続・サンタロガ・バリア  (第171回)
津田文夫


 台風続きで雨降りの日も多く、ようやく窓を閉めてステレオが聴ける様になってきたけれど、湿気が多くてスピーカーのコーンの動きが重いから、あんまり御機嫌じゃないんだな、これが。
 夏の間になんだかんだと10枚くらいCDを注文していた。届いたのは8月末から9月半ばだったけれど。
 本命はキング・クリムゾン『ラディカル・アクション~ライヴ・イン・ジャパン+モア』とケンペの1961年バイロイト・ライヴをオリジナル録音テープから復刻した正規版『ニーベルングの指輪』だけど、ケンペの方はCD13枚組なので、来月回し。ほかにアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の『チャイコフスキー:3大バレエ全曲集』CD7枚ボックスとエマーソン・レイク&パーマー1978年ニューヨーク・ライヴ2枚組“LIVE AT NASSAU COLISEUM '78"あたりが面白かった。

 まずELPのブートレッグは数年前に出ていたもので、なぜか買いそびれていた。調べてみると70年代ELPのライヴとしては最後から3番目の公演だった。まさに解散直前の演奏と云っていいシロモノだ。
 実際聴いてみると、エマーソンのアレンジがかなりラフになってきていて、73/4年の『レディーズ&ジェントルメン』ライヴや77年の『ワークス』ライヴの初期と比べると、聴き応えという点ではちょっとどうかと思うエマーソンの演奏が気になるところ。レイクのヴォーカルはよく響いているので、それはうれしい。カールのドラムは音が軽くスピード感はあるが、ELPらしさという点では物足りない。それでも演奏テンポが以前よりもだいぶ早くなっていることを考えると、ドラミングに余裕が感じられるところはやはりたいしたものである。
 「イントロダクトリイ・ファンファーレ」に続いて始まったのは「ピーター・ガンのテーマ」ではなくて、いつもの「ホウ・ダウン」だったけれど、エマーソンの演奏からは以前の観客をあおるようなシンセサイザー・ギミックが姿を消しており、実験的というか投げやりというかいまいち焦点の定まらないフレーズに終始する。「タルカス」も冒頭のあのシンセサイザーの雄叫びが軽い音で奏され、肩すかしを食らう。続くレイクのヴォーカルは朗々と響くが、エマーソンのアドリブ・パートは抽象的に聞こえる。レイクの持ち歌「戦場」が省略されて曲は「アクアタルカス」へ入り、エマーソンの長大なソロがはじまる。78年初頭ということで、「スター・ウォーズのテーマ」や「未知との遭遇」の信号音などが引用されている。しかし、『レディーズ&ジェントルメン』で奏でられた美しいシンセ・ソロがまるでパロディのように歪められて演奏されており、エマーソン自身がELPの音楽に飽きてきているようにも思えた。

 アンドレ・プレヴィンチャイコフスキー3大バレエ全曲版は、当方が浪人時代から大学時代の70年代に、ひとつひとつ発売されたもの。ちょっと買いたいなとは思ったけれど、値段と優先度を考えて買うのはあきらめたレコードだった。当時はEMIレーベルだったが、最近ワーナーがEMIを買収してしまったので、このCDボックスはWARNER CLASSICSから“TCHAIKOVSKY SWAN LAKE THE SLEEPING BEAUTY THE NUTCRACKER ANDRE PREVIN London Symphony Orchestra"というタイトルで出た。値段は3000円足らず。
 改めて聴いてみると、やはりプレヴィン/ロンドン響の演奏はすばらしく、リマスター効果もあってメリハリがよく効いている。わかりやすさで『くるみ割り人形』、音楽的な充実度という点ではやはり『白鳥の湖』というところだろう。CD3枚を要する『眠れる森の美女』はやや冗長な感じがする。有名な第1幕のワルツは確かに名曲だけれど。
 バレエ音楽とはいえ、ここではストラヴィンスキーの3大バレエ同様、視覚表現を伴わなくても管弦楽として申し分ない演奏が聴ける。それにしても、近年のデジタル・リマスターがちょっと行き過ぎなくらい音響を操作しているように感じられるのは思い過ごしなのか。

 クリムゾン『ラディカル・アクション~ライヴ・イン・ジャパン+モア』はCD3枚組にブルーレイ映像が付いた国内盤を買った。原題はRADICAL ACTION に(TO UNSEAT THE HOLD OF MONKEY MIND)が付されている。このタイトルの意味はよくわからない。UNSEATが「馬の背から落ちる(落とす)」という感じなら「MONKY MIND の握りを外させる過激な行動」なのか、じゃあ「MONKY MIND」は何なのかというとヨガあたりで引っかかるのが「猿の心」=目の前のことに囚われ/足るを知らない、というような意味になるらしい。あいかわらずフリップらしいヒネたタイトルだ。
 これで、ライヴ・アット・オルフェウム(ロサンジェルス)、ライヴ・イン・トロント、ライヴ・イン・ジャパン(高松+)と2014/2015ツアーのライヴが3種類になったわけだけれど、今回のライブは客席からの雑音を排しているので、一種スタジオ・ライヴ的なクリアな音源になっているいる上、音圧もかなりコントロールされている。この3枚を聞き比べてみると、最初の2014年LAライヴの音の悪さというか録音レベルの低さ及びディテールの聞き取りにくさが際立つ。それに比べるとトロントと高松は時期的にほぼ同時期で演奏の善し悪しは甲乙付けがたいが、今回はツアーで披露した曲目全部を収録しているため、ワン・ステージの記録であるトロントとは、録音の性格が大きく異っている。おそらく高松で実際にライヴを見た人でも、この演奏が、記憶に残っているものと同じと云われて戸惑うだろう。ある意味レファレンス用のアーカイヴ・ドキュメントと考えてもいいかもしれない。
 これに対して映像の方は、ライヴを経験したものにはうれしいプレゼントであり、できれば大画面大音量で再生したいところだが、一般家庭ではそれは望むべくもなく、家族が出払っているときに近所迷惑にならない程度の音量(しかもテレビ内蔵スピーカー)で視聴するしかないのは残念だ。
 この作品を聴いた人の感想をググっていたら、お父さんのCD/レコード・コレクションからあれこれ取り出して聴いてはその感想を書いている女の子がいて、出たばかりのこの作品も3枚のCDに収められた全曲について1曲ごとにコメントするという、年寄りにはとても出来ないことを軽やかにこなしている。なので、関心のある方は読んでみることをオススメ→「かなこれ」

 前月は読みたくなるような翻訳プロパーSFがハーラン・エリスンしかなかったけれど、今回もグレッグ・イーガン『エターナル・フレイム』〈直交〉三部作の2巻目のみ。
 この世界になれたせいか、数学的な図表および文章説明のわからなさは相変わらずだけれど、それを除けば、まあ普通の世代宇宙船SFとして読めないこともない。
 第1部の時代から時間がたっていて、すでに世代交代した宇宙船〈孤絶〉内の問題解決が主眼といえば主眼。雌性は出産時に死亡すると同時に四体の子を残すため、まず出産による人口増と食糧問題があり、またエネルギー源となる鉱物も不足しているという状況がある一方、〈物体〉と呼ばれる小惑星みたいなものが近づいてきている・・・。この設定なら、オーソドックスなSFでは登場人物(人じゃないけど)たちの努力は、当然その解決の方向に向けられるので、イーガンも伝統的なストーリーを紡いで見せている。
 伝統的でないのは、この生物たちの出産形態であるが、それに伴う社会形態/政治形態はそれほどエキセントリックなものではなく、加えて登場するキャラたちが少し古めかしい保守的な精神の持ち主として設定されていて、それが読みやすさを保証している。もちろん光速無制限という〈直交〉宇宙の大枠によって、イーガンはここに登場する物理学者たちの思考パターンをわれわれの宇宙とは違う形で成り立たっているように描いているのだろうが、数学音痴の読者には隔靴掻痒の感に悩まされる。
 ということで、活劇部分だけを取り上げれば、なんともオーソドックスすぎる世代宇宙船の物語だけれど、そこにかぶせられたウルトラハードなSF的考察はおそらく大半の読者の理解の外だろう。〈直交〉宇宙の論理の不思議さは、補遺で説明された論理式を眺めれば、なんとなく感じられるだけに、それを物語の中で実感することがむずかしいところに不満が生じる。

 第1回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞者六冬和生『松本城、起つ』は、あまりにもSFオタクな内容でSF読みをも驚かせた大賞受賞作と第2作の作者の長編第3作。今回は得意のSF的アイデアを、作者の郷里という長野県松本市に伝わる近世百姓一揆(この一揆自体は歴史的事実)にまつわる伝説と組み合わせることによって、一般性の高い作品を生み出している。
 家庭教師の大学生とその教え子の女子高生が松本城見物している時、大地震が発生、倒壊する松本城、と思いきや2人は地元の一揆伝説で有名な貞享騒動の時代へ。大学生は一揆を助けようとした伝説の武士に、女子高生は当時信仰されていた姫神様になっている。
 なんというベタなオープニングでしょう。それはともかく、作者のちょっとしたSF的工夫が悲惨な一揆劇をライトノベル的に読めるものにしている。視点人物である大学生はもちろん、女子高生も難なく300年以上前の百姓や侍、果ては殿様とも現代の思考でしゃべりながらコミュニケーションが成立してしまう。
 現代の地元方言をしゃべる300年あまり前の百姓もまあ、あり得ない存在だけれど、そこら辺が少しも気にならないところもこの作者の工夫が効いている証拠だ。話の半ばくらいからタイム・ループものであることが明らかになり、その操作を司るモノが現れて時間SFとしての枠組みは示される。それがこの物語の外枠として読み手に意識されるものの、小説としてのダイナミズムは一揆とそれに関わる主人公の思いと行動にあり、その組み合わせの妙がこの作品を良質なエンターテインメントにしているのだ。
 六冬和生がエンターテインメント作家として「起った」1作といっていいんじゃないでしょうか。

 ついに出た宮内悠介『スペース金融道』は、たとえ書き下ろしが1編しかなくても、とても楽しく読める連作短編集。個人的には一番好きな宮内作品だ。
 大森望編のオリジナル日本SF短編集『NOVA』と『NOVA+バベル』は全部読んでいるので、その掲載作4編はどれも再読だが、細かいストーリーなどすべて忘れてしまっているので、毎回楽しく読み終えることが出来る。
 超弦理論の大栗先生もそのベストセラー新書で紹介していたように、超弦理論に関わって成果を出せるくらい優秀な物理学者/数学者が、自分が扱っている物理数学理論が金融理論にも有効であると知って、金回りのいい金融工学に鞍替えして投資会社に転職する場合がある。そしてこの作品も基本的な大枠をなす設定として、そのような金融工学が全銀河社会の経済をいちどは破滅に追い込んだという話を持ち込んでいる。
 いわゆる狂言回し役の主人公は、太陽系外の惑星にある人間以外にも金を貸すローン会社の、主に人間以外の債務者から返済金を取り立てるチームの助手役であるが、その助手にも債務者にも鬼軍曹より厳しい上司が、どうやらもとは超優秀な金融工学理論家で最終的に銀河系経済を破滅に追い込んだ金融理論にも関わっていたらしい。この部分が、本来お笑いを演出する為に繰り出される助手の弱音と対照をなすハードSFの感触を支えている。そして主な取り立て相手であるアンドロイドたちの借金をせざるを得なかった苦悩を通して、様々な思考実験と現在のわれわれの人間社会が抱える問題を照射してみせる。
 先日、朝日新聞の文芸時評欄で片山杜秀が、文芸誌に掲載された宮内悠介の短編を取り上げ、そこに示されたテーマが『スペース金融道』ではSFとして扱われていることを紹介していた。できればこれで3回目の直木賞候補になって欲しい。

 東山彰良『ブラックライダー』上・下は、昨年の秋に文庫化された時すぐ買って読み始めたのだけれど、70ページほど読んで全く乗れなかった(なんで日本人が書いた破滅後のアメリカに設定された西部劇を読まないといけないのか)ので、積ん読になっていた作品。ちょっと読みたいものがなくて再挑戦したら、あっさり読めてしまった。
 氷河期並みに寒冷化した北米大陸で食糧難から人肉を食べても犯罪とならない時代から、人間の遺伝子を混ぜた牛の開発でなんとか人間を食べなくてもやっていける時代となりつつあるが、その頃のアメリカ南部はほぼ西部劇時代を再現した社会を構成していた。
 まず主人公格の老年にさしかかった保安官バード・ケージが登場し、葬儀屋のまじめな親父とそのふざけた息子たちの前で、葬儀屋の別の息子が列車を襲って馬泥棒を働いた一味に加わっていることが判明したのでそのことを伝えに来た、と話しているところからこの長大な物語は始まる。
 この保安官の物語と交互に語られるのが、馬を盗んだ側のレイン兄弟一味のエピソード。何人かいる兄弟や兄弟同然の仲間(葬儀屋の少年を含む)たちとの関係や、母に対する強い思いなどが語られる家族劇っぽいギャング一味の物語は、単独行動の保安官のエピソードと好対照をなしながら進められていく。そしてギャング一味がメキシコを目指し、保安課もそれを追いかけて南へ移動していく。彼らは人やその他の動物を殺すときは躊躇なく殺す。
 第2部はメキシコに舞台を移した、人と二足歩行牛の間に生まれた少年の物語。「ユダの牛」と呼ばれるこの種の合いの子は、外見は天使のように美しいが通常知能が低く、処分されることも多い。しかし少年は高い知能を示したため、荘園主に見込まれて英才教育を受ける。そして彼が大きくなる頃、異常な寄生虫が発生し、感染者にむごたらしい死をもたらす。人間ではない少年に感染はなく、少年は感染者を殺すことで感染者に慈悲を施せると考え、行動を開始する。
 第3部は寄生虫退治をきっかけにメキシコ民衆の救世主に持ち上げられた少年が率いる集団がアメリカを目指したことにより、アメリカ政府が少年率いる集団を抹殺しようとして攻撃隊を派遣する。保安官もギャング一味の生き残りも、この戦闘に深く巻き込まれて大活劇になるが、それも最後には伝聞される神話的な一エピソードとして回想され、物語の幕を閉じる。
 まあ、たいしたものといえばたいしたもので、よくこんなモノを書いたなあと感心する。東山彰良は参考資料とかを掲出していないけれど、もしこれを宮内悠介が書いていたら、巻末に10ページくらいの参考資料リストが並ぶんじゃないかと思われるくらい、もっともらしいディテールが満載である。
 巻末解説では大森望が珍しく熱血解説を書いていて、思わず笑ってしまうけれど、この作品読み始めて挫折する読者(ベテラン作家を含む)が実際多かったことにも言及していて、さもありなんという気がする。ただし、この作品がマルケスの最上作の物語密度に匹敵できてるかということになると、それはひいきの引き倒しだよね。

 その大森望が高得点を与えていたオキシタケヒコ『筐底のエルピス』第1巻~第4巻をまとめ読みしてみた。
 ガガガ文庫で出たライトノベルということで、イラストをよく見れば、なんとToi8だった。いまや過去の人になりつつある清水マリ子がMF文庫に書いたライトノベルのイラストを担当していたのがこの人。清水マリ子にはよく似合っていたなあ。
 と、肝心の『筐底のエルピス』の方だけれど、読後の第一印象は、すごいけれど根本的に物語として間違っているように見える、というものだった。
 これを読みながら思い出したのは、ソローキン『氷』三部作。いわゆる人類ダメ小説を書こうとして思いついたのが、23000の宇宙原初の光が地球人(肉機械)に閉じ込められたので、人間を絶滅させてでも本来の姿に戻ろうとする設定だったのだけれど、人間レベルの話として展開したため、最終巻で方向転換を余儀なくされてしまった。
 オキシタケヒコは初志貫徹というか思いついた物語の結末目指して、皆殺し的超能力合戦物語に力を入れつつ、時間SF的ギミックと大枠としての人類ダメ小説を成就させてしまっている。読める話だし注ぎ込まれた作者のエネルギーも尋常でないことはわかるが、達成されたモノがなんなのかよくわからない。超能力合戦部分は浅井ラボが書いていたら、もっと楽しめたかもと、不謹慎なことを考えてしまった。

 今回は積み残しがだいぶあるけれど、長くなったので、覚えていれば、また次回に。


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