろん傑作である。面白くて、読み応えがある。
 もうひとつの現代、ソ連末期の干上がったアラル海に建国された世俗的イスラムの独立国アラルスタン。この国では初代大統領の作った後宮を、身寄りのない将来有望な少女たちの高等教育機関とし、未来の政治家や外交官、技術官僚としてこの国を支えるよう、エリート人材の育成の場としていた。そこには、日本から技術協力で来ていた両親を紛争でなくし、幼いころに保護されたナツキ、チェチェンからの難民で、リーダーとしての才能を発揮するアイシャ、複雑な出自を持つが面倒見のいい姉御タイプのジャミラたちがいる。だが、彼女たちのウフウフキャッキャな平和な暮らしは、新大統領が突然暗殺されて一変する。首都へとイスラム過激派が進撃して来るのに、議会の政治家たちは逃亡し、周辺国は介入をもくろみ、このままでは果てしのない内戦で大勢の人々が命を落とすことになる。
 この危機に、アイシャを中心として、後宮の少女たちが立ち上がる。カリスマのあるアイシャが大統領代行を宣言し、臨時政府を立てて「仕方ない、私たちで国家をやってみる」ことにしたのだ。ナツキは国防大臣として脆弱な国軍を鼓舞し、この国のイスラム過激派勢力と戦いつつ、周辺国との関係にも気を遣う。アイシャは首相と外務相を兼任し、ジャミラは文化省と財務省を担当する。かくて、少女たちによる新国家が中央アジアの砂漠に誕生し、国内の内紛、外交問題、宗教対立、テロ、陰謀、環境破壊や経済開発に立ち向かうことになるのだ。
 タイトルからは、日本人のナツキだけが主人公のように見えるが、そうではない。少女たちのドラマは痛快で、ユーモラスで楽しく、軽さもあるが、その背景はリアルで重い。ぼくはこの地域の現状について、通り一遍の知識しかなく、設定としてどの程度のリアリティがあるのか、実際にはわからないのだが、エンターテインメント小説としての誇張はあるにせよ、根本的にはリアルなものだと思える。いくぶん都合良く話が進みすぎる感じはするが、それはそれで気持ちが良く読める。
 ウズベキスタン、カザフスタン、そしてロシアという国家がどのように動くのか、欧米は、イスラム過激派は、といった現実の国際政治のごたごたは、少女の目で簡略化されているように思えるが、この地域の歴史や民族、人々の意識、情熱といったものは、重く、熱く描かれていて、深い感動を呼ぶ。この国の存続が環境を変える科学技術にかかっていること、そもそもの旧ソ連の科学技術の暴走がアラル海を干上がらせるという環境破壊を招いたことなど、SF的には火星のテラフォーミングや植民というテーマとパラレルなものがある。しかし本書では、アラル海を復活させることもまた環境破壊となるのではないかという、慎重な観点にも言及されていて、どちらが正しいのか、ナツキにもわからない。でも「あとは野となれ」というよりも、わからなくても「大切なのは、いまを生きている人々。そしてもっと大切なのは、千年後を生きる人々」と語るその視線が、本書をエキゾチックな冒険小説としてだけでなく、SFとしても傑作にしているのだ。
※「あとは野となれ」の「野」には、ナツキの目指す沃野の含蓄もあるのでは、という指摘がありました。なるほど、それはありそうですね。でも緑化することもまた環境破壊を招くかも知れない。単純な決断ではないが、ナツキは千年後も見据えて前に進もうとするのです。


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