続・サンタロガ・バリア (第170回) |
台風の発生地と進路がおかしなことになっているので、東日本と北海道が例年にない被害を被っている。世界にスーパーコンピュータがあれだけあっても、全地球的な気象状態を的確に捉えられないのは、各国が協力できていないと云うことなのか。
8月末に一時的に寒気が下りてきて、2,3日涼しくなったけれど、すぐにまた30度越えの日々。せっかく気になるCDをいくつも買ったのに、まだちゃんと聴けない。そんななか、久しぶりにCDも売っている古書店の棚をのぞいてみたらシルヴィー・バルタンの"Toutes les femmes ont un secret"のフランス原盤が入っていたので、500円だったし、早速ゲット。『女性は誰でも秘密を持っている』というタイトルで日本版も出ていたんだろうが、目にしていない。ケース裏面の細かい字ををよく見ると1996年作だった。ケースの古び方から、おそらくオリジナル版発売当時に購入されたものと思われる。1944年生まれのバルタン50代初めの作品。
手持ちのCDには今回買ったCDの前作"VARTAN SESSIONS ACOUSTQUE"1994年発売があって、こちらはバルタン50歳記念で作られた、過去のヒット曲をアンプラグドで歌ったもの。結構よい出来だった。今回買ったのは新曲を12曲収録。小さな音で聴いたけれど、1曲目からロック調と思ったら、前半は割とアコースティックなバックでバラードが多かった。表題曲がよく出来ているとはいえ、ほかはそれほどキャッチーではない。後半、いわゆるB面はバックバンドが、ギター・ベース・ドラム・キーボードというオーソドックスなロックバンドでミディアム・テンポのアメリカン・ロックが聴ける。これがなかなか悪くない。50代のバルタンはさすがに声にみずみずしさがなくなってきているけれど、ときおり聴かせるハスキーヴォイスの艶はあいかわらず無類である。
自転車で転んで脇腹にハンドルが入り、痛みが取れない。こりゃ肋骨が折れたかなと、翌朝外科に行くと相変わらず高齢者でいっぱい。緊急でもないので、2時間ぐらい待たされる。そんなこともあろうかと、先に2時間で読めそうな薄い文庫を物色、広島県出身芥川賞作家小山田浩子『穴』を持っていき読んでみた。
表題作は120ページほどの長中編。夫が夫の実家に近い営業所に転勤となったので、語り手である妻はパートタイム仕事をやめて、旦那の実家の隣にある実家が持っている貸家に引っ越し、初めて専業主婦となった。
なれない姑とのつきあいをしながら暮らしはじめたある日、主人公は河原で黒い動物を見かけてその後をついて行ったところ、人ひとりが入るほどの大きな穴に落ちる。別にアリスじゃないのでどこにも行かないが、近所のモダンなおばさんに助け上げられる。この穴に落ちた頃から主人公の周囲にやや奇怪な雰囲気が漂いはじめ、それは主人公には隠されていた、近所に住む夫の兄の出現により具体化する。この義兄はいわゆるドロップ・アウトの「長期ひきこもり」タイプであるが、近所のガキどもには「センセイ」と呼ばれて親しまれていた・・・。
基本はオーソドックスな家族の秘密モノなのだけれど、主人公の主観と現実が呼応して広島の田舎という土地のマジック・リアリズムがちょこっと顔をのぞかせる。これがこの作品を凡百の文藝同人誌作品と分けるパワーを感じさせるのだ。併録の、子供のいない夫婦が子供の生まれた夫の旧友宅を訪れる、夫の一人称で書かれた2つの連作短編は、よく出来てはいるが、まだ凡百の文藝同人誌作品のなかに埋もれてしまいそうな弱さを持っているので、この芥川賞受賞作は小山田浩子の作家たる由緒を獲得した証といえる。評判からするとたぶん前作「工場」でその境地に至ったようだが。
結局、病院の待合で最後まで読んでしまったぞ。
猛暑日のなか、汗だくで自転車をこいで、書庫代わりのボロアパートへ行き、とりだしてきたのが、旧ハヤカワ・SF・シリーズのサーバン『角笛の音の響くとき』。なんとキングズリー・エイミスの序文が10ページもあるのに、本体は130ページ足らずの長中編だった。
本体の話は、話者が十年ぶりに会う旧友の大戦中ドイツで捕虜として経験した異常な体験の打ち明け話を聞くという形で始まる。この体裁は、前に読んだ『人形つくり』併録の『リングストーン』に出てくる「少女の手記」を読むのと同工異曲である。
打ち明け話は、ドイツ軍捕虜となったイギリス軍将校である友人が、お定まりの脱走を企て成功するかに見えたところで、夜中にある森をさまよっているうちに、通電バリケードに触れて気絶する。目が覚めると病院のようなところにいて、そこでは丁寧な治療が行われ、主治医は教養ある人間として主人公を扱ってくれるが、訊けばいまはいまはドイツ千年帝国の102年目であると云われる・・・。これが物語の3分の1を過ぎたくらい。
別世界に移動する手続きはまあ常套だけれど、話がドイツ千年帝国となるとさすがに期待してしまう。が、『リングストーン』でわかるように、サーバンにとってはドイツ千年帝国は状況を作り出すためのアイデアとして採用されてだけなので、その歴史はほとんど語られない。しかし、人間狩りをするような領主のいる世界で、いまの世界が間違っているというレジスタンスは存在する。でもサーバンの世界ではレジスタンスの存在も物語の効果の有効性としてしか扱われていない。
『人形つかい』の解説を読んだいまになってわかるのだけれど、ここにあるのは外交官を本業とした男の、小説の形をとった白昼夢だ。それは外交官としては当然評価されないたぐいのモノだったといえるが、あからさまなマゾヒズム/サディズムへの志向が控えめな文体によって変わった味わいをもたらす小説は、これからもサーバンという風変わりな筆名と共に少数の読者を獲得していくだろう。
ちなみに、訳者あとがきで永井淳は、まったく正体のわからないサーバンという作者は、序文を書いたキングズリー・エイミスの筆名なんじゃないかと推測していた。
ようやく出た〈氷〉三部作最終巻、ウラジーミル・ソローキン『23000』は、5年を費やして、結局失敗作として書き継がれてしまった作品のなんともいいがたい一作。
相変わらず切れ味鋭いソローキン独特の文体と暴力描写を除けば、ここにあるのはいわゆる三文SFである。設定は全く納得しがたいがパワーだけは見せつけた、前2巻の「肉機械」世界への滅亡宣言があっさり撤回され、ここでは「肉機械」たる青年男女の活躍が、宇宙原初の「23000」の光が回復される物語よりも、通俗サスペンスものとしてメイン・ストーリー化してしまっている。たとえ〈氷〉のハンマーに応えられなかった「肉機械」でも、ハンマーの試練を生き延びた連中には「23000」の光たちを補助できる力がある、などという設定変更には東条英機もビックリだ。
ソローキンといいウエルベックといい、SF体質を持っている文学作家が、いざ正面からSFを書くと情けないほど陳腐なものを書いてしまうのはなぜなんだろう。単に作家自身が持っているSFのイメージが陳腐だと云うことなのか。SFみたいなジャンル小説は、ジャンル小説そのものとして書こうとすると、アップ・トゥ・デイトが必要なのかもしれないな。もっとも、この三部作の次があの長編『親衛隊の日』なんだから、ソローキンは美事に回復してるよねえ。
円谷/早川コラボのウルトラ・シリーズはなかなか手が出ないのだけど、これは読む気のなった小林泰三『ウルトラマンF』。以前読んだ巨大なもの同士のバトルが面白かったので、ウルトラマンと怪獣ならこれも面白いだろうという感じがあった。
実際読んでみると確かに面白く、あっという間に読めて長編を読んだ気がしない。小林泰三はとても律儀にウルトラマン・ワールドの約束事を守りながら、小林泰三らしいロジック(この場合はヘリクツか)を使い倒して、巨大化フジ隊員と井手隊員の苦難の道行きを展開している。それ自体はとても面白いのだが、本来小林泰三ロジックが持っているはずの邪悪さがあまり感じられず、そこらへんはやはりウルトラマン・ワールドの設定の裏世界に踏み込まなかったためかと思われる。
日本オリジナル編集の短編集となったハーラン・エリスン『死の鳥』。いやあ、すばらしい。初読は3編しかないけれど、何十年かぶりに読んだ表題作や「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」をはじめ、全10編すべてがハーラン・エリスンの最高の叫びを発している。
「『悔い改めよ、ハーレクイン』とチクタクマンはいった」のチャップリン『モダンタイムス』をひねったかのようなSF的設定やプロットは古めかしいが、怒りと反抗と敗北が一緒くたになって作品として差し出されるとき、エリスンの怒りは稲妻のようにに読むものを撃つ。その一方でエリスンの悲しみは、怒りの稲妻が強烈なだけに、強いリアリティを感じさせる。エリスンの代表的中編「少年と犬」を思わせる表題作の愛犬の死のエピソードや「ジェフティは五つ」の話者の感慨にそれは明らかだ。
今回読んで笑ったのは、「・・・ランゲルハンス島沖を漂流中」の一コマに映画「ミクロの決死圏」を思い出したことと、解説で「ジェフティは五つ」が掲載されたF&SF誌のハーラン・エリスン特集号がコレクターズ・アイテムになっているという話を読んだとき。40年近く前はまだF&SF誌を定期購読していて、1977年のハーラン・エリスン特集号が送られてきたときはすぐに「ジェフティは五つ」を読んだことを思い出した。そのF&SF誌もいまや、ボロアパートの一室で荷ほどきもされずに、段ボール箱の中で紙魚のエサになっている。
世界幻想文学大賞受賞作と云うことで創元海外SF叢書から出たグレアム・ジョイス『人生の真実』は、新潮クレスト・ブックスの1冊として出ていてもおかしくないイギリス風マジック・リアリズムが効いた現代小説。話自体は第2次世界大戦前後から1950年代までの、女系家族に育てられる男の子の物語なんだけれど。
話は連合国が第三帝国に勝利して間もない頃、4(双子がいるので本当は5)姉妹の末っ子キャシーが、またもや父親の知れない子供を産んでしまったため、姉たちが手配して以前と同じように養子として赤ん坊を引き取ってくれる女性を手配したので、キャシーは生まれたばかり男の子を抱いて、空襲で廃墟と化したコヴェントガーデンの街(!)でその女性を待っているところから始まる。ところがキャシーは、引き取り手の女性を目にしたとたんこの男の子は自分が育てなきゃいけないとと天啓のように思い直し、赤ん坊を家に連れ帰ってしまう。キャシーを責める姉たちに、一家の大黒柱で身体はぼろぼろだが、誰もいないのに玄関のドアがノックされる音を聞いてこれから起こることを予感する年老いた5人姉妹の母親マーサは、今度の赤ん坊の男の子はキャシーだけに受け継がれた不思議な能力が男の子にも伝わっている可能性を予見する。ということで、つかみは充分。
物語はフランクと名付けられた男の子を各姉たちが順繰りに引き取って(キャシーと一緒の場合もある)育てるエピソードを中心にして進んでいく。そのため各エピソードはキャシーをはじめとする各姉妹と母親に振られており、そのどのエピソードも面白く、世界幻想文学賞だけではもったいないと思えるくらいの作品となっている。
この作品は原題が"The Facts of Life"で2002年の出版。翌年キング・クリムゾンが最後のスタジオ録音盤『ザ・バワー・トゥ・ビリーヴ』を出していて、そこに‘Facts of Life'という曲が入っている。クリムゾンの方は『人生の真実』じゃなくて「性知識」という意味みたいだ。
SFマガジンに長期連載されていた川端裕人『青い海の宇宙港』春夏編・秋冬編は、どこまでもストレートな小学6年生の少年少女たち4人が、ロケット発射場の島である種子島(作中では多根島)で出会い、1年間の〈宇宙遊学〉/国内体験留学を終えるまでに、太陽系外に向かう超小型宇宙機を打ち上げようとする話。
この作者のよい読者ではないので、ハヤカワ文庫JAから出た『川の名前』の読後感くらいしか記憶にないのだけれど、『青い海の宇宙港』の主人公の東京から来た少年天羽駆(アモウカケル)君も『川の名前』の主人公の性格を受け継いでいるようだ。その内省のすこやかさは、あるべき理想の少年の心持ちだろう。
『川の名前』の少年にも友人はいたが、こちらの作品では、カケル君の視野に、北海道から来た深宇宙ロケットマニア周太、筑波から来たフランス系ハーフ女子萌奈美そして地元多根島の元気女子希美の3人が大きな存在として現れ、駆君は彼らと共に成長していく。
少年少女小説としての美しさが堪能できる作品であることは間違いないが、わが小学6年生時代を振り返ると、さすがにここまで率直な気持ちは持ってなかったような気がするなあ。その意味ではあらゆる設定がパラダイスの実現に奉仕する形で機能する物語は、やや気恥ずかしい。
ようやく読む機会が巡ってきた谷甲州『航空宇宙軍史・完全版一 カリスト-開戦前夜-/タナトス戦闘団』(何という長いタイトルだ)。
谷甲州の第一長編『惑星CB8越冬隊』はハヤカワ文庫化された時に読んでいるのだけれど、あの頃は(いまでもか)ミリタリーものに関心がなく、以来あまり読んでいない。SFマガジンで『エリコ』の連載は読んでいたような気がするが、こちらはエロ&サスペンスものだったから読んだのかも知れない。どちらにしても航空宇宙軍史はときおり短編を読んだくらいで、『コロンビア・ゼロ』を読むまでは全体としてどういう感触の物語なのか知らなかった。
今回、航空宇宙軍史の初期長編二作を読んで、『カリスト-開戦前夜-』に出てくる幕僚会議が太平洋戦争開戦前の陸軍高級幹部連中(いわゆる統制派)内の議論にそっくりなのがわかった。話自体はクーデターへ至るサスペンスもさることながら、ダンテ大尉(のち少佐から中佐)の活躍と部下たちのやりとりのおもしろさが、エンターテインメントを支える。その一方で外惑星/衛星でのリアルな訓練や太陽系の宇宙空間の広がりを感じさせる記述がそこここに配され、ハードSFの面目を保っている。
『タナトス戦闘団』はダンテ中佐が月で似合わないスパイの真似ごとする場面ではじまり、最後に命からがら月から助け出されたダンテ中佐がタナトス軍団を率いて月面降下の殴り込みをかけるまでが描かれているが、こちらは前作のような広い視野が設定されず、登場する個々のキャラクター(ダンテがダントツなのは当然だが)のエピソードで物語が紡ぎ出されている。ダンテとその部下たちのユーモラスなやりとりが板についてきた。
どちらも四半世紀以上前の作品で書き込みがややシンプルだけれど、谷甲州にしか書けない世界があることがわかる。
ノンフィクションは1冊だけ。クリストフ・マルケ『大津絵 民衆的風刺の世界』角川ソフィア文庫。
別に大津絵に強い関心があるわけでもないのに、なぜこんなものを読んだかというと、もうずいぶん前に外人で大津絵の研究をしている人がいるんだなあというおぼろげな記憶があったから。その情報自体をどこで仕入れたかはさっぱり覚えていないのだけれど、この本の巻末にある膨大な参考文献にはそれらしきものがないので、ニセ記憶かもしれない。 大津絵の定義はこの本の冒頭3行で説明されている。いわく「大津絵は、江戸初期から明治にかけて、職人によって描かれた無銘の庶民絵画である。東海道最大の宿場であった大津の西端に位置する追分、大谷で、土産物として旅人に売られていた。」
この本では、大津絵の発生から興隆・衰退まで、また大津絵の技法なども考察されているが、主眼は大津絵に描かれた題材(画題)の種類(100以上ある)の紹介と、大正時代に滅び行く大津絵を収集し、本業は篆刻家だが自ら大津絵を描き残した楠瀬日年の78点の大津絵作品を画題別に分けてフルカラーで収録しているところにある。
大津絵は土産として描かれるため、短時間で描き上げられるパターン化した画題を100種以上持ち大量に売られたが、後世浮世絵以上に軽視され、浮世絵のように西洋画家に評価されることもなかったため、その多くが失われているという。
日年の描いた大津絵をボンヤリ眺めていると楽しいよ。