続・サンタロガ・バリア (第175回) |
なんと、ジョン・ウェットンまで亡くなってしまった。これで69年から74年までのキング・クリムゾンのライヴを支えたヴォーカリスト/ベーシストが3人ともこの世を去った。2代目のボズ・バレルが亡くなったのはだいぶ前だったけれど、グレッグ・レイクとウェットンはわずか2ヶ月のうちに相次いでガンで亡くなっている。この二人をライヴで見たのは70年代にそれぞれ1回きりだったけれど。
あまり期待していなかったジェフ・ベック来日公演を見に行くことにしたのは、公演直前でもチケットが残っていたからで、にわか勉強で、昨年の新作"LOUD HAILER”と2015年の"JEFF BECK LIVE+"を聴いた。
"LOUD HAILER”は若い女性ヴォーカル/ラッパーをメインにした歌モノといっていいくらいのアルバムで、歌詞が結構今風にアグレッシブだった。前のスタジオ版ではジョス・ストーンをはじめ、何人かの女性ヴォーカルを使い分けた、どちらかというと落ち着いた感じのアルバムだったけれど、こちらはハードなサウンドがメインだ。
一方ライヴの"JEFF BECK LIVE+"は、ヴォーカルにおなじみジミー・ホールを迎えていて、いつものベックのステージみたいな感じだった。このライヴだけしか聴いていなかったら、たぶんチケットを手に入れようとはしなかったろう。
ジェフ・ベックを生で聴くのは3回目。最初は1999年で、1989年の『ギター・ショップ』以来10年ぶりにアルバムを発表しての来日公演だった。ジェニファー・バトゥンという大柄な女性ギタリストを引き連れてのハードな音が印象に残っている。2回目は2005年で、ヴィニー・カリウタをドラムに擁して、ビル・パラディーノのベースとジェイスン・リベロのキーボードという強力なバンドだった。このときは今回も出演したジミー・ホールがゲスト・ヴォーカルで出演していた。バンドの演奏はしなやかでキーボードのおかげで音色も多彩、まわりが総立ちで座りっぱなしの自分にはステージがよく見えなかったが、最後にジェニファー・バトゥンが出てきたような記憶がある。
今回は12年ぶりということになったけれど、会場は前の2回と同じ旧郵便貯金ホール。よっぽど気に入っているのか、ジェフ・ベック。開演ぎりぎりに2階席にたどり着いたので、コートを脱いでいる間に1曲目が始まった。"LOUD HAILER”からの新曲だと気がついたけれど、声は聞こえど姿は見えず。一瞬プログラム演奏かと思ったけれど、1階の客席を見るとラウドスピーカーを振り回している小太りなネエちゃんがいるではないか。"LOUD HAILER”のジャケットを飾ったのがラウドスピーカーそのものだったことを思えば、今回は新作の楽曲が沢山聴けそうだなと予想がついた。実際新作の主要曲がすべて演奏されて、現在のジェフ・ベックのヤル気が感じられた。このトランジスタ・グラマーなネエちゃん、ロージー・オディは、アルバム以上に声が可愛くて、声量は十分あるのに、ハードにシャウトしても可愛さが際立つという得な声質の持ち主だった。昔のリンダ・ロンシュタットみたい。 新作からの楽曲以外は、日本人ファンにおなじみの曲を聴かせてくれるジェフ・ベックで、ジミー・ホールがガンガン歌う曲は"JEFF BECK LIVE+"と全く同じだから、ここらはちょっと好みではない。アンコールの締めは‘GOING DOWN’でこれもライヴ盤と同じだけれど、ロージー・オディも入ってちょっと新鮮。
感心したのはロンダ・スミスでベースも巧いけれど、バック・コーラスもけっこう聴かせる。サイド・ギターのカーメン・ヴァンデンバーグはブルースのソロを聴かせたけれど、こちらはちょっとよくわからない。全然知らなかったドラマー、ジョナサン・ジョセフは公演後に買ったパンフを見てびっくり、ジョス・ストーンの親父だった(まあ、ジョス・ストーンの母親と結婚しただけで血のつながりはない)。結婚後は 引退状態だったらしいけれど、このツアーのために現役復帰したとのこと。ジョス・ストーンつながりでジェフ・ベックが参加要請したのかな。
それにしても70歳を過ぎたジェフ・ベックが、昔のようにギターを振り回すことはしなくなったけれど、立ちっぱなしで2時間あまりを弾きまくっているのを見ていると、やっぱりすごいなあ、とは思う。
大森望編『VISIONS』で読んだばかりの「海の指」はさすがに読む気にならなくて、「星窓remixed version」から読み始めた飛浩隆『自生の夢』は、10年ぶりの短編集と帯に謳われていた。云われてみればそうなのだけれど、短編を発表するごとに話題になっているような感じがして、その寡作ぶりがピンとこないのだった。
‘忌字禍/アリス・ウォン’連作は再読3読目になるものばかりだったけれども、このシリーズは何度読んでも内容が頭から抜けてしまい、毎回、ああこの話だったと思い出しながら読んでいる。中でも表題作が一番頭に残らないのが不思議で、再読するたびになんでこの話が記憶に残らないのだろうと首をひねる。小説自体に忘却が仕組まれているのかも(そんなわけないだろ)。
それはともかく、昨年出たSF短編集として上田早夕里の作品集と双璧をなす1冊だ。
あまり読みたい新刊が手に入らないので、今日泊亜蘭『最終戦争/空族館』を読む。ハヤカワ文庫版を読んだかどうか、もう忘れてしまったけれど、ここに納められた40編以上のショートショート(普通の短編もあるが)を読んでいると、子供の頃の不安を思い出す。
60年代を少年として過ごした世代には、SF特有のナイーヴな感性が、当時の世界的な不安感を、一種のヒステリア/パラノイアとして表現していたことがよくわかる。アメリカでは50年代から第3次世界大戦/核戦争物が書かれ、その一方で人間がそうでないものと入れ替わるSFスリラーも書かれていた。ディックがその恐怖を60年代にシュミラクラへと変換した。今日泊亜蘭はその種のパラノイアを空飛ぶ円盤とともに見事に取り込んでいたのだ。
昨年文庫になった吉村萬壱『臣女』を読んでみた。久しぶりに読んだ吉村萬壱作品は、あのザラついたホラータッチを維持したまま一種の奇想純愛小説を成就させていた。
妻が常軌を逸したモノに変化するというのは様々なバリエーションがあって、出来のよい作品が多いのだけれど、この長編もその一群を成すに至っている。
主人公の心性を反映した周囲の登場人物は、ほぼすべて不気味でイヤな人間ばかりである。そんな中で、常に変形しながら巨大化していく妻を、その発症の原因が自分の不倫にあったと確信しつつ、非常勤講師の月給とささやかな小説収入で養いながら、日々奮闘する主人公。そして物語は当然の破局に向かって進行する。
筒井康隆ならスラップスティックと叙情性で勝負しそうな話だけれど、吉村萬壱なので、主人公の妄執の描写にはシリアスなホラータッチと皮肉な笑いが交錯する。それがこの物語を「愛」があるように見せている。
この物語の設定世界は、読んでいると時々現実の世界とはちょっとズレているような書き方がされており、それが巨大化する妻を世間に隠しおおせる根拠になっているようだ。
翻訳物も手元に読みたいものがなく、エンミ・イタランタ『水の継承者 ノリア』を読んでみた。
地球温暖化で北欧でさえ真水が貴重となっていて、軍事政府みたいなものが国家を支配しているような世界を背景に、茶人の娘として生まれた主人公の物語。SF的にはこのような世界になる前の時代の記録を主人公たちがゴミ置き場から拾い出して・・・というのがあるのだけれど、それは物語の最後まで機能しない。
代々続く茶人の家に生まれた主人公は、最後まで茶人としての志を遂げようとした父の遺志を継ぐが、母はそんな父と娘を置いて学者として有利な地方へと旅立っていた。
茶人の家には代々秘密の泉の場所が伝えられていくのだが、その存在自体が主人公を苦しめる。
とまあ、とことん静謐な語りでサスペンスを引っ張っていくのだけれど、世界の成り立ちや軍部の行動や村人たちの状況が、いまいちピンと来ない恨みがある。それは茶人というスタイルと呼応するものなんだと思うが、隔靴掻痒な感触がずっと続く。
ちょっと手に入れるのが遅くなった人工知能学会編『AIと人類は共存できるか? 人工知能SFアンソロジー』は、人工知能がらみのテーマを「倫理」「社会」「政治」「信仰」「芸術」として、それぞれ作家に作品を依頼したものらしい。作家の方は早瀬耕、藤井大洋、長谷敏司、吉上亮、倉田タカシの5人。人工知能学会の方からは5人の専門家が、各作品について、そのテーマや物語から読み取れるものをAI学者として自分の専門領域に引きつけて論じている。
専門の学者が読むとあって作家の方もそれぞれ力作を寄せているが、まあ、テーマ別というのはちょっと無理があって、上の5つのテーマは多かれ少なかれほぼどんな作品にも含まれている。
早瀬耕「眠れぬ夜のスクリーニング」は、オチとしてはありがちだけれど、中間管理職の経験があるヒトは身につまされる話ではある。
藤井大洋「第二内戦」は、たぶんテーマを与えられなくても、藤井大洋なら書きそうな話で、相変わらず面白いが、探偵のスーパーマンぶりやヒロインの親子関係あたりが作品を甘くしすぎている。
長谷敏司「仕事がいつまで経っても終わらない件」は、現政権のパロディ・サタイアかと思わせる出だしでちょっと興奮したけれど、それはあくまでダシで、主題は表題通りのものだった。AIも大変だ。
吉上亮「榮域の偽聖者」は、チェルノブイリの観光案内人親娘が、本来は親娘と無関係なのに、敵対する勢力の一方に襲われ、親娘を助ける導きの声が割って入る話をメインにして、遠未来の聖人判定が絡む話。
そして倉田タケシ「再突入」は、人間最後の芸術家と人間でないものが芸術を作り出す予感を物語にして見せている。
一読してわかりにくいのは倉田タカシの作品で、解説の方も中身には言及せずAIと人間との芸術創作/鑑賞の話に終始していた。
1月に出た翻訳物で最初に読んだのが、大森望新訳版オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』とは、今年も新訳物が続きそうな感じだなあ。
40年あまり前に読んだのは、講談社文庫版(タイトルは『すばらしき新世界』と思っていたけれど、「すばらしい」だったんだ)。ほとんど忘れていることもあって、大森訳を読んでびっくり。40年前には『1984』や『われら』も読んで、権力によるディストピアのイメージが出来上がっていたような気がしていたが、大森訳の『すばらしき新世界』を読んでしまうと、えらく楽しいディストピアが出来上がっているではないか。
特に野人が求愛されてシェイクスピアのセリフを吐きながら逃げ回るシーンは、抱腹絶倒のミュージカル・コメディみたいで大笑いした。また、エピローグでぶらぶらしている足のシーンを読んで、ボリス・ヴィアンの『墓に唾をかけろ』の結末のシーンを思い出した。
それにしても『すばらしい新世界』のディストピアは、いわゆる俗論としての『幸福』を定義したら、たちまちユートピア/ディストピアの限界が襲いかかってくるという点で、観念論的にほぼ文句ない思考が展開されていると思う。まあ、21世紀の現実には勝てないけれど。
1月の国内新刊で最初に読んだのは、早川書房編集部編『伊藤計劃トリビュート2』だった。
ようやく草野原々「最後にして最初のアイドル」が読めた。フツーにアイドル話なのは最初の設定だけで、あとはえんえんホラーコメディが続くという感じだなあ。突っ走りぶりは評価できるけれど、説得力はないよね。
ぼくのりりっくのぼうよみは、『CDジャーナル』1月発売号のカバー・アーティストになっていて、ロング・インタビューを読むと自分プロデュース感がかなり強い。そういう点では表現の仕方は正反対だけれど草野原々と共通するものを感じる。「guilty」自体はとても倫理的なつくりだけれど。
柴田勝家「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」はSFマガジン掲載時に読んでいたので再読だったけれど、VR自体にあまり興味がないこともあって、民族学的なスタイルだけが印象に残る。
黒石迩守「くすんだ言語」も倫理的な物語で、早瀬耕「眠れぬ夜のスクリーニング」を思い出した。
伏見完「あるいは呼吸する墓標」はわかるようでよくわからない物語。取り上げた題材と物語づくりは典型的なホラータッチの短編なんだけれど、健康管理システムAReNAによって語り手とヒロインが浸食されたようなイメージが残るだけで、具体的には何が起きたのかよくわからないのだ。
最後の小川哲「ゲームの王国」は他の5編を合わせたよりもまだ長い上に、長編からの抜粋だというところで、ちょっとお得感に欠けるんだけれど、前のトリビュートにも長谷敏司の長編の抜粋があったので、それを踏襲しているということなんだろう。こちらは舞台こそカンボジアだけれど、作品の感触は長谷敏司の異色なキューバの麻薬シンジケート話と似た感触がある。
50年代のポル・ポトの教師時代から始まって、物語の焦点は革命の時代に進むなかで成長する一種のニュータイプな子供たちのエピソードにつながっていく。70年代初頭、紆余曲折の上に出会った子供らがニュータイプ的ゲームに興じているところで幕が下りてしまうので、革命前夜を描いて200ページを興味深く読ませてくれたのはいいとしても、SFの部分が少なすぎて、ちょっと困った。
ちょっと気になったので、亀和田武『60年代ポップ少年』を読んでみた。亀和田武は自分より5歳年上と云うことになるんだけれど、東京の田舎に住んでいた小学生には、この世界はテレビでしか見たことがない。
SFに関しては大森望が紹介していたように、牧村光夫(と柴野拓美)への紙碑ともいうべき文章が綴られている。それにしても亀和田武の文章はハードな感性とセンチメンタリズムを見事に両立させているなあ。
読むのにずいぶん時間がかかったのが、大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』。生い立ちの記から始まって、表題の蔵書自慢で終わるまで、非常に長い時間が流れた感じがする。
ここで取り上げられているジャンルの本には、ほとんど関心がないので、門外漢としてお説を拝聴するばかりだったけれど、微に入り細に入り自説を強く繰り出すところは、なんとなく成功した中小企業の親父さんの説教を聞いているような気分になる。そこが面白いし、それは著者の気概のなせる技なんだろう。
広島で大瀧さんを見かけたのは『ヒアデス』を買ったときかもしれないが、覚えていない。印象に残っているのは、大阪で青木さんの会社の事務所に伺ったときに見た、青木さんを訪ねてきた大瀧さんだ。もう何十年も前なので青木さんと大瀧さんが何を話していたかは忘れたけれど、話しぶりがいまでも思い浮かぶ。