続・サンタロガ・バリア (第177回) |
3月はいつもの通りあっという間に去ったけれど、何をしていたのかと思い返してみても何も思い出さないのもいつも通り。
とはいえ、少しずつ(ホント少しずつだ)暖かくなってきたので、天気のいい休日にはアニメ『この世界の片隅に』の主な舞台となった灰ヶ峯の麓を自転車を押しながらウロウロしていた。この灰ヶ峯の山裾で、何本かある車がかろうじて通れるほどの狭い道のどれかを登っていけば、人家が尽きる辺りまで坂道を登っていくと、どの道から入ろうとも最終的に「涼ミ岩」というバス停(「焼山苗代熊野線(神山経由)」のバス停だけれど朝昼夕夜に各1本しかバスが来ない)に出る。それらの道を上がる途中で振り返れば、どこかで「北條家」から見た旧呉市内(地元ではこう呼ぶ)の眺めが現れる。
まあ、ここら辺かなあという場所はいくつか見つけたけれど、細かい地形まで「北條家」に合う場所はさすがにない。その話題をチェロを弾く友人に振ったら、ああ、あれはウチの本家のある場所にそっくりでしたよ(アッサリ)、というので、そこへ行ってみたら確かによく似ていた。すずが嫁いだ翌朝、天秤棒にバケツをぶら下げて「北條家」に戻るシーンで、左手に一家の墓所が見えて、その向こうに家があり左に入るという地形(しかも西/広島方向に視界が開けている)は「北條家」を彷彿とさせる。但し坂の勾配はずっと緩いし、今は住宅が増えて竹林がだいぶ減っている。最寄りの坂道には小川というか用水路というか、そんなものもあって本当に友人の本家がロケーションの場所だったのかもしれない。友人の言によれば、昔はその付近に共用井戸もあったとのこと。
その道を下って行くうちに、脇道の奥に小さな公園を見つけて、この道を四半世紀前に歩いたことがあったのを思い出した。図書館にいた歴史好きの先輩が、江戸時代後期に村人たちが腐心して造った長大な農業用水路「上井手」の跡を歩いてみないかというので、瀧が見える川の水源からわずかな高低差を作りながら掘られた水路跡を延々と歩き続けたのだ。そしてこの坂道を途中まで下ったところに終点となったと思われるため池があった。現在は埋め立てられて小さな公園となっている。200年足らず前の土木事業の跡が、海軍進出以降の人口増加による山麓の宅地化(そのこと自体を海軍は嫌っていたけれど平地が狭いので仕方なかった)によってかなり消失していることがよくわかった。そんなことを思い出せたのも『この世界の片隅に』の御利益か。
ちなみに映画は8回目を見た。昭和20年9月の枕崎台風がアニメでは省略されている(原作では一エピソード費やされていた)と以前書いたが、ラストの北條家の家を見下ろすカットをよく見ると、原爆で広島から飛ばされてきた障子が引っかかっていた大木のものだったと思われる大きな根っこが庭に転がっているのが、今回ようやく目に入った。これは、あの大木が台風で根こそぎになったことを見るものに知らせているのだろう。まったく用意周到なことである。
谷甲州『航空宇宙軍史・完全版四 エリヌス-戒厳令-/仮装巡洋艦バシリスク』は初期長編と初期中編集との合本。800ページ以上ある。
『エリヌス-戒厳令-』は「航空宇宙軍史」の大枠を決めた初期長編と云うことで、物語としてアイデアとエピソードがてんこ盛りになった1編。登場人物が多く、それぞれが主要キャラとして印象に残る描き方がされている上、いわゆるハードSF的な説明もきっちり出してきているので、詰め込み過ぎともいえるけれど、かなり読み応えがある。それらの主要登場人物が、ヒロイン役も含めて結末時点でほとんど生き延びていないという物語上のハードさは、ご都合主義のエンターテインメントにはしないという作者の気概を感じさせる。
ただ今の時点で女性軍人軍属がヒロイン役を除いて皆無という設定は、作者自身が旧海軍的な設定を航空宇宙軍(反乱軍を含む)で書きたかったということを受け入れても、やはりマッチョ主義と受け取られても仕方ないところだろう(女性作家が男しか出てこない宇宙ミリタリーものを書きたがるのとはちょっと意味合いが違う)。
『仮装巡洋艦バシリスク』の中編群は、長編に比べるとずっとSF的なロマン(ハードSF的ファンタジー)に傾いた物語が展開されている。その分SFとしては一般的なスタイルに近づいているといえるが、「航空宇宙軍史」第1作という「星空のフロンティア」の印象は、長編の『エリヌス-戒厳令-』に比べると加筆修正が難しいこともあって、普通小説的な側面を持つ前半とハードSF的ファンタジーに向かって展開する後半が、まだスムースにつながっていないように思われる。「砲戦距離12,000」や「襲撃艦ヴァルキリー」のように戦闘描写が主となった物語では、そのような感じは受けないので、これは作中リアリティのレベルの違いが読み手に違和感をもたらしているのだろう。
〈直交〉三部作完結編というグレッグ・イーガン『アロウズ・オブ・タイム』は、そのまったくチンプンカンプンな数物理的設定を度外視すれば、6世代目たちがてんやわんやする表面的な物語はフツーに読みやすい。それはドラマ部分がとても通俗な物語として感じられるからなんだろう。
未来の情報を受け取ることが出来ると判ったとき、その情報が現在にどう影響するかを巡ってメリットありと考える多数派(任務遂行派)と百害あって一利なしと考える少数派(任務放棄派)を代表するキャラたち思考と行動はとてもわかりやすい。残念なのは、〈直交宇宙〉で起きているわれわれの宇宙と違った現象を頭の中でイメージ化するのが大変難しいことだ。また主要キャラたちが着陸した惑星で、丘の斜面を爆破したときに見つかった過去からのメッセージの情景はイメージできても、それがどういう現象なのか理解することは出来ない。
そんなレベルでしか読めていなくても、エピローグはむしろ古典的なハードSFの大団円を迎えていて、なんだか良いSFを読んだような錯覚に陥る。
『筺底のエルピス』で思わぬパワーを見せたオキシタケヒコ『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』は講談社タイガ・レーベルというラノベ系(?)叢書で出た1冊。
話はタイトル通り、典型的なホラー/怪談ストーリー風に始まり、話の半ばすぎまではオーソドックスに展開するけれど、後半から結末に向かってまったく話の性格が変わって最後には一種のSFとして物語が着地する。
前半と後半では主人公の立ち位置がネガポジみたいに反転し、キャラさえ変わったように感じられる。またそれまでのホラー/怪談話も、見え方がひっくり返るので、そこはちょっとギアチェンジが激しすぎてビックリする。
帯の背に大きく謳われている「意識と自由意志はまぼろしなのか?」が全然ぴんとこないドラッグものSFが、ダリル・グレゴリイ『迷宮の天使』上・下。
この話はどう見たって、使用すると本人専用神様が脳内に出来るドラッグの開発者の一人である、精神が不安定な女性神経学者を主人公とした近未来ミステリにしか見えない。
主人公を始め出てくるキャラがどいつもこいつもうっとうしい奴らばかりなので、最後まで面白いという感覚がわいてこず、われながらミステリ嫌いなのかと疑う始末。そういえばスウェターリッチの『明日と明日』も楽しめなかったし。でもベン・H・ウィンタースの『地上最後の刑事』は、SF設定はともかく、話は一応読めた(結局『世界の終わりの七日間』まで読んだ)けれどねえ。
なんだか創元推理文庫に乗っかったような形で出たロバート・F・ヤング『時をとめた少女』は、柱となるべき「妖精の棲む樹」と「真鍮の都」が中村融編のアンソロジーと同氏訳の長編版で読んで記憶に新しく、それ以外の短い短編を読むことになった。
やはり基本的には不器用な作家だなあ、との印象が残る結果となったけれど、そのロマンティック/パセティックな女性への想いが過激な形で作品化された「花崗岩の女神」は今読んでも中々衝撃的である。そのほかの小品を読んでいると、なんとなく文体のないブラッドベリみたいな感じもある。
昨年出たSFのうち、読み残したものの一つ、樺山三英『ドン・キホーテの消息』を読んでみた。
これは表題の如く、大組織の老ボスが徘徊老人(?)となって行方不明になっているが、老人は自分をドン・キホーテだと思って、現代と異界(?)とを見境なしに放浪する話がメイン。但し物語の外枠は、この老人の姪が、なぜかペット探し専門の探偵(わたし)に人捜しを依頼する所から始まり、この探偵の話とドン・キホーテの話が交互に語られていく。
探偵側の話はともかく、ドン・キホーテの話はよく出来ており、現代にドン・キホーテをよみがえらせて見せることで、現代批判を面白く語ることがしっかり出来ている。現代世界を徘徊しているはずのドン・キホーテには、ちゃんとサンチョ・パンサも付いていて(正体は不明だが、現実的にも付き人なのだろう)王国を貰う約束に最後までこだわっているし、ちょっとした幻想小説の雰囲気も醸し出しているのが読んでいてうれしいところ。
ときどきなんでこんなものを読んでいるんだろうと読みながら思うことがあるけれど、宮澤伊織『裏世界ピクニック』もそんな感じで読み進めていた。
この作者が女の子たちのエキセントリックな友情/愛情を書きたくて書いているのだから、別に読み手がどうこう言うこともないが、やや退屈な感じがつきまとう。
ここでの裏世界はいわゆる〈ゾーン〉もので、そちらの方の話はわりと乗って読めるので、一応最後まで読めた。巻末の参考文献紹介コメントを読むと、ネットだと昔よりずっと効率よく怪しいネタが集められることがよくわかる。
わりと期待して読み始めたG・ウィロー・ウィルソン『無限の書』は、読み始めたときは本格的なイスラミック・テイスト幻想小説が展開するんではないかとワクワクしたが、読み進めるうちに、今風のヤングアダルト・ファンタジーであることが判ってきて、やや興ざめしてしまった。
それは読み手の勝手な思い込みで、普通に考えれば、アラビアンナイトなムードには十分浸れるし、ヴィクラムという魔物キャラの造形は魅力的だったし、エンターテインメントとして、またヤングアダルト・ファンタジーをして世界幻想文学大賞を受賞するだけのことはあるといえる。
ただ同じ世界幻想文学大賞受賞作という触れ込みのグレアム・ジョイスの『人生の真実』があまりにも良かったし、本格的幻想小説を期待していたので残念だった。
ノンフィクションは1冊だけ。堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』は親本が2007年岩波書店刊、もとは『図書』連載エッセイをまとめたもの。
25編のエッセイが収録されていて、題材は一見バラエティに富んでいるが、そこにはは常に表題である「バン・マリー(湯煎鍋)」的な感覚を伝えようとする意気込みが感じられる(それでも中には主題と関係なさそうに見えるエッセイも多々あるが)。
フランス文学者のエッセイストとして堀江敏幸を先年なくなった杉本秀太郎の後継みたいな感じで読んでいることは、以前にも書いたけれど、いまのところ堀江敏幸は日本の古典文学についてほとんど言及がない。このエッセイ集でも話題の多くはフランスとその周辺である。ただ幸田文『崩れ』についてのこだわりが、この10年前の文章で触れられて以来、現在書かれた文庫版あとがきでも強調されているところを見ると、近いうちに日本の古典を論じるようになるかもしれない。