内 輪 第311回
大野万紀
映画を2本見てきました(同時に見たわけじゃないですが)。「KINGSGLAIVE FF15」と「シン・ゴジラ」です。
「KINGSGLAIVE FF15」は秋に発売になるゲームFF15のアナザー・ストーリーで、登場人物からすべてがフルCGの映画。ファイナルファンタジーのフルCG映画といえば、昔見た悪印象がずっと残っていたのですが、これは良かった。ここまでできるなら、もう人間の俳優はいなくてもいいのではと思ってしまうくらいです。そもそも、生身であんな動きはできないもの。かっこよかったし、迫力あったし、スペクタクルでとても楽しめたのだけど、企業タイアップはやりすぎかと。
あの世界にAUDIが走りまわり、ユニクロがあるのはギャップが大きすぎる気がします。逆はいいんですよ。ファンタジー世界のものが現実世界に現れるのは。ポケモンGOなんてそうだし。でもファンタジーの世界にこちらの世界の現実がそのまま現れるのには、何らかSF的説明を求めてしまいます。こんな感覚はちょっと古いのかな。なろう系の世界では、その辺がすごくシームレスだと聞いているし。
あと、あの怪獣大戦争はみんな大迷惑だと思う。そしてカメラの動きが速すぎて、動体視力の衰えた目には全くついていけませんでした。迫力はあったけどね。
そして「シン・ゴジラ」。賛否はあるようだけど、多くの人がいっているように、ぼくも傑作だと思います。語りたいことはたくさんありますが、まだちょっと早いですね。でも少しネタバレですが、大きなネタバレじゃないので書いてしまうと、あのキモい第二形態に惹きつけられました。モスラの幼虫が大好きなもので。で、あれって歩くのた魚じゃありませんか。特にあの目。すごく死んでるし。
FFと違って、CGは使ってもこっちは生身の俳優だからこそできる演技が生きていました。そしてゆったりとした俯瞰描写が多くて年寄りの目にも優しいし。それからもちろんXXX爆弾! 頑張っているのに何だか不憫で、泣けてきました。
「ポケモンGO」が話題です。やってみたかったんだけど、ぼくのAndroidスマホでは、バージョンが低くてインストールできませんでした。だから一安心(何が?)。やっている人によると、「古代Ingress帝国の遺跡を探って、おお、こんなところに謎のスポットが」というのがたまらないそうです。わが家の近所にも、こんなものがあったのかという不思議な城や(普通の民家ですけど)、変なモニュメントが存在していて、そういう面でも面白そうです。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『蒲公英王朝記 巻ノ二 囚われの王狼』 ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
第一部完結編。
クニ・ガルとマタ・ジンドゥの二大英雄の対決は、包容力のある陽気な大人物であるクニと、激しい気性で自己にも相手にも厳しい、戦の天才マタとの最終決戦となり、項羽と劉邦の逸話の通り、四面楚歌、虞美人の悲劇、そして天下統一へといたる。
その他にも韓信の股くぐりや背水の陣といった逸話がそのまま出てくるのは訳者あとがきの通り。また、楚漢戦争だけでなく、三国志演義や水滸伝を思わせる部分もあるようだ。ギン・マゾウティ=韓信、ルアン・ジィア=張良といった主要人物にまつわるエピソードは、およそ中国の故事に沿って描かれているが、根本的に異なるところもある。たとえばギン=韓信は、本書では女性であり、史実と同様な悲劇を予感させる書き方はされているが、続編を読まないとそのあたりどうなるかはわからない。
戦争の描写はあまり小説的に詳細ではなく、ごくあっさりと、まるで歴史書を読むかのように描かれている。そのせいか、大量虐殺が描かれても、それほどショッキングな感じはしない。これがジョージ・R・R・マーティン《氷と炎の歌》なら、ぞっとして鬱になりそうなところだが。一方クニ・ガルの冒険の方は、なかなか奇想天外で、新発明などがいかにもSF的であり、作者が英雄の生涯よりも社会の仕組みや人々の感情の力学により興味を抱いていることがわかる。訳者あとがきにもあるが、女性が重視されているのもその表れだろう。
ギリシア神話的な神々の暗躍も面白く、楽しく読み終えたのだが、世界も登場人物も違うのに、描かれるエピソードが項羽と劉邦そのままというのは、ちょっと違和感を覚えざるを得なかった。何だか二次創作みたいとでもいおうか。もしかしたら欧米人に中国の昔話の面白さを伝えたかった、ということかも知れないが。
『代体』 山田宗樹 角川書店
タイトルが「代休」に読めてしようがない。まあそれは置いといて、本書は本格SFである。『百年法』もSFだったが、本書は(観点は違うが)小林泰三『失われた過去と未来の犯罪』と同様に、意識と肉体を切り離して、人間の肉体やあるいは人工の肉体(それが《代体》と呼ばれる)へ人格の転送が可能となった未来を描くストレートなSFとなっている。
作者は理系の研究者だったという経歴をもつが、WEBにあるインタビューなどを読むと、特にSFを読んできたというわけでもなく、一気読みのできる面白いエンターテインメントを目指して、それがたまたまSFになったということのようである。もはや現代は、作者がSFプロパーかどうかということは関係なく、近未来に関する問題意識をもって、それを論理的に想像していけば必然的にSFになる時代なのだといえる。
ぶ厚いハードカバーだが、まずはエンターテインメントとして面白く、読み応えがある。登場人物のキャラクターがみな好ましく、魅力があるのだ。とりわけ主人公である代体の営業マン八田くん、内務省厚生局の特殊案件処理官である、インド系の御所オウラ女史とその部下の斉藤くんがいい。意識の肉体からの分離、転送、多重化、コピーなど、アイデア自体はSFでは当たり前となっているものだが、それが一般化されつつある社会のリアリティや、ミステリとしての面白さが抜群だ。こういう事案をささえる法律的・行政的なディテールまでちゃんと描かれている。
ただし、意識をどのように転送するのか、それがどうして同じ自分という意識であるのか、さらに後半で明らかになるSF的で壮大なテーマに関しては、科学的な用語を駆使して十分に書き込まれてはいるものの、イーガン的な緻密さはない。まあそこを突っ込んでいけばエンターテインメントではなくなってしまうし、読者にはついて行けないものとなってしまうだろう。これはこれでバランスよく書けているといえる。
むしろ弱点があるとすれば、主人公たちが対峙する相手、マッドサイエンティストである麻田ユキオ、あるいは――の造形だろう。あまりにも典型的なマッドサイエンティストぶりであり、彼が何を考え、実際のところ何をしようとしているのか、そこがわかりにくく、全体のリアリティを弱める結果となっているように思う。そんな弱点はあるものの、本書はSFファンが読んでも違和感のない、しっかりとしたSFに違いない。
『宇宙探偵マグナス・リドルフ』 ジャック・ヴァンス 国書刊行会
国書刊行会からりっぱなハードカバーで《ジャック・ヴァンス・トレジャリー》叢書として出るその第一巻。しかしまあ、あのヴァンスが、またずいぶんとりっぱになって、というわけだけど、浅倉さんにしろ、酒井さんにしろ、中村さんにしろ、そして後書きにもある米村にしろ、みんなヴァンスが好きだねえ。いやもちろんぼくも好きですけど。
本書は40年代の終わりから50年代の初めにかけて(最後の作品は58年だが)主にスタートリング・ストーリーズ誌(スリリング・ワンダー・ストーリーズ誌とスーパー・サイエンス・フィクション誌が一編ずつ)に掲載された作品だ。いずれにしろ(中にはりっぱな作品も載ったけれど)スペース・オペラ中心の、典型的なパルプSF雑誌である。アメリカではこの時代こそをSFの黄金時代という人もいる。
〈スター・ウォーズ〉を思い浮かべて欲しい。ああいう生命の多様さと冒険の豊穣さ、星々を駆ける戦いの壮大さ。ヴァンスはそこに色彩とエキゾチシズムとブラックなユーモアと、欲望と無茶ぶりを加えた。マグナス・リドルフは宇宙探偵というが、まあ探偵っぽいこともしているが、ひとことでいえば愛すべき宇宙の「悪もの」である。相手も悪者ではあるが、リドルフによって彼らは可哀想なくらいひどい目にあわされる。事件を解決するというより、リドルフが自分でより大きくしているような感じだ。
収録された十編については酒井さんの詳しい解説があり、中にはこれはダメだろうというような作品まで含めて、いずれも愛すべき佳品である。何より、この宇宙の雰囲気を楽しみたい。様々な異星人が生き生きと生活し、あるときは過酷な、あるときは瑞々しく美しい環境の中で、何とも楽しそうに生きているのだ。あの〈スター・ウォーズ〉のカンティーナのシーンで、異形の異星人たちが入り交じってにぎやかに飲み、歌い、語り合い、楽しんでいたのを思い出す。そのルーツはこんなところにあったのかも知れない。
『ビビビ・ビ・バップ』 奥泉光 講談社
とてもぶ厚い本だ。でもとても痛快で、面白く読めた。とりわけ印象的なのが、21世紀末の日常生活の具体的な描写だ。真面目に考えるとすごく難しいことだろう。でも作者は大胆に、とてもわかりやすくそこに切り込んでいる。違っていてもかまわない。いかにもそれっぽく、詳細で魅力的な明確さをもって描いて見せる。
何というか〈携帯電話ショック〉以後、SFは近未来の日常の技術的なディテールを描くのに臆病になってしまったのではないかと思う。大きなガジェットやシ
ステムについては語っても、ごく身近な生活のあれこれについては、それっぽい雰囲気だけで察してよというように。それもやむを得ないとは思う。
確かに、今は月面基地もなければエアカーも飛んでいない。代わりにポケモンGOみたいなのが日常に入り込んできている。こんな未来を昭和のSFは予想しな
かっただろう。でもそんなのいいんだ。はっきりと具体的な絵として描かれた未来生活。本書はそれを思い出させてくれた。
一つ一つは別に目新しいものではない。すでに一部では実用化されたものもあるし、研究中で発表されたものもある。またあと数十年ではちょっと無理じゃないかと思えるものもある。でもトイレの自動健康診断が保険料軽減の条件となっていたりとか、いかにもありそうで、昔のSFが描く未来を見るように楽しく、わくわくする感じがいい。ちょっと手塚治虫も入っているみたいだ。
本書は『鳥類学者のファンタジア』と登場人物がつながっており、あのジャズ・ピアニストのフォギーが姿を変えて現れる。ただ、前作を読んでいなくても全然問題ない。本書で重要な役目を果たすのが、表紙にもあり、章ごとの扉絵にも出てくるアンドロイド子猫のドルフィーだ。しかも本書の語り手でもある。本書は「吾輩は猫である」と始まるのだ。
とはいえ、このドルフィー、初めの方ではやたらと存在感が大きいのだが、途中ではほぼ透明な存在となり、そして最後にまた物語のキーを握るキーマンというか、キーキャットとなる。ストーリーはかなり入り組んでいる上にSF的な大ネタがかぶさり、ひと言では語れない。でも次から次へと色々なことが起こっても、ヒロインのフォギーがほよよーんとして、わりと気楽にことに当たっていくので、こちらも素直に流されていけばよい。全体像はともかく、それをいわば微分した個々のシーンはとてもわかりやすく、読みやすく、笑える。
主な舞台は新たな電脳ウイルス・パンデミックの危機を迎えつつある東京とケープタウン、そしてヴァーチャルとリアルが入り交じった1960年代から70年代の東京新宿である。そこに現れるのが、モダン・ジャズからはエリック・ドルフィー、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、日本人では山下洋輔に坂田明、ロックからはジミヘン、落語界から立川談志に古今亭志ん生、将棋からは大山名人、そして文学・芸術からは横尾忠則、寺山修司、伊丹十三に野坂昭如、唐十郎に中上健次とくる。ぼくも70年代に青春を送ったじいさんなので、この辺の雰囲気は話には聞いている。まあ、みんなアンドロイドだったり仮想人格だったりするのだけど。
ヒロインのフォギーは、ジャズピアニストだからジャズには詳しいが、落語や将棋や昭和の文学や芸術についてはほぼ素人。そんなフォギーが、その場のノリであれよあれよと突き進んでいくのだが、そこがとても爽快で、楽しい。しっかりと構築され描写される未来のインフラが、それを助けている。
フォギーのまわりの登場人物もいい。特に、昭和オタクで、彼女に振り回される役割の将棋指し、芯城銀太郎八段がいい。それからもちろん、なぜか昭和女子高生コスプレの美少女で、超天才の工学者なんだけど、ちょっと天然なところのある花琳ちゃんもステキだ。もっとも、この物語の全てを動かす存在だといえる、フォギーに深く関わってくる超巨大多国籍企業の偉い人、130歳で死にかけで、自分の仮想墓を作ろうとしている山萩氏は、得体が知れなさすぎて、色々と20世紀マニアだということ以外はピンと来ないのだが。
後半で繰り返される、フォギーの見るゴジラの夢が好き。古いドラム式洗濯機の前にゴジラといっしょにちょこんと座って、洗濯物がぐるぐる回るのを眺めてるの。可愛くて、もう涙出そう。
電脳空間やAI、人格のデジタル化といったことが大きなテーマとなっている本書だが、サイバーパンクやイーガンというよりは、このファンキーなバップ感は、あれだ、ルーディ・ラッカーのぶっ飛んだSFを思い浮かべました。
『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
2015年版の年刊日本SF傑作選は19編(マンガ2編含む)+創元SF短篇賞受賞作を収録の、また分厚い短篇集となった。
編者も書いているが、全体的に奇想小説や幻想小説の要素が強い、多様な作品集となっている。とはいえ、だからこそというか、これもSFなのだという、編者のSF観が全体を貫いているようだ。それをあえていうなら、〈奇想〉と〈ロジック〉ということではないか。でもそれって、狭義だろうと広義だろうと、SFのど真ん中にあるものだと思う。おやっと思うようなささやかな不思議から、ギャッと叫ぶようなとんでもない驚きまで、グラデーションはあるが、非日常的なワンダーと、そこから生じる、あるいはそこへ至る物語を、論理的に、さらにいえば科学的に積み上げ、具体的で納得できる新たな視点を示していくこと。別に常識的な論理である必要はない。変てこな論理でもかまわない。それなりに一貫していて、納得できるものであれば(理解は、まあできなくてもいいや)。
そういう意味で、第7回創元SF短篇賞受賞の石川宗生「吉田同名」など、その典型だといえる。審査員がみんな推したということだが、それも当然だと思える傑作だ。ごく平凡なサラリーマンの吉田さんが突然2万人に増殖してしまう。そこから、その後の展開をきわめてリアルに、論理的に描いていく作品である。まさに突然「巨大不明生物」が現れて右往左往する政府機関とその対応を描く、あの映画と同じだといえる。結末がやや物足りないのも同じか。編者は「SFらしいSFでなく、不条理な奇想小説」と評しているが、これをSFと呼ばずにどうするの。
収録作はどれも面白かったが、何しろ数が多いので、ここでは特に印象に残ったものから。
特に印象的だったのが伴名練の「なめらかな世界と、その敵」。ラファティの「町かどの穴」にインスパイアされた作品というが、多世界の選択とその収束という点で、ぼくはイーガンの「ひとりっ子」を強く思い浮かべた。無数の並行世界を同時に認識できる”乗覚”をもつ少女と、それをもたない友人との青春物語である。それにしても目まぐるしく変わる、なめらかにつながる並行世界に、同一性をもって存在する「自分」とは何なのか。SFではよくある話のように思えるが、考えてみれば大変な難問だ。そういう問題を深く考えるのもSFだし、わかっていながら、さらりとかわすのもまたSFだ。
円城塔「〈ゲンジ物語〉の作者〈マツダイラ・サダノブ〉」も面白かったが、こうなるともはや小説といえるのか。プログラムの要求仕様書ではないかと思えてくる。
坂永雄一「無人の船で発見された手記」はノアの方舟をこんな風に描くかという話。『NOVA+』の「ジャングルの物語、その他の物語」でも思ったが、作者はケモナーなのだろうか。
北野勇作「ほぼ百字小説」はツイッターの140字の制限内で書かれた掌編を百編一挙掲載というものだが、中では「急坂にある商店街」が好き。上の方がずり落ちて空き地ができるというのが納得感があっていい。また「納戸の奥のスナイパー」や「ピンク色の象型じょうろの群れが飛来して雨を降らす」というのも好きだ。