内 輪 第309回
大野万紀
SFマガジンで、今度は「ハヤカワSFシリーズ総解説」というのをやるとのことで、ぼくも何冊か自分でやりたい候補を上げました。ところがいざ担当が決定して、さあその本を読み返そうとしたところ、絶対に部屋にあるはずだった何冊かが見つからないじゃないですか。
えーっ、そんなはずはない、どこかにあるはずと、必死に探しても見つからない。たぶん箱詰めにして、ちょっと手の届かないところにあるんじゃないかとは思うのですが、魔窟と化した部屋の奥まで捜索の手を広げるのは、二次災害の危険もあり(?)断念しました。
結局お詫びのメールを出して、見つからなかったものは他の人にお願いし、別の本を担当することにしたのですが、ちょっとあせりました。
ちゃんと確かめず、すぐ手の届くところにあるはずという思い込みも問題ですが、水鏡子みたいに本格的な書庫があればともかく、普通の部屋に本を詰め込むのはもう限界ということですね。そろそろ先延ばし先延ばしにしてきた本の整理に、本当に取りかからないといけないと思いました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『セルフ・クラフト・ワールド2』 芝村裕吏 ハヤカワ文庫
このシリーズは間違いなく傑作となる予感。三部作の第二部だが、同じ作者の『この空のまもり』、『富士学校まめたん研究分室』とどうやら世界がつながっているようだ。
〈セルフ・クラフト〉というオンラインゲームの仮想世界の中で、自立して存在し、独自の進化をするようになった人工生命。それが日本の技術革新の要となって、世界をリードするようになった時代。
前巻では、そのゲームの仮想世界がお話の中心だったが、本書では現実世界と仮想世界が同じくらいの割合で描かれている。現実世界のパートは近未来の日本で、主人公は日本国首相の黒野無明。彼も若い頃は、前巻に出てきたGENZやワサビたちと、ネットゲーム三昧の日々を送っていた。彼はAIの秘書の怪しげな動作に不審を抱き、またゲーム内での友人たちの行動や日本を取り巻く世界の動向に直感的な危機感を感じている。
一方ゲーム世界のパートでは、緑色の肌で牙のある半妖マイドンが、墓場から目覚めた古代の超戦士カトー、ダメダメなAI臭をかもし出す自称神官のえり子と、人工生命のチクワたちや、奴隷制を敷く大国を相手の戦いに巻き込まれていく。〈民主主義〉という古代神を奉じるカトーの無茶苦茶なチートぶりが面白い。
ところが現実世界の方は、後半でとんでもないことになっていく。誰もがまさか起きないはずと思っていた想定外のショッキングな事態へと転がり込んでいくのだ。しかし、仮想世界が現実世界と同等の存在感をもつようになった以上、人々の心のそんな変化も確かに起こり得るのだろうと思える。そんな世界設定に、何ともいえないぞっとするようなリアリティがあるのだ。
後書きがすごい。作者は実際に一万人くらいのNPCをコンピューター上にばらまいて、どんな社会体制ができるかシミュレーションしてみたという。そう聞くだけでしびれる。
さらに、次の第三部ではこれまでの伏線をきちんと回収すると書かれていて、とても期待できる。この作者が伏線を回収するというからには、本当に回収されるのだ。
ラノベやなろう系のような異世界ゲーム小説の面白さと、リアルな近未来SFの面白さ、それに何よりもハードな人工知能SFとしての面白さが共存している。傑作だ。
ところでゲームパートの半妖という存在が気になる。えり子のような人工知能とは明らかに異なり、ゲーム内の「人間」と同様にしっかりした自意識があるように描かれている。転生した人間と人工知能の違いや、異世界での記憶や意識のあり方についても、あっさりと書かれている裏に、深くハードな考察があるように思える。
『彼女がエスパーだったころ』 宮内悠介 講談社
ハードカバーじゃなくて、ペーパーバックだ。手に持った感覚がいい。そして装丁が素晴らしくかっこいい。
連作短篇集である。『年刊日本SF傑作選』にも収録された2編(「ムイシュキンの脳髄」「薄ければ薄いほど」)を含む6編が収録されている。テーマは怪しげな疑似科学が、個人と社会に関わるところ。それを淡々とした筆致で、フリー・ジャーナリストの男性である「わたし」の視点でドキュメンタリー風に描く。
百匹目の猿、スプーン曲げ、オーギトミーと呼ばれる脳外科手術による人格変異、ありがとうと声をかけた水、ほとんど1分子も残らないほど薄めることで効果があるというレメディ、そして少数者による社会の転換点〈ティッピング・ポイント〉。精密なロボトミーであるオーギトミーはちょっと違うが、いずれも科学的根拠のない、疑似科学でありオカルト的な信仰・思い込みである。「わたし」にはそれがわかっている。だが(少なくともストーリーの中では)それを声高に糾弾したりすることはない。ある種の個人や集団に、それが確かに意味をもっているからである。
実際に、例えば宗教に対して、それは科学的根拠がないと批判することは、あまり筋がいいこととはいえない。でもそれだけではなく、ここではもう少し微妙な領域、それこそSF的といっていい領域に(事実としてでなく心情として)深く踏み込んでいる。
ストーリー上は、それらが日常的なレベルには収まらず、殺人事件や大規模なテロとも関わってくるので、ミステリ的な要素が大きくなっていく。とはいえ、それらもごくあっさりと描かれるのだ。「わたし」自身が巻き込まれて当事者となり、かなり大変なことが起こっているにもかかわらず、そこにはポイントが置かれないのだ。
筆致はあくまでも淡々として、事務的といっていいくらい日常生活のレベルに徹している。だからこそ、「彼女がエスパーだったころ」の彼女、及川千晴と「わたし」の関わりが最終話「沸点」でクライマックスに達するとき、暖かさ、嬉しさ、良かったと思う気持ちもまた頂点に達する。それまでどちらかといえば社会から疎外され、暗い情念に絡み取られてあがいていたような人々の物語が、ここでふっと浮き上がる。とてもすてきな読後感だ。
『パンドラの少女』 M・R・ケアリー 東京創元社
脳に寄生し、人間をゾンビのような〈飢えた奴ら〉に変えてしまう恐ろしいキノコによって滅亡の危機に瀕した世界。ここイギリスでも、生き残った人々は崩壊したロンドンを離れて臨時首都に立てこもり、二十数年間、かろうじて文明の残り火を維持していた。
舞台はそのロンドンから八十キロほど離れたところにある軍事基地。そこに駐屯する軍人と科学者たちは〈飢えた奴ら〉に囲まれたまま、この災厄から逃れる方法を研究している。感染すると人としての意識を失い、ひたすら生きた人間を襲って喰う〈飢えた奴ら〉に変身してしまうのに、感染しているにもかかわらず、意識を保ち、正常な知能を維持している子供たちが発見されたのだ。基地ではそんな子供たちを研究材料として集め、教育して観察し、時には解剖してなぜこの病原体に免疫があるのかを探ろうとしている。
一見普通の少年少女に見える子供たちだが、うっかりすると〈飢えた奴ら〉の本性をあらわして人間を喰おうとするので、地下の独房に監禁し、独房から出すときは全身を拘束する必要がある。ヒロインのメラニーは、十歳前後と推定される、そんな少女の一人。言葉を覚え、本を読み、女性教師のミス・ジャスティノーを慕って勉強し、高い知能を示している。ところが、そんなメラニーをマッドサイエンティストな女性科学者コールドウェルが解剖しようとしたとき、基地が襲撃され、メラニーとジャスティノーとコールドウェル、そして基地を守る軍人のパークス軍曹とギャラガー一等兵だけが脱出して、〈飢えた奴ら〉だらけのロンドンを抜け、臨時首都へと向かう逃避行を始める……。
ありがちな設定だが、ヒロインのメラニーが大変魅力的に描かれており、とても面白く読める。彼女は意識としては普通の人間なのだが、〈飢えた奴ら〉でもあり、暴走する能力をもてあます異能者なのだ。その能力が人を傷つけるのは、例えばスティーヴン・キングのファイアスターターの少女と同様であり、ゾンビというよりはむしろ吸血鬼ものや超能力者もの、新人類ものに近いかも知れない。
だが、本書の魅力はそれだけではない。人間四人と〈飢えた奴ら〉の少女一人の苦難に満ちた逃避行をひたすらミニマムに、情感とアクションを中心に描いていくのだが、その背後にあるのは、まさしくSF的な大きな物語なのである。それは一番最後に、タイトルの意味と合わせて衝撃的に明かされる。はたしてそれは希望なのか、それとも絶望なのか。それはどの視点で見るかによって違ってくるだろう。
ところで本書は映画化されるということだが、十歳のヒロインのビジュアルは、ほとんど全編にわたって裸に近い格好で、手錠をかけられ口輪をはめられたまま活躍するのだ。何か別の意味でヤバイ映画になってしまわないか、いささか心配である。
『蒲公英王朝記 巻ノ一 諸王の誉れ』 ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
ケン・リュウの初長編は、中華ファンタジイ。
いや、日本で中華ファンタジイというとやや固定したイメージがあるように思うが(『十二国』はちょっと違うか)、そういうものは欧米にもある。例えば『鳥姫伝』なんかはとても面白かった。しかしケン・リュウは、欧米流のマジカルでステレオタイプな中華ファンタジイとは一線を画したいとのことで、架空の多島海を舞台に、シルクパンクなエピック・ファンタジイを作り上げたのだ。
いや、その意図はよくわかるのだが、秦の始皇帝の死後、劉邦と項羽が争った楚漢戦争のエピソードを大胆にもほとんどそのままに(そのままというのは、マンガ『キングダム』が秦の始皇帝をそのまま描いているというのと同じくらいの意味で、そのままなのだが)用いていて、日本の読者にはちょっと微妙な感じがするのではないだろうか。
ただ、もしかしたら、項羽と劉邦の物語というものが、日本では主に史実をもとにした歴史小説として書かれ、読まれているのに対し、ケン・リュウの中ではそれが、神話や伝説、おとぎ話のような類型として、物語の鋳型としてあるのではないかという気がする。トロヤ戦争とか、そんな感じで。
第一巻では、多島海世界を統一した帝国の皇帝の死後、各国で反乱が起き、英雄たちが立ち上がっていくさまが描かれる。主人公となる二人の英雄は、劉邦にあたる豪快で陽気なクニ・ガルと、項羽にあたる高貴な生まれで武勇に優れるマタ・ジンドゥである。群雄割拠な戦乱を描くファンタジイというと、ジョージ・R・R・マーティンの〈七王国〉もそうだが、あちらが重い歴史小説的な筆致で描かれるのに対し、少なくともこの巻では、歴史小説的な観点よりもキャラクターが重視され、まさに武侠小説のような味わいがある。神々も登場するが、運命や社会制度、世界の環境よりも個人の心意気が重要なのである。とりわけ、クニ・ガルの陽気さ、明るさ、親しみやすさは、残酷なことも多いこの小説をとても明るい読後感のものにしている。
ここまでわりと一本調子で進んでいる物語だが、第2巻では大きな展開があるとのことで楽しみだ。
ところで、タイトルのこと。蒲公英にダンデライオンとルビが振られても、ダンデライオン王朝とは呼びにくく(英語になってしまう)、タンポポ王朝では間が抜けた感じがして、なかなか難しい。蒲公英の読みは「ホコウエイ」だが、これだと何のことかわからないしねえ。もう少し日本語で漢語としてのおさまりのいい植物を採用してもらえなかったものか、と思ったりする。
『大きな鳥にさらわれないよう』 川上弘美 講談社
これは本格SFの連作短篇。遙かな未来の地球での、ヒトの行く末を描く。
とても大きな物語もあるのだが、それは描かれている話の背後に隠れていて、ほとんど表には出てこない。小さな集団になって生き延びる人々の、ごく日常的な生活が、家族や隣人との関係、愛や性、好奇心と保守性などが細やかな心情とともに、ゆったりとした筆致で描かれている。
人類は衰退しました。探究心や冒険心は一部の人には残っているが、人類全体の意思といったものにはならない。未来への関心は薄れ、人々は狭い地域の中で、少ない人口で、ほとんど変化のない、同じような生活を何百年も、あるいは何千年、何万年も続けている。それでも少しずつ変化はある。変異し、部分的に進化した集団もある。
特徴的なのは、彼らを見守る存在があるということである。行動的で、集落の外へも出かけ、ホバークラフトやコンピューターを使う、「見守り」と呼ばれる人たち。また「母」と呼ばれる、人々を育てる存在がある。「母」もある意味、人間には違いないが、普通の人間とは異なる人工的な存在である。彼らにはより大局的な観点がある。クローン技術や遺伝子工学を駆使し、人類をできるだけ長期間存続させることが彼らの目的である。うまくいく場合もあるし、失敗する場合もある。
それぞれの物語は必ずしも時系列になっているとは限らないが、ゆるやかにつながりあい、静かに物語を語っていく。はじめ、わたしが何人もいたり、「母」や「見守り」が説明なしに語られて少し混乱するが、でもSFを読み慣れていればすぐにその状況はわかるし、そうでなくても徐々に理解できるようになっている。たそがれゆく人類ではあるが、誰もそれを悲劇とは思わない。人々はそれなりに幸せに暮らしている。もしかしたら、縄文時代の人々もそうだったのかも知れないように。ただそんな古代の暮らしに較べれば、この世界は科学技術も残っているし、見守る人もいるし、争いも少なく(皆無ではないが)、ずっと暮らしやすい世界のようにも思える。しかし、自分たちの未来や広い世界への関心をなくし、遠い先を夢見ることもなく、ローカルでミニマムな世界の中で完結してしまうことは、やはり寂しく、もの悲しい。
本書の最後では、ちょうどフェッセンデンの宇宙のような、新たな展開が開ける。遺伝子は残らないかも知れない。しかしヒトの心は引き継がれ、残っていく。そして物語ははじまりへとつながって終わる。悲劇もあるが、それだけには終わらない。何とも美しい物語だ。
『クロニスタ 戦争人類学者』 柴田勝家 ハヤカワ文庫JA
著者の長編第2作は、未来のアンデスを舞台に、グローバルに認知・感情を共有して争いを避けようとする人々と、それに反発して民族や小集団の個性(差異)を重視し、自立・独立しようとする人々の対立を描く力作である。
前者を「みんな仲良くしようよ」後者を「ほっといてくれ」といってもよいが、「仲良くしようよ」側(作中では共和制アメリカと呼ばれている)は、人体にハードを移植し、それによって〈自己相〉というクラウド的な情報網とつながって、個人の意識や感情を共有し、権限によっては他の個人をコントロールしたり、肉体を動かす神経系まで操作ができる力をもっている。早い話が超人になれるのだ。そしてそれを拒否する「ほっといてくれ」側を〈難民〉と呼んで弾圧し、時には武力を行使して虐殺もする(もちろん難民側も無差別テロで攻撃してくる)。
何とも重苦しく血なまぐさい世界だ。主人公は共和制アメリカに属するクロニスタ(戦争人類学者)で、軍属として軍隊に同行し、民族学・人類学の知識を使って作戦を効率よく推進する役割をもつ。彼、シズマ・サイモンは難民の中に一人のずば抜けた肉体能力・戦闘能力をもつ謎めいた少女を見いだし、彼女を共和制アメリカ軍から救って、彼女の生まれたという黄金郷を目ざす。友人たちとも決別し、彼らを追う軍と戦いながら。
戦闘シーンは迫力があり、異能バトルっぽいスピード感があってとても面白い。ただ、〈自己相〉のあり方や、世界設定、とりわけ「みんな仲良く」側の行動原理がどうにも説明不足でぼくには理解できず、納得もできなかった。「ほっといてくれ」側はまあ現代のテロリズム、民族紛争などを考えれば理解できる。もっとも実際には民族も宗教もないというのだからまたわからなくなるのだが。
主人公は友人と別れ、軍と戦う立場になりながら、常にどっちつかずで、そのことを真剣に考えようともしない。少女との逃避行にしても、男と女の関係ではなく(そういう描写は避けられている)彼の学問的興味が先行している。このすべてが彼の夢の中だというのなら納得できるのだが。
というわけで、全体的にはとても面白く読めるのに、設定と主人公に納得ができず、ちょっともやもやする読後感が残った。