内 輪   第314回

大野万紀


 スマホの調子が悪くなって、電源を切って再起動しないと画面が点いたり消えたりを繰り返すようになったので、機種変更しました。電話やメールやGoogleアプリは簡単に切り替えられたけど、その他のアプリはひとつひとつ再インストールして設定しないといけないので、結構大変でした。まあパソコンだと思えば仕方がないか。
 新しいスマホでは、ポケモンGOもできるようになりました。ちゃんとAR機能も働いて、現実世界にポケモンが現れます。これは確かにはまりますね。まあ、ぼちぼちやっていこうと思います。
 京フェスで、大森望に「話には聞いていたけど、ポケモンGOのできないスマホは初めて見た」なんて言われちゃったんですが、これでもう一安心です(何が?)。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』 川上和人 技術評論社
 2013年の本で、ずいぶん評判になったものだが、この前本屋で立ち見して、えるしまさくさんのイラストがめっちゃ可愛かったので購入。
 実際とても面白かった。語り口にユーモアがあって、すごく読みやすい。恐竜の子孫は鳥だということが定説となり、ならば鳥類学者は恐竜学者といってもいいはずだ、ということだ。現在の鳥類の生態から、恐竜たちの生活を想像するというのが大きなテーマ。恐竜ファンとしては、特に目新しい発見が書かれているわけではないが、よく整理されて、とても見通しがよくなっている。
 面白かったのは、本書を読むための基礎情報を共有するために書かれたという第1章で、著者は読み飛ばしてもかまわないというが、種の分類法(繁殖できるかどうかは決定的じゃない)についてや、最新の鳥類の系統樹など、古い知識をアップデートできてよかった。
 第2章は、鳥類の進化を語りつつ、恐竜との関係を記す。羽毛のことや二足歩行、尻尾、そして始祖鳥や翼竜について。ここも面白い。
 第3章が本書の中心、恐竜の様々な生態を鳥の生態と比較しつつ想像する章で、鳥類学者としての著者の面目躍如。話はとても面白い。でも書いてあることはわりと普通。普通ではあるが、断片的な知識の整理が出来ていい。
 最後の第4章は恐竜のような生物が生態系にどう影響をおよぼすのかという考察と、絶滅について。恐竜が集団で通った道は獣道(けものみち)ならぬ恐竜道となっただろうというのが興味深い。それは人間が作るような本格的な道路だったかも知れない。地球は『ハイウェイ惑星』だったのかも。
 面白くて、さらに想像をたくましくできる。そして鳥についての知識も得られるという本だった。評判になったのも頷ける。

『ハリー・オーガスト、15回目の人生』 クレア・ノース 角川文庫
 これは傑作。ただ、ちょっと長すぎる気もするが。
 2014年に発表されてジョン・W・キャンベル記念賞を受賞、一般読者にも評判でベストセラーになったという時間ループものSFだ。主人公のハリー・オーガストは1919年に生まれ、大体70歳くらいまで生きて、死ぬ。死ぬとまた、誕生した時点に戻って同じ人間として生まれる。ただし、それまでの人生の記憶を全て保持したまま。
 本書の時点で、彼はそれを15回も繰り返しているわけだ。主観年齢としては千年を超えることになる。もう一つ重要なのは、そんな人間は彼一人ではなく、何人もいて、クロノス・クラブという秘密組織を作っている、そしてそれぞれの記憶を共有し、過去や未来へと引き継いでいるということだ。
 彼のような人間はカーラチャクラとかウロボランと呼ばれている。未来の情報を過去へ送るには、未来の記憶を持ったまま死んで生き返ったときに、同時代に生きているできるだけ年配の仲間にそれを伝えることによる。その人が情報を受け取ってから死んだら、その人の生まれたときにその記憶を持ったまま戻るわけだから、リレー式にどんどん過去へと伝わるわけだ。このアイデアが面白い。単に個人の人生リプレイではなく、世代を超えた未来情報の共有ができるのだ。
 ただし、未来は確定しているわけではない。生まれ変わった彼らは、未来の記憶を持っているので、当然人生を変える。それが社会や科学技術にまで影響を及ぼすとき、歴史も変わってしまう。そうするとせっかく伝えた情報が誤りになってしまうので、また更新しなければいけなくなる。だから、クロノス・クラブの人たちはとても保守的で、できるだけ歴史を変えないように、いわばタイムパトロールのような役割も果たすのだ。
 本書の物語をドライブしているのは、この設定を突き詰めたきわめてロジカルなストーリーである。ハリーのところに未来から、世界の終わりが早まるというメッセージが伝わってくる。そして、ハリーの前に、クロノス・クラブと敵対し、科学技術の変化を加速させることで未来を変えようとする男、ハリーと同じく完璧な記憶を持ったまま何度も生き返る科学者ヴィンセント・ランキスが現れる。本書は、ハリーとヴィンセントの対決の物語であり、歴史改変の巨大な陰謀とそれを阻止しようとする、おおむね20世紀を舞台にした知的でユニークな戦いの物語である。
 本書の中では、何度かはっとするような、手塚治虫の「火の鳥」で描かれたような、レトロ・フューチャーなイメージが現れる。われわれにとっても失われた未来のイメージだ。人生やり直し的なループものではなく、はっきりSFといえるワンダーがある。
 ところで、ループものはリセットしてやり直しのできるゲームのイメージだというが、本当だろうか。確かに1ユーザのゲームなら、セーブポイントまで戻ってリプレイができる。しかし、複数のユーザが同時にプレイしているようなゲームにそんな静止ポイントはない。これは本書のような小説でも同じだろう。複数の人間がそれぞれのポイント間でループし、その後の状態を変えていく。そんな並行世界の時間線はどのように描くことができるのだろうか。考えると頭が痛くなる。たぶん、多世界解釈の何かの説明で読んだように、あくまで一人の時間線を追っていくしかないのだろう。他の人間が変えた部分は、自分とは関係ない決定した状態として解釈するしかないのだろう。うーん「ルミナス」かな。

『レッド・ライジング2 黄金の後継者 上下』 ピアース・ブラウン ハヤカワ文庫SF
 まだ三部作の第二部だが、これはすごい作品だ。とてつもない暴力、波瀾万丈な展開、パワーと崇高さの感覚、果てしない裏切りと陰謀と、復讐と虐殺、そして恐ろしくマッチョなキャラクターたち(男も女もだ)、情け容赦のないマッチョなストーリー。
 普通なら敬遠するところだが、これが面白いのだ。血湧き肉躍るというやつだが、決して勇ましいだけではなく、深い悲しみがつきまとっている。
 主人公は大艦隊を指揮するまでになるが、ミリタリーSFという感じじゃない。戦争の全体像よりも、個々の戦闘、激しいアクションシーンがこれでもかと繰り返される。
 ああ、でもここにきて、この主人公にまさかの人間らしさ、甘さが露呈し、とんでもなくクリフハンガーな展開となって第二部が終わる。これだけ安心して読めない作品も少ないのではないか。少し良くなりかけたり、うまくいって最高の瞬間まで来たところで、いきなりどん底へ落とされる。そしてまた這い上がる。そんなのを何度繰り返すことか。
 不屈というべきだろう。強烈な階級制に支配される太陽系。まるで中世のような、力と陰謀の世界。そんな中でどんな恐ろしい裏切りにあっても、厳しい決断をすることになっても、たまに人間らしい悩みを吐露することはあっても、それを振り切って進む。そこには確かに崇高さというべきものがある。

『セルフ・クラフト・ワールド 03』 芝村裕吏 ハヤカワ文庫JA
 三部作完結。いやはや、このシリーズも傑作である。
 壮大な話の割にはずいぶんコンパクトに収まったなと思ったが、この背後には作者の他の作品や実際のゲームの世界など、様々なものがからみあって、その全体像はものすごいのだろうなと思わせる。ただし、ぼく自身はそのほとんどを知らないので、作品内に出てくるキーワードから想像するだけなのだけれど。
 作者後書きにもよく出てくる編集者が、京フェスで、伏線のチェックがとても大変だったと吐露していたが、もしかすると三部作の中だけでなく、他の作品も含めた伏線もチェックしていたのかしらん。詳細はわからない。わからないけど、この作者と編集者なら信頼できると思っている。
 MMOゲームの世界が自立して、それとこちら側の現実世界が強く関わり合っている、そんな相互作用が重視される作品なので、作者後書きにもあるイーガン的なコンピューター・ワールドのテーマが目立つ。そこを深く語りたくなるが、壮大なネタバレとなってしまうので、その前に物語全体の雰囲気とキャラクターの話。
 仮想世界のパートは、いかにもラノベやなろう系にありがちな、MMOゲームの世界観で描かれていて、親しみやすく、キャラクターも暖かみがあって、軽やかだ。たとえ死んでも生き返るし、あるいは記憶を他に移すことができるのだから、深刻になりようがない。
 一方で現実パートは、何しろ核戦争で世界が滅ぶわけだから重い。悲惨で残酷な、過酷な物語とならざるを得ない。だが、仮想世界とリンクすることで、全体がコミカルな軽さを保ち、現実の悲惨さはそのままでも、受け取る印象はフィルタリングされる。これって、ヘロヘロと日常を生きつつニュースで見る悲惨な現実を受け流しているわれわれの感覚そのものではないだろうか。
 この重いテーマを淡々とした語り口でユーモラスに軽やかに語るというのは、作者の他の作品にも通じるように思う。冷酷さはなく、温かい。もちろん熊本弁の美少女NPCもいいが、本書の異世界パートの主人公といっていい、年老いた竜のミンドンが最高。民主主義教の高僧だが、何事も絶対視はせず、自分の限界をしっかりと意識し、知的好奇心を最優先しつつ、他人(人じゃない場合も)の言葉にもちゃんと耳を傾ける。そして自らの信じる自由・平等・友愛を奉ずる。すばらしい。こんな老人(人じゃないけど)にぼくもなりたいものだ。
 さて、ここからちょっとネタバレ。
 この異世界は現実界に人類滅亡の危機を救う新技術をもたらすため、スピードを加速して進化を進められたシミュレーテッド・ワールドである。イーガンの『順列都市』と同じだが、作者後書きによれば、94年の『順列都市』の時代から20年以上たち、知性の研究やコンピューター科学も進んで、想像されるリソースの必要量もずっと少なくてすむらしい。ちなみにこの世界を救うために時間差を作り出すというテーマは同じくイーガンの〈直交〉三部作とも共通している。
 この種の作品で一番気になるのは、現実界と仮想世界のインタフェースだ。世界間で相互にやりとりできるのは情報しかないはずである。本書ではそこはきちんと説明されていて、まず設計書を送って物理的な構造を作り上げ、そこに情報(意識も含む)を転写して転生するというわけだ。3Dプリンターみたいなものかも。
 もちろん異世界はこちらの世界のサーバで動くシミュレーテッド・ワールドなので、その物理学は現実界の物理シミュレーションに従うわけであり、現実界でも通用する全く新たな物理法則の発見などはあり得ないだろう。それでも十分な時間があり試行錯誤が可能で知識が蓄積されるのだから、既存の物理学の範囲でも新たな発明や発見、化学的・生物学的レベルでの進歩や進化はあり得るだろう。そんなことを考える楽しさがある。
 結末はずいぶんとあっさり飛ばしてくれるが、これはこれで十分だといえるだろう。最後の数ページ、歴史的補講のSF的壮大さが嬉しい。SFを読む楽しさって、こんなところにあるんだといえるのではないだろうか

『小説家の作り方』 野﨑まど メディアワークス文庫
 2011年に出た本だが、この前の京フェスで山本弘さんと、はこだて未来大学の松原先生が二人とも読んで面白かったといっていたので、読んでみた。
 あー、そういう予備知識なしに読んだ方が良かったかも知れない。ストレートな話で、すぐに謎のヒロインの正体は想像がついてしまう。それでも語り口がよくて、面白く読めた。
 24歳の新人小説家が、彼のファンだというちょっと世間離れした4つ年下の美人の学生に小説の書き方を教えるという話。ボーイ・ミーツ・ガール的な話にはならなくて、本当に小説論が中心だが、別にハウツーものというわけではない。小説の、とくにそこに現れるキャラクターとはどういうものか、それは作者の手を離れて自立したものになるのではないかということがメインとなっている。
 本書自体が小説だから、それは当然メタな構造をもつ。いや、ネタバレすると、AIが「この世で一番面白い小説」を書こうとする話なのだ。メインストーリーは一直線だが、その回りの登場人物たちが、癖があってみんな面白い。彼の担当の女性編集者、友人のマッドサイエンティストっぽい大学院生、スーパー・ハッカーで、変なテンションの天才女性。
 主人公が彼女を大学祭へ連れて行く場面がいい。ここでも物語に直接は関係しないが、ユニークで魅力的な女性が出てくる。
 後半の展開はSFとしてもちょっと強引だが、収まるべきところへ収まる。派手さはないが、気持ちのいい小説だった。
 ところでわりと最近、本書と同じような話をどこかで読んだか見たかした記憶があるのだが、一体何だったんだろう。思い出せない。

『夢見る葦笛』 上田早夕里 光文社
 これは傑作短篇集だ。『異形コレクション』や『SF宝石』その他の雑誌に掲載された9編と、未発表の1編を含む10編が収録されている。ホラーや幻想小説というのが相応しい話もあるが、それらも含め、全体の骨格は本格SFであり、テーマ的には本格宇宙SFから、タイムトラベル・並行世界テーマ、AIや人工知性と意識の問題、ARとVRなど、様々な現代SFの主要テーマが網羅されている。
 それらを通じて、最も強く印象的に描かれているのは、人間的な意識や知性をも越えた、すばらしく多様な生命というものの輝きである。AIや無人探査機のように、人工的に作られたものであっても、ある一線を越えたものには生命が宿り、ヒトとは違った形であっても、意志や、あえていうなら魂が生じる。もう少し科学的な言葉を使えば、自己組織化され自己言及する(そして他者へも影響を及ぼす)情報ということになるだろう。
 表題作「夢見る葦笛」では、人が人ならぬイソギンチャクのような異形の存在へと変化する。その歌声は人々を魅了するが、そこに相互のコミュニケーションはなく、一方的な浸潤があるのみだ。あるいは歌う癌細胞に対して、人は存在しない幻想を投射しているだけなのだろうか。その幻想を共有できない主人公は……。
 「眼神(まながみ)」もホラー色の強い作品で、地方の呪術的な儀式と、代々伝わるマナガミ様という存在についての物語。だが、マナガミ様は妖怪や神様というより、人とは違う、高次元から介入する意識をもった存在なのだ。
 「完全なる脳髄」はタイトルからしてフランケンシュタインものだが、気候変動により破滅へと向かう世界の中で、人工身体に、生体脳を補助する機械脳をハイブリッドしたシムと呼ばれる人間が、より完全な存在になろうとする物語である。気味の悪いイメージにあふれているが、どこか明るく、映画的な快感がある。
 「石繭(いしまゆ)」は幻想的で、短い作品だが、生命の鉱物化――躍動する生命の、記憶や意識の結晶化という美しいイメージが、「虚構と物語があれば何とか道を歩いて行ける」という言葉と相まって、退屈な日常の中に結実していく。
 「氷波(ひょうは)」は宇宙SF。土星の環に生じる氷の波で壮大なサーフィンをしようとする芸術家の話だが、ちょっとヴァーリイを思わせる雰囲気がある。物語の語り手は人工知能で、この試みを通じて人間的な身体感覚をシミュレートしようとする。微生物と共生して宇宙に生きる新たな人間というイメージも描かれている。
 「滑車の地」は泥の海と化した未来の地球で、衰退と滅亡に向かう人類が新たな地を目指し、泥海の生物たちと戦いながら生きようとする話。残された科学技術を維持し、生き残ろうとする人々(人ではないものも含む)の、破滅に抗おうとする戦いが、衰退の寂寥感を背景に、強く心を打つ。泥海の奇怪でおぞましい生物たちにも心が配られていて、ちょっとティプトリーの作品を連想させられた。
 「プテロス」は本書で最も印象に残った作品。傑作である。山本ゆり繪による本書の表紙絵とイラストが美しい。スーパーストリームという強烈な風の吹く異星の惑星で、プテロスという飛行生物と共にこの星の生物相を研究する科学者(と彼を補佐するAI)の物語だが、真の主人公は物言わぬ異星生物のプテロスそのものである。そしてこの系外惑星の自然そのものである。擬人的には描かれず、あくまでも異生物として、押さえた筆致でその生態が描かれる。そこに畏敬と愛情をにじませながら。ティプトリーに「愛はさだめ、さだめは死」という異星生物を描いた傑作SFがあるが、人間とは違う宇宙生物をそのままに描写するのはまさに本格SFそのものである。
 「楽園(パラディスス)」は死んだ人間の意識をコンピューターで再現するという物語。だがそれだけではない。主人公は、メモリアル・アバターというアプリに事故で死んだ友人(機械と人間のインタフェースを研究していた女性)の記録を登録し、ヒヨコの姿をしたその仮想人格と会話する。それはあくまでも仮想のものにすぎない。記録のパターンが尽きると会話は単調な繰り返しとなっていく。だが彼女はより高度な情報を残していた。主人公はその情報と接続し、彼女が実現しようとしていたものを知る。そこで語られる、人間の意識やリアリティの拡張、本物ではないが偽物でもない、自分と他人の間に生まれる〈第二の意識〉というテーマはとても興味深い。
 「上海フランス租界祁斉路三二〇号」は実在の歴史上の人物も登場する(バラードへの言及もある)、歴史小説的な雰囲気もある作品である。戦前に上海にあった日中の科学者が共同研究する施設で、日本人化学者の主人公(実在の人物をもととしている)は、中国人の同僚である研究者の不思議な行動を目にする。これは歴史を改変しようとする物語であり、あり得たかも知れない並行世界を描こうとする物語である。悲劇的な運命を少しでも回避しようとする強い意志の物語だ。
 「アステロイド・ツリーの彼方へ」は無人機による宇宙探査と、人工知能を組み合わせた作品で、この人工知能がとてもユニークな存在だ。宇宙探査用の人工知能を猫型ロボットに接続して1か月いっしょに過ごす。ストーリー自体はとりわけ目新しいということはないが、後半に出てくるアイデアのひとつ、分散身体というべきものにははっとするようなセンス・オブ・ワンダーがある。
 最初に書いたように、いずれの作品も、人であるもの、人でないもの、人工のもの、自然のもの、知性あるもの、そうでないもの、動的なもの、静的なもの、それら多様な生命の生きる力が物語の中心にあるといえる。いつまでも余韻の残る作品集である。

『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』 ピーター・トライアス 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 文庫と同時発売の話題作。
 ディックの『高い城の男』オマージュで、第二次大戦で日独が勝利し、アメリカ西海岸が日本の統治下に入った、その40年後の「日本合衆国」。厳しい占領政策と特高警察や憲兵による強権的で残酷な暴力により抑圧されているが(それでもナチスよりはマシなのか)、街はそれなりに繁栄し、科学技術も発達している。人々は電卓というスマホのような機械でネットに接続し、娯楽を楽しみ、散発するテロには、巨大ロボット兵器が襲いかかる。そこに、アメリカが勝利した世界を舞台にしたコンピューター・ゲームが密かに流行して……。
 という話には違いないが、解説で大森望が書いているように、そういう抑圧された社会への反抗とオタク趣味を合わせた娯楽大作を期待すると、あれっと思うことになる。確かに巨大ロボットは出てくるし、拷問や虐殺や残酷な処刑とそれに対抗する人々、ダメ男のようでいてやるときはやる主人公、めちゃくちゃぶっ飛んだ特高警察のヒロイン、関西弁をしゃべり巨大メカを自在にあやつる少女、といった要素はてんこ盛りだが、その高揚は持続しない。
 持続しているのは、人がありのままの人ではいられなくなり、自分自身をも裏切り続けなければならない、そんな状況に生きることの苦しみ、哀しみである。最終章で描かれる主人公の哀しみ。しかしそれを押さえても少しでも前向きに生き続けなければならないことの苦しみ。それは重いけれど、心を打つ。
 しかし、傑作ではあるが、このオタク系娯楽大作の部分をもっともっと先鋭化させた作品も読んでみたいな。だってちょっと中途半端なんだもん。水鏡子になら、それならなろう系を読め、とか言われるかも知れないが。
 ところで『USJ』と略す人が多いけれど、USJといったらユニバーサル・スタジオ・ジャパンじゃないですか。それでいいのか。


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