内 輪 第317回
大野万紀
これはしかし、彼が突然始めたことではありません。いや、アメリカ新大統領の話です。リベラルではなく、かといって伝統的なアメリカの保守でもない、彼が代表する排他的で不寛容な「雰囲気」は、アメリカだけでなく日本も含め、この何年かで急速に膨れあがってきた世界的な潮流の中にあるものなのでしょう。おそらくはISに代表される容赦ないテロリズムへの反動でもあるのでしょうが、そこにはティプトリーが何かで語っていたように、この何十年かの努力で獲得されてきた地道な権利意識の進展も、ほんのわずかな環境の変化でたちまち優先度が下がってしまうというおぞましい現実があるのでしょう。だから仕方がないと、言うわけにはいきませんが。
例えば未来を見すえるものであるはずのSF界での、ここ何年かのヒューゴー賞の混乱にも、同じ根があるような気がします。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『突変世界 異境の水都』 森岡浩之 徳間文庫
日本SF大賞を受賞した『突変』の続編というか、その四年前の出来事を描く話。大阪が異地球に突変してしまう。『突変』に出てきたすごい高校生兄姉の、中学生時代も出てくる。600ページとずいぶん分厚い本だが、とても面白くてページターナーなので、どんどん読めるから大丈夫。
大阪の水都セキュリティーサービスに所属する岡崎大希は、宗教団体アマツワタリの指導者である十七歳の少女、天川煌の警護という特殊任務を与えられる。アマツワタリはカルトではないが、異世界への移民を教義とする新興宗教で、突変現象が起き出してから急速に信者を増やしている。その内部争いに巻き込まれ、彼女を救ったところで、大阪全域が突変してしまう。
府知事が外遊中で中心となる勢力がないところへ、アマツワタリと手を組んだ企業集団、水都グループと、ヤンキーあがりの過激な暴力集団、魁物が主導権争い(というか、ほとんど戦争)を始める。魁物の団長田頭誠司は乱暴者だが頭も切れる、世が世なら(悪役の)英雄タイプ。対する水都・アマツワタリ側は、ボケをかますグループ総裁、オタクな教団後見人、そして意志の強いお姫様・天川煌と、と彼女を守る若き有能な騎士・岡崎大希。
いかにも王道なキャラクターとストーリーをもって、この攻防戦が描かれる。マッドマックス的なヒャッハーな未来でも安心して読めるというものだ。自衛隊や警察はなかなか立場をはっきりさせず、このため、この戦争は血なまぐさいが、暴力団の抗争か何かのような雰囲気だ。でもそれがかえって迫力と緊迫感を増している。それぞれの勢力の中にも裏切り者がいたり、あっと驚く人間関係が判明したりで、なかなか安心できない。
なお『突変』では異世界の状況や生物が詳しく描かれていたが、本書ではそういうSF的な要素は背景に退いて(ひとつ大きなアイデアが提示されているが)、大阪の支配権争いが前面に出ている。まあ前作が小さな町内が突変したのに対して、本書は大都市がそのまま転移するので、どのように秩序を再構成し、異世界で生き残るのかということに観点が移るのはやむを得ないだろう。
ところで、本書の面白さには関係ないが、大阪が突変した後インターネットがつながらなくなるという描写がちょっと気になった。市内のDNSやサーバは生きているので、域内ならインターネット接続できるはずと思うのだけど、どうなんだろうか。それから、ヒャッハーな暴力が吹き荒れるのはいいとして、この大阪で最強なはずの、大阪のおばちゃんらの影が薄いのはどういうことだろう。
『横浜駅SF』 柞刈湯葉 カドカワBOOKS
横浜駅が自己増殖して日本を支配してしまう――Twitterのネタから始まって、カクヨムのWEB小説コンテストでSF部門の大賞となり、出版という、おまけに大森望の帯が「2016年の日本SFベスト1かも」とくれば、古い人間ならちょっと色眼鏡で見てしまいそうな話だが、なかなか読み応えのある本格的なSFだった。
なろう系やWEB小説はたくさんの読者の目にさらされるので、文章はしっかりしているということだが、なるほどと思える。テーマ自体は科学技術の暴走で世界が破滅するというありきたりなもので、それが〈横浜駅〉というのが面白いのだが、ネタとしてはともかく、とりわけ〈横浜駅〉であることの必然性や必要性は感じられない。確かにSUIKAであってICOCAじゃないというようなところはあるが、独自な特質はそれが「駅」であるというところだけであって、特に「横浜」というローカリティは感じられなかった。
だが「横浜」かどうかはともかく、「駅」が増殖して日本(本州だけだが)を埋め尽くすというイメージは徹底していて、それがすごい。ナノマシンの「泥」でも「ノイズ」でもなく、とても具体的な「駅」なのだ。またこの「駅」は、生命体のように自己修復し自己増殖する人工物ではあるが、大した知性はなく、シンギュラリティを超えた人工知能といったものではない。神秘性もなくて、単なる暴走した機械である。
物語は〈冬戦争〉という世界大戦の後、JRが支配していた日本で、横浜駅に試験的に与えられた自己増殖機能が暴走、やがて本州のほとんどを覆い尽くし、かろうじて北海道のJR北日本と、九州のJR福岡が、独自の技術で防戦しているという設定である。本州の人々は横浜駅の駅ナカでそれなりに文化的に暮らしているが、それは非人間的な「駅」の機構に支配される生活でもある。そこからはみ出した(SUIKAを持たない)人々は、海岸などの村で細々と原始的な生活を続けている。
世界の他の地域とは連絡もとれず、この列島は孤立している。視点人物となるキャラクターは何人かいるが、一人は村に流れ着いた〈キセル同盟〉の男からもらった〈18キップ〉でエキナカに入り、同盟のリーダーを探そうとするヒロト。また一人はJR福岡の技術部門につとめるトシル。彼もまた無法地帯となった四国からエキナカに入ろうとする。そして〈キセル同盟〉のリーダーであり横浜駅を出し抜こうとしていた女性ケイハ。さらに脇役として、JR北日本から潜入してきた人工知能をもつ子ども型のロボットたち。
本書は彼らのトラベローグとして語られ、後書きで作者が述べているように、その語り口は椎名誠の〈北政府〉ものに強く影響を受けている。それはとても成功していて、この奇怪に変貌した日本列島の、荒涼とした破滅後の世界を雰囲気豊かに描き出している。過去の栄光はなく、滅びへと向かう世界。その中での日常。その寂寥感は圧倒的だ。
色々と弱点はある。キャラクターの書き分けが十分にできていないこと、過去の文化や技術がこの世界でどのように受け継がれているのか、そこに矛盾が見受けられること――などなど気になった点はあるのだが、どれもさほど重要ではない。結末では世界が広がる予感もあり、続編や番外編もぜひ読みたい。なお、重要なポイントが〈42番出口〉であったり、それぞれのサブタイトルがSF小説のタイトルをひねったものだったりと、どうやら作者はSFの人に違いない。
『カブールの園』 宮内悠介 文藝春秋
2016年の「文學界」誌に掲載された純文学作品2編、「カブールの園」と「半地下」が収録されている。
「カブールの園」は芥川賞候補となった(惜しくも次点となったが)作品で、アメリカで暮らす日系三世の女性エンジニアの物語。生まれてすぐに父親が家を出て行き、子どものころにはひどい虐めにあい、母親とも強い共依存の関係にあったが、長じては独り立ちし、母親を否認するに至っている。そんなわけで、彼女は精神的にかなり不安定だ。
彼女は大学時代の仲間とITベンチャーを立ち上げて、クラウド技術を使った音楽制作ソフト(遠隔地にいるミュージシャンたちが断片的な音楽をコラボできるツール)を販売し、今はその新バージョンをリリースしようとがんばっている。彼女はまた、クリニックに通い、VRを使った心理療法を受けているが、子どものころのトラウマがよみがえり、なかなかそれを克服できない。でもそれに慣れて克服することが本当にいいことなのか? それは大切な何かを失うことではないのか、とふと疑問に思う。
そんな彼女の状態を見かねて、会社の友人は強制的に休暇を取るよう指示する。彼女は一人で車を運転し、ヨセミテ国立公園へと向かうが、いつしか日系人強制収容キャンプの跡地を訪れている。そこは第二次大戦のとき彼女の祖父母が収容されていたところだ。アメリカ近代史の中でのマイノリティとしての日系人。この旅は彼女にそのルーツを思い起こさせ、さらには過去の声を耳にして、彼女に新たな発見をもたらす。
それは「南加文芸」という収容所で作られていた同人誌。ここに来て彼女の物語は、言語の物語となる。英語と日本語。二つのレイヤーの相剋と重なり合い。そしてこれを契機に彼女には母親との心理的な和解の道が開け、新ソフトのプレゼンテーションでは、IT技術に支援された、新たな展望が垣間見える。
淡々と語られるが、力強い物語だ。決して壁が解消されたわけではない。だが個人をつなげる新技術は、それを乗り越えていくことができる。純文学には違いないが、現代を描く文学は、必然的にそんなSF的な感覚をまとうことになるのではないだろうか。分断される社会、言語、文化、家族、そして個人、心……と、それらをつなぐ(可能性のある)技術。これはそんな物語といえるのかも知れない。
「半地下」は著者の処女作に手を入れたものだということだ。こちらは日本からニューヨークに来て、親に捨てられ、姉と二人で暮らすことになった少年の物語。彼は様々な人々の世話になり、友人たちと学校生活を送り、プロレスの世界で生きることになったたくましい姉の輝きとともに成長していく。
これは80年代の青春の、瑞々しいグラフィティとしても読めるし、またここでも日本語と英語という言語の問題が浮上してくる。いくぶんかは著者自身の体験や感覚も描かれているのだろう。それはどきりとするほど鋭く、またぼくらの知っているリアルな世界ともつながっている。時には残酷で、時にはユーモラスに描かれたそれは、ひたひたと心に迫り、ぼくは冒頭の数章で本当に泣きそうになった。わざとらしいのではなく、こんなところに生きて何かを見て考えている人間がいるという感覚。小説の中の人間も、それが読者の頭の中で再生されるとき、本当に命をもつのだろう。傑作である。
『天界の眼 切れ者キューゲルの冒険』 ジャック・ヴァンス 国書刊行会
国書刊行会の〈ジャック・ヴァンス・トレジャリー〉、『宇宙探偵マグナス・リドルフ』に続く第二巻である。ついに出ました〈滅びゆく地球(ダイング・アース)〉シリーズの第二短篇集(というか連作長編)だ。あの名作『終末期の赤い地球』に続く作品集である。
魔法が復活したはるか未来の滅びゆく地球で、スチャラカな小悪党のキューゲル(自称「切れ者」というが、全然そんな感じじゃなく、ただ口が達者で調子のいい、倫理観欠如で欲望に忠実、かといって凄みもなく、失敗ばかりのワルモノだ)が、魔法使いの家に泥棒に入って失敗し、罰として天界を映し出す魔法の眼(これって、今でいうARですね)を探しに、遠い異国へ飛ばされる。そこから、その魔法の眼〈尖頭〉を手に入れ、魔法使いへの復讐を誓って、様々なひどい冒険の末、帰還するまで(いやその先もあるのだが)の物語。7編の短編で構成されている。
いやー、それにしてもひどい奴だよキューゲルは。はた迷惑というか、彼に関わった連中にはホント同情を禁じ得ない。とりわけ女性たちや真面目な男たちは理不尽な目に合わされる。小説の中においても正義を重んじるような人は、読まない方がいいかも知れない。でも笑える。面白い。
それにしても描写のカラフルで美しいこと。退廃的で衰退した、くすんだ遠い未来の、荒野には妖魔が徘徊し、村や町の人々は野蛮で薄汚い日常を送っているような、エキゾチックで残酷な異世界が、ふいに輝くような色彩ときらびやかさと瑞々しさにあふれ、幻想的な魅力に満ちた都市や庭園が出現する。優雅で美しく貴族的な人々。だがそのほとんどは幻だ。サイエンス・ファンタジーの文脈でいうなら、ヴァーチャル・リアリティがオーバーレイされているということだ――魔法で。たわいもない話といえばそうかも知れないが、豊饒で魅力あふれるアダルトファンタジーである。堪能した。
『すばらしい新世界』 オルダス・ハクスリー ハヤカワ文庫
アメリカが変わろうとしている現在、まさにタイムリーな出版だといえるだろう。ただ『一九八四』などと違い、このディストピアは抑圧が(その内部にいるものには)目に見えず〈楽しく〉〈すばらしい〉とも思えてしまうものなのだ。
というか、半分くらいはそれがすでに現実になっている。たとえば〈共生・個性・安定〉であり、〈万民の幸福の追求〉であり、〈平等な福祉社会〉であり、〈女性の自立的で積極的な性意識も含む人間的快楽の肯定〉である。また〈親と子、夫と妻といった家族的抑圧からの解放〉である。
もちろん本書では、その背後にぞっとするような前提条件(多様性の排除、人間の機械化・管理、固定的で強烈な階級制といったもの)があるわけだが。でも、後半に登場し、この世界と対比される存在である〈野人〉ジョン、やたらとシェークスピアを引用し、保護区である旧世界の価値観に固執する彼にしても、われわれの目から見てとても親しくなりたい人物ではない。とりわけその古めかしく自己満足なジェンダー感(女性に自己のファンタジーを投影し、それに反する場合は暴力をふるう)には、同様なものが今の現実世界にも残るだけに、ぞっとさせられる。
とはいえ、この新世界がどんなに幸福で平和であり、大勢の人々がそれを肯定しているとしても、その背後におぞましい抑圧があることには間違いない。とりわけ多様性の排除である。もちろんこの世界でも多少の揺らぎは大目に見られる。主人公の一人であるバーナードがそうだ。この世界になじめず、〈空気〉が読めず、孤独をかこってはいるが、それも基本的には個性の範囲と許容されている。リア充とまではいかないが、ガールフレンドもいるのだ。だがそれは正規分布の範囲で許容される程度のものだ。もう少し外れると排除される。排除はあからさまに暴力的なものではなく、例えばアイスランドへ飛ばされるというような、〈他人に迷惑がかからないよう〉ゾーニングされ、隔離されるというものだ。
異質な個性を認めて共存することは、その異質さが大きく、相手に危害が加わるような場合、実際困難な場合がある。互いに妥協し、現実的な落としどころをさぐる努力が必要なのだが、この新世界の解決策も、極端ではあるが完全に否定することが難しい。これに反発するなら、人々の幸福な生活を否定するテロリストになるしかないのだろうか。
ところで、われわれから見て、この世界で人間らしく見えるのはアルファやベータといった階級の人々だけである。クローニング(とは書かれていないが)されて作られる下層階級は社会を支える機械にすぎない。実際、すべて機械で置き換え可能で、この世界では本来人間である必要のないものだ。ポストヒューマンSFのあふれる現代、この非人間的な人々が人工知能で動く機械だとすれば、本書はほとんど普通の未来SFとして読めるだろう。
ストーリーには関係ないが、クローニングで多胎化するとき、なぜ96という数字になるのかはよくわからなかった。どこかで3分割されるということなのだろうが。