続・サンタロガ・バリア (第168回) |
急に暑くなって体調不良な日々、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
久しぶりにタワーレコードに顔を出し、ジルベルト・ジルの残り3枚を買って帰ろうといつもの棚を見に行ったら、そこはAKB48総選挙前の大キャンペーンが張られ、わがブラジルポップの棚は何処ぞと探し回ったところ、とても目立たないところにほんの棚一本分に縮小されて、廉価版の大半が無くなっていた。ジルのボンバ・レコードも消えてレギュラー価格のが数枚あるだけになっていた。あまりのショックに(いや、商売上はそれが正しいのだけれど)、何も買わず帰ってしまった。家電量販店の安売り棚でエグベルト・ジスモンチのECM盤ギター・ソロ集を見つけて買って帰ったけれど、あんまり慰めにはならなかったなあ。
イマジニアンの会で穂井田さんが貸してくださったニック・ハーカウェイ『エンジェルメイカー』は、昨年ハヤカワ・ポケット・ミステリで出た700ページを超える分厚い1冊。以前お会いしたときに、本書がSFミステリみたいな話として評判がいいので読もうかどうか迷ってると伝えたら、穂井田さんが、それなら貸してあげる、でも中身は期待しないでね~ッ、てな調子で、気軽にお借りしたわけだ。
死んだ親父が大がかりな強盗を専門とする裏世界の大物で、祖父は最高の腕前を持った時計職人だった主人公だが、今(現代)はカタギの時計職人として古道具屋を営む中年にさしかかった優柔不断なさえない独身男。でも裏世界にはいまでも付き合いがある。
ある日、葬儀屋組合の一員である親友が持ち込んだ「本のようなもの」の修理を頼まれたことから、事件は始まる。「本」を持っていたら売ってくれと言う、怪しい2人連れが店に現れ、その後親友は惨殺される。
一方、今や90歳になろうかという老婆の家に2人組の殺し屋が現れたが、老婆は「昔取った杵柄」であっさりその1人を射殺、若い方には説教して帰らせてしまう。老婆は、戦時中女学校を出てすぐ国家情報機関に雇われて才能を発揮。当時人類再生のため人類抹殺計画を企む大金持ちの青年が、その実現を目指す発明を女マッド・サイエンティストにやらせていた。この女が「本」の発明者となるが、老婆は若いときに青年と対決して女性科学者を救い出し、女同士の愛を交わすのであった(この本の一番面白い部分は、この老婆の若いときの活躍にある)。
材料的にはスゴーく面白そうだし、グズな主人公は有能な仲間たちに助けられながら危機を脱出するけれど、フツーに有能な仲間たちでは敵に歯が立たなくなると、最後の最後でご先祖様の血が沸き立って一気にパワー・アップするというのもお約束。現代スチームパンク的な設定は王道なんだけれど、なぜか読み進めるのに苦労する。ストーリーテリングが下手とかいう問題ではなくて、基本的な設計図がうまくかみ合っていないみたいだ。SFファンとしては、「本」が起動して人類を破滅させる黄金色の機械蜜蜂が世界中に発生(これが表紙に蜜蜂が描かれている理由)という最大の仕掛けが説明不足で納得出来ないのが残念なところ(女マッド・サイエンティストの発明による悲惨な実験結果はちゃんと書かれてはいるけれど)。
穂井田さんのコメントがよく分かる物語ではあった。
デボラ・インストール『ロボット・イン・ザ・ガーデン』は、何の情報もないままフーンと思って読んでみた。『ロデリック』を読んだ後だし、主人公のナイーヴな優柔ぶりもあって、てっきりアメリカSFだと思って読んだらイギリスSFだった。
SF読みならたいてい予想がつくように、これは『ロデリック』からあらゆるトゲを抜いた子供ロボット物語。すなわちダメ男の子育て成長物語でもあるのだけれど、基本的に気持ちよく読めるロボットSFおとぎ話だ。小説/翻訳テクニックがしっかりしていて安心して読める点も高ポイント。
北野勇作『カメリ』はオリジナル1編を除き、すべて早川書房の出版物で発表されたのに河出文庫で出たという変わりダネ。S澤氏は立派ですね。
作者があとがきでアイデアが生まれたところから執筆過程を紹介しているので、これがパリで思いつかれ、その後10年にわたって旅先の海外で書き継がれた連作短編だったことがわかるが、北野勇作の頭の中に住むカメリやアンにマスターやヒトデナシたちがこの世に現れ出てきたことは、読み手にとっても僥倖であったと思われる。
カメリの物語を読んでいると、それがどれほどファンタジーめいていてもSFのど真ん中に位置していることが感じられる。
国書刊行会の新叢書「ドーキー・アーカヴ」は、これまた立派な叢書紹介冊子が付いていて、共同編者の若島正と横山茂雄の対談を読んでしまう。で、読んでみたのはサーバン『人形つくり』。旧ハヤカワSFシリーズの『角笛の音の響くとき』は持っているけれど読んだ覚えはない。当時はドイツSFだと思っていた。
収録作は長めの中編/短い長編が2作。表題作と「リングストーンズ」で、後者が先に置かれている。「リングストーンズ」はストーンヘンジみたいなストーンサークルのことで、舞台となる田舎の古屋敷は近くに「リングストーンズ」がある。
話はふたりの青年が、その古屋敷に住む学者が養っている外国出身の3人の子供たちのために家庭教師として就職した知人の若い女性(体育科出身!)から来た長い手記の不思議な内容を検分しようとするところから始り、そのまま手記が枠内物語として小説の主体をなす。
よくあると言えばよくある手法だし、ストーンヘンジをダシに異様な悪夢に似たファンタジーを紡ぐこともまあ、よくある話かもしれない。ただ訳者解説にもあるようにサーバンの文章は端正で、いわゆる扇情的な文章は書かない。
「手記」の内容は、不思議な子供たち、浅黒く快活で強い影響力を持つ美少年と、英語を殆ど解さないように見える双子のような少女たち、そして子供たちの素性を訊こうとするとはぐらかされてしまう学者主人と世話人夫婦が織りなす楽しくも不穏な日々。そこへ現れた少年の言うことを何でも聞いてしまう若いメイド。「リングストーンズ」へのピクニックはもちろん何かが起こりそうな禍々しさを予兆させる。そして本当に幻想的なクライマックスが訪れ・・・、そこで「手記」はとぎれる。ここまでが第1部。
第2部は男たちが「リングストーンズ」と古屋敷を訪ねる話で、「手記」とは打って変わって正に散文的な書き方がされている。そして青年たちがようやく手記の送り手と巡り会い「手記」の謎も散文的に解決するのかという最後のページで・・・。
ジャンル的には端正なホラーという言い方が妥当なところだろうが、そこからはみ出すだけの特異性があるのも確かで、表題作で特に主題化されている、若い女性が自ら心理的に支配されることに心地よさを感じてしまうことへの強い関心が、いわゆるポルノ的なレベルとは別に、感じられる。
解説によると、作者の本名はイギリスの外交官ジョン・ウィリアム・ウォール(1910-1989)。中東勤務が長かったのだとか。生前に出版されたのは、1951年に「リングストーンズ」をメインとした短編集、52年に『角笛の音の響くとき』そして53年「人形つくり」をメインとした短編集、この3冊だけ。サーバンの正体は死後初めて明らかになった、ということでちょっとコードウェイナー・スミスを思わせる。ちなみに「サーバン」は「語り手」を意味するペルシャ語だそうである。ロマンティックだ。ウーム、この暑いのにボロアパートの書庫に行ってこいということか。
「機関車、草原に」を再読、再々読してちょっとほかのものを読んでみようかと思い、以前に古書店で買った河野典生『ジャズの本』を取り出して読んでみた。1977年1月、青樹社刊。当時はやりのビニールカバー掛けでカビ汚れが目立ったため、アルコールティッシュで拭いてしまった。
目次は「ハーフ・シリアス・ジャズ・エッセイ」「フリー・フォーム・アドリブ対談」「ハーフ・クレイジー海外旅行記」そして「スラップスティック・ジャズ小説」と並ぶ。世代的にフリージャズの洗礼が顕著だけれど、全然深刻な感じがなくて明るいのがいい。当時コワモテのジャズプレイヤー集団アート・アンサンブル・オブ・シカゴもチンドン屋扱いである。東南アジアやインドで買い集めた民族楽器とそれをプレイする話が繰り返し出てくるので、最初は気になったけれど、それがほぼ全編に出てくるとなると一つのテーマとして感じられるようになる。また、ジャズを通じて山下洋輔や筒井康隆とも付き合いがあり、彼らはエッセイ・対談・ジャズ小説に登場する。
「スラップスティック・ジャズ小説」では、『スイング・ジャーナル』に連載された全部で100枚くらいの中編「インド亜大陸」が本当にスラップスティックで、筒井康隆よりはヨコジュンみたいだが、楽しく読める。アパートの部屋のトイレのドアの向こうはインド亜大陸(インドア大陸)だった、ってドラえもんですね。
河野典生はWIKIを見てみると1990年を最後に作品を発表しておらず、2012年に亡くなっている。
いしいひさいち『現代思想の遭難者たち』が文庫になった(講談社学術文庫!)ので読んでみた。19世から20世紀のヨーロッパ(独/墺・仏がメイン)思想史の超コンパクトなキャッチフレーズ集みたいな感じだけれど、読むのは大変。1編の4コマ漫画とその注釈を読むのに数分かかる。おなじみのいしいひさいちキャラが顔を見せるので、各思想家たちのいしいひさいち的似顔絵とあいまって楽しく読める。
いまさらここで取り上げられている現代思想に強くは惹かれないが、バシュラールくらいは読んでもいいかなと思う。
一般的なストーリー漫画を読まなくなって久しいが、そういえば吾妻ひでお『カオスノート』を読み忘れていたのを思い出して、読んでみた。2014年の作。
一時かなり描線が荒れていたような気がしていたけれど、ここでは割とすっきりした線で描かれていて吾妻ひでお調が楽しめる。さまざま発想の中には理に落ちるものもあるけれど、基本的な妄想力は健在で、そこへ行くかいと思わせる展開とそのマンガ化は相変わらず魅力的だ。売れ行きという点では『失踪日記』から時間が経ったせいもあってマニア受けレベルのようだけれど。
本の雑誌社から出た牧眞司『JUST IN SF』は、いかにも牧眞司らしいこだわりのSF時評集/ブック・ガイド。
やはり自分が読んだ本を牧眞司がどう読んだかが気になるところだが、この本で扱われた100冊の内当方が読んだのは78冊。次に読む本200冊中140冊とというところ。いわゆるジャンル外小説が大半未読ということだ。SFでも特に国内作家で読んでないものが多い。谷甲州とか梶尾眞治とかは特定の作品しか読んでないし、管浩江や草上仁もそういう作家たちだ。共通するものがあるとは思えないけれど、なぜか積極的には読んでこなかった。まあ、これから読めると思えばいいか。
『第二進化』を読んであんまりだと思ったので、最近の化石人類学はどうなっているのかとアリス・ロバーツ『人類20万年 遙かなる旅路』(文春文庫)を読んでみた。BBCのドキュメンタリー番組のメインキャスターを務めた女性人類学者(本業は解剖学)の体験記。番組の方は2013年にNHKのEテレで放映された(見たと思うけれど全く記憶がない)。
これによると現生人類は20万年前にアフリカに生まれ、その後かなり時間が経ってから中東からユーラシア大陸、東南アジア諸島、オーストラリア最後にアメリカ大陸へと伸びていったようだ。異論はあるにせよ、著者はそれを支持している。またネアンデルタール人が先にヨーロッパへ進出し、現生人類が遅れてヨーロッパに現れたとき、同時代に両者が交流したかという点は、遺伝子的には痕跡が少なすぎて見分けが難しく、考古学的には「接触はあり得た」程度の証拠しかないとういうところが面白い。もう一つ面白いと思ったのは、現代人がいわゆる人種的特徴とやらをどのようにして獲得していったのかが、いまだ明らかになっていないところだ。現在は現生人類のみが数百万年の人類の歴史の中で唯一生き残った。だから世界中の人間は現生人類としてアフリカを出発した人間の子孫である。にもかかわらず人類史的には同族のほんの些細な違いにこだわって殺戮を繰り返してきたのはどうしてなのか、という疑問は湧いてこざるを得ない。そこに現代SFの一つのテーマがあるということなんだろう。