内 輪   第318回

大野万紀


 シミルボンにレビューやコラムをアップするようになってもう半年以上たちました。初めは昔書いたものをアレンジしてアップしていましたが、最近は書き下ろしで作家紹介や作品紹介をやっています。先月はグレッグ・イーガンの短篇を紹介するコラム「恐くなんかないよ。さあグレッグ・イーガンの短編を読もう!」や円城塔のSF作品を紹介する「おひとり様シンギュラリティ――円城塔のSFを読む」を続けてアップし、さすがに疲れました。
 そこで気がついたのですが、まだ電子書籍化されていない本が意外に多いのですね。わりと新しくて話題になった本でも電子化されていなかったり、基準が良くわかりません。イーガンだと『宇宙消失』、『万物理論』や『プランク・ダイヴ』が、円城塔だと『後藤さんのこと』や『シャッフル航法』などが未対応です。シミルボンだと、電子化された本の方が取り上げる優先度が高い場合が多いので、ちょっと悩んだりします。ちなみにティプトリーの場合、電子化されているのは今のところ『あまたの星、宝冠のごとく』だけではないのでしょうか。Amazonでちょっと検索しただけなので、もしかしたら間違っているかも知れませんが。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『翻訳家の蔵書』 大瀧啓裕 東京創元社
 キー・ライブラリのぶ厚い一冊。子どものころから現代まで、主に海外古典の幻想小説やパルプ雑誌への偏愛、クトゥルー、サンリオ、神秘学と、その他の幅広く豊饒な趣味の世界を、自分史に即し、大体は年代順にだが時々時間が戻ったり、筆のおもむくままにつづったエッセイである。もちろんタイトル通り、言語と翻訳について、そして集めに集めた古本、稀覯本から、電子書籍、DVDにいたるまで、翻訳家の膨大な蔵書について書かれている。
 大瀧啓裕さんといえば、ぼくら古い関西ファンダムの人間にとって、本名をもじったモリミキさんという方が通りがいい。70年代、伝説のファングループ「ぱんぱか教団」(当初は「ぱんぱか集団」)で活躍していた(ちなみに、代表が今の青心社の青木社長)。そのガリ版刷りファンジン「ひゅーまん・るねっさんす」に、すでに翻訳も連載していたし(確かそのはずだが、現物が出てこない)、本書によれば「ひゅーるね」のおふざけページも担当していたとのことだ。ぼんやりした記憶に残っているだけでも、これはもう絶品で、神戸の人間からすれば「大阪や……」と絶句するようなえぐいギャグが連発されていた(ような気がする、いやきっとそうだ)。
 というわけで、本書はとても懐かしい気持ちになる記述が満載だった。大瀧さんはぼくの1年先輩にあたり、ぼくらがSF研を立ち上げたときにはもう有名人だったので、神戸外大まで坂を下りてみんなで訪ねていった記憶がある。でもどんな話をしたかとか、まったく覚えていない。何とも記憶力の低下が著しい。それに引き替え、本書の過去の記述の詳細なこと。日記かメモもとっていたのだろうが、そもそも記憶力の強さが違うように思う。何しろ、訳書の校正を、原稿なしで記憶だけでやったというのだ。想像を絶する。
 本書には、海外の古書をはじめ、プラモデルやフィギュア、海外テレビドラマ、DVD、葉巻やパイプ、ワープロとコンピューター、庭いじりまで、とても幅広い対象への、オタクというかマニアックなこだわりがあふれている。コンピューターを除いて、ぼくとはほとんど興味の対象がかぶらないのが面白い。かぶらないが、その凝り方はわかるし、何か偉そうな語り口すらも傾聴に値する。
 コンピューターについていえば、本書でもかなりのページ数をさいて語られており、単なる道具以上のものとして扱われている。その話題は、ぼくもほとんど同じような体験をしているので、懐かしいというより生々しかった。あのDOS時代のメモリー確保への努力。今ではまったく意味のなくなった知識やノウハウだ。でもやってたんだよねえ。
 さて、本書を読んでいて一番目立つのは、カタカナ語が出てくるたびに、それが原音ではどう書かれるべきかをカッコ書きしていることだろう。ページを開いた最初から「ショッピング・センター(英語としては長音のないセンタ)」といった具合だ。初めは翻訳家としての原音主義へのこだわりとして読んでいて、それにしても結局カタカナで書くのでは発音どおりにはならないしなあ、などと思っていたが、そのうち、これは繰返しギャグなのだと気づいた。その他にも、文章中に唐突に、わかる人にはわかるという感じのギャグが挿入されている。そうだった、ぱんぱかのモリミキさんなんだ。もう、人が悪いんだから。
 それから、翻訳の技術論、心構えなどについては、非常に刺激的で、時には辛辣な言葉も使い、実績の裏付をもって自信たっぷりに語られているのだが、ぼくなどは確かにその通りかもと思うと同時に、ははーと平伏するしかない。まあこれも一種、芸の世界やね。

『恐怖小説 キリカ』 澤村伊智 講談社
 『ぼぎわんが来る』『ずうのめ人形』に続く日本ホラー小説大賞作家の第三長編は、作者本人(を名乗る人物)が主人公として登場し、『ぼぎわんが来る』が新人賞を受賞するところから始まる。
 変格な小説であり、帯に「スティーヴン・キングの『ミザリー』に挑む」とあるので、読者は当然そういう話を意識して読むだろう。確かに、平凡な人間である作者が、愛する妻キリカの支えを得て、初めての長編小説を書き上げようとする日常的な風景に、文学仲間だったはずの男が「作家」というものは人格破綻者でないといけないなどと主張して、狂気のストーカーめいた行為をはじめるあたりまでは、そういう「嫌な」心理ホラーとして読めるように書かれている。
 ところが、読み進めるうちに、誰もがどこかおかしいと気がつくだろう。SFやホラーを読み慣れているなら、わりあい早い段階で、それがわかるはずだ。そして確かにその通りだと判明する。けれど物語はそのまま続いていく。わかった気になった時点で、すでに作者の術中にはまってしまっているのだ。
 ここから先は、どう書いてもネタバレになってしまうので、とても書きにくいのだが(それにうっかりしたことを書いてアップすると、アレがやって来るからね!)、本書もまた(『ずうのめ人形』でもそう思ったが)一種のSFとして読めるのだ。超自然的要素はさらに減っていて、人間、意識というものの不思議さが前面に出てくる。サイコパスな「殺人鬼」、「普通」であろうとする作家、平凡だが魅力的な「嫁」、そして「小説」。メールやネット上の書き込み。それら「情報」が、いかに人と相互作用を行うか。本書はそれが「恐怖小説」の形をとる。
 ずいぶんおどろおどろしく、嫌な気分になる「恐怖小説」ではあるが、ヒロインが魅力的に描かれていて、それが救いとなっている。あー、でもやっぱり、オカルト探偵の二人にも登場してほしかったな。そして、KADOKAWAの編集者に比べて、本書の出版社である講談社の編集者がとても嫌なやつに描かれているのは、もしかしてギャグなのだろうか。

『無貌の神』 恒川光太郎 角川書店
 作者の最新作は、雑誌「幽」に掲載された中短篇6編を収録した短篇集である。それぞれの作品に直接のつながりはない。
 表題作は、作者の昔の作品と同じ雰囲気のある、この日本のどこかに切り離されて存在する、忘れられた異界の地と、その神さまの物語。深い谷にかかった赤い橋を渡ってきた人々が密やかに暮らすこの地には、顔のない神さまがいる。その神さまは人を癒してくれるが、人を喰う神でもある。少年はこの神さまを打ち倒そうと挑戦するが……。繰り返される連鎖を断つとき、そこに何が起こるのか。
 「青天狗の乱」はまた雰囲気が変わり、江戸時代の終わりに伊豆の流刑地で起こった、青天狗の仮面をめぐる奇怪な物語。語り手がいわばこちらの世界の、目端の利く普通の男なので、まさに実際にあった怪談話を聞かされるという感じである。奇怪な話ではあっても登場人物にはみな名前があり、現実に起こったという体裁がある。伝説の生まれるところか。語り手の性格によるのか、どこか明るく、閉塞感はない。
 「死神と旅する女」はSF的・伝奇的な味わいのある作品だ。明治か大正のころ、村の少女フジは、時影と名乗る死神に捕らわれ、妖刀を渡され、言われるままに全国を回って人を斬るという暮らしを続ける。死神は、彼が指定する七十七人を殺せば、フジを解放するというのだが。フジが男たちを殺すたびに、世界は少しずつ変わっていく……。最後に訪れるのは、まさにSF的な戦慄である。
 「十二月の悪魔」もSF的な話で、法律が変わり、重罪人は一般社会から隔絶された特別な街で、監視されながら普通の生活を送るのだという。主人公の老人は、そこに捕らわれていたが、記憶があいまいで、悪魔や魔法の存在を感じ、そこから逃れようとするのだが……。すべては悪夢の中のような、不条理で不可解な雰囲気に覆われている。
 「廃墟団地の風人」は、肉体のない霊的な存在となった少年が、彼を見ることのできる少年と友人になり、その少年を襲った残酷な運命から彼を救おうとする。だがそのためには、風人は肉体をもつ地上の存在にならなくてはいけないのだ。さわやかさのある幽霊譚である。
 最後の中編「カイムルとラートリー」は、古代の西域かインドを思わせる土地で、知能を持ち言葉をしゃべることのできる妖獣の子カイムルが、人間に捕らわれ、皇帝の第三皇女ラートリーに仕えるようになるという、幻想的で説話風、伝説風の物語だが、これは傑作。何よりカイムルが可愛い。手塚治虫のマンガに出てくるような、可愛さと力強さがある。皇女に生まれながら障害があり、千里眼の力をもつラートリーも魅力的だ。結末のシーンも美しい。
 6編とも、物語としてはオープンエンドで、きちんと構築された小説というより、神話的・伝説的な味わいが強い。帯には「大人のための暗黒童話」とあるが、奇怪で不条理な運命に立ち向かおうとする主人公たちの姿には、たとえその結果が曖昧でやるせないものとなっていても、力強い魅力がある。

『エコープラクシア 反響動作』 ピーター・ワッツ 創元SF文庫
 『ブラインドサイト』の続編。前作と同様、エンターテインメント作品であるにもかかわらず、ほぼ読者を無視して好き勝手に書かれているみたい。前作を読んでいないと何が起こっているのかわからないだろうし、たとえ読んでいてもわかりにくい。
 それは科学や医学、とりわけ認知科学関係の知識や用語が説明なく話の前提として書かれているからで、おそらくイーガンを読むよりずっと難解だといえるだろう。時にはギャグとして断片的なひと言が差しはさまれる。そんなの元ネタを知らなきゃ意味不明でしょう。でも書かれている内容はとても刺激的で、イーガンとも肩を並べるハードSFの傑作に違いないのだが。
 ひとことでいえば、色んなタイプのポストヒューマンたちによる、とてもややこしくスケールの大きい異能バトルが描かれているというわけだ。イーガンやチャンがワッツより理解しやすいのは、ポストヒューマンも基本的には人間として描かれているから。ところがワッツの描くポストヒューマンは、吸血鬼にしろ、両球派の集合精神にしろ、ゾンビにしろ、人工知能の進化したやつにしろ、そしてもちろん異星人も、みんなわけわからない存在だ。まあ本当のところそれが当たり前だろうとは思うけれど。
 そもそもの大前提として、自意識なんてものは存在せず、他者への共感なんてのも無意味だということがある。タイトルのエコープラクシア(反響動作)というのも、医学用語で、無意識のまま他人の動作をそのままコピーするような動作をしてしまうという精神疾患を示している。本書の登場人物たちは、主人公の普通の人間(ベースラインという)も含めて、みんな(互いに)誰かにコントロールされていて、本当に自由意志で行動しているものなど誰もいない。自意識が存在しないのだから当然だろう。ただそれも特定の誰かの意志に支配されているというより(その誰かにも自由意志はないのだから)、相補的で、自己言及的な関係にある。相手は自らの思う〈神〉だったり、失われた妻や息子(という形をもつ罪悪感=自分自身)だったり、誰が最終的にコントロールしており、一番上位にいて勝利したのは誰なのか(吸血鬼? 両球派? 異星人?)も曖昧である。とりあえずの結論は書かれているが、本当なのか? 語り手も信用できないし、客観描写すら、誰かの目を通して解釈された、フィルターのかかったものかも知れない。このわけのわからなさがいっそ心地よい。
 ストーリーとしては、前作で圧倒的な異星人の力を見せつけられた後の地球で、何も加工していない普通の人間である主人公の生物学者が、謎のゾンビ軍団との戦闘に巻き込まれ、砂漠の中の両球派の修道院へと逃れ、大佐と呼ばれる軍人、両球派の中で一般人へのスポークスマン役をしている女性、ある時は敵、ある時は味方であり、超知性と超人的能力をもつ女吸血鬼と関わった上に、巨大宇宙船〈茨の冠〉に乗り込んで、彼とある因縁をもつ雇われ操縦士も加わり、太陽近傍のイカロス・エネルギー衛星へと旅立ち、そしてあの異星人と出会って、破壊された地球へ戻るという話である。だいぶ飛ばした気もするが、まあそんな話だ。
 バトルシーンや派手な描写もいっぱいで、細かなアイデアもてんこ盛り。そういう意味ではとても楽しく読める。キャラクターのわけわからなさに悩まなければね。でもがんばって読む価値のある作品だ。

『棄種たちの冬』 つかいまこと ハヤカワ文庫JA
 『世界の涯ての夏』で第3回ハヤカワSFコンテストで佳作となった作者の、受賞第2作。受賞作に比べてもずっと筆力が向上しており、読み応えのある作品となっている。
 人類が演算世界に移住した遠未来、と帯にあるが、それは確かなのだけれど、とりあえずその設定は忘れて欲しい。冒頭から、気候変動による寒冷化で文明の崩壊した後の、厳しい生活が描かれる。主人公はサエとシロという二人の少女と、二人に拾われた男の子ショータ。この時代、生き残った人々は小さな集団(クラン)を作り、菌類に覆われた大地で狩猟採集の生活を送っている。海のようなキノコの草原にいる大きなカニは、危険ではあるがごちそうでもある。滅びた街の廃墟には朽ち果てた建物が残っているが、いつ崩れてくるかもわからない。
 そんな危険な環境で、サエたちのいたクランが、シロを〈黒の一統〉という暴力的で悪名高いクランへ嫁に出す(実質的には奴隷売買である)と決めたとき、二人はクランを脱走したのだった。そしてどこのクランの出身とも知れず、ひとりぼっちでさ迷っていた男の子を拾ってショータと名付け、今は三人でがんばって生きている。古い建物の中で文書を見つけ、〈塔〉へ持っていこうとした彼らは〈黒の一統〉と遭遇し、追われる身となる。市街にある〈塔〉にはクランから独立した賢老が住み、失われた知識を集めているのだ。いったんは逃れたサエたちだが、再び危機が迫る……。
 第一章はずっとこんな感じで、破滅後の世界での冒険が描かれる。どんどん冬が長くなり、いずれは食料がなくなって滅亡してしまうことが明らかな、黄昏の世界。そんな絶望的な世界で、たくましく元気に生きるサエたちが素晴らしい。破滅後の世界を描くSFは数々あるが、本書もとても読み応えがある。
 第二章に入ると、退屈な演算世界に生きるポストヒューマンの姿が描かれる。人類の滅亡が迫り、人々は意識を仮想現実の世界へ移し、そこで永遠の日々を送っている。だから物理世界へ残ったサエたちは、棄種と呼ばれているのだ。残念ながらこの章はありきたりで、もう一つサエがない。このあたりは曖昧にして仄めかす程度でいいから、もっと骨太に「棄種たちの冬」に集中して欲しかったと思う。第三章でまた物理世界に戻るが、せっかくの緊張感が薄れてしまったと感じた。
 しかし、この作者はまだまだ伸びる気がする。これからも大いに期待できる新人である。


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