続・サンタロガ・バリア  (第167回)
津田文夫


 カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルのライヴ盤がよかったので、聴いてみようと思ったジルベルト・ジル。今回はボンバ・レコード発売の1000円盤全7枚のうち、4枚を聴いてみた。タイトルは『ヘファヴェーラ+2』(1977年)、『モントルーのライヴ』(78年)、『ルアール+2』(80年)そして『ウン・バンダ・ウン』(82年)。44年生まれのジル30代の作品群だ。
 『ウン・バンダ・ウン』から聴き始めたのだけれど、解説ではほかの6枚に比べるとまとまりに欠けるらしい、ありゃりゃ。
 ジルベルト・ジルの作る音楽はカエターノと違って基本がブラジル・ファンク的なもので、アフリカ系ブラジル人のジルは、出身地バイーア地方のアフリカ系土着宗教カンドンブレの儀式で使われるリズム(イジェシャーまたはアフォシェーといい、ジルはアフォシェーを使う)を取り入れることに特徴がある・・・と解説されている。実際、ジルの音楽は声の質も含め、カエターノに比べると開放的で闊達なスタイルの音楽が多い。ただし、ジョルジ・ベン(ジョール)ほど強烈なファンクでは無く、歌詞もカエターノほどではなくても手が込んでいる。これはほかの3枚にも共通していて、ジルの志向がブラック・ミュージックに根ざそうとするものであることがわかる。
 特にライヴ盤ではアフリカ/ブラジル的パーカッションの盛り上がりで、客が沸きに沸いているが、おそらくカエターノやエドゥ・ロボはライヴでこんなスタイルは取らない/取れないだろうと思う。カエターノは出すレコード1枚1枚で大きく性格を変えてしまう場合が多いが、ジルは直線的に進んでいるように見える。それでも『ウン・バンダ・ウン』のタイトルは、カエターノが自己のグループを結成したのに倣って結成したジルのバンド名であり、その点で意気込みと変化が感じられる1作なのだろう。
 カエターノ&ジルベルトのデビュー50周年ライヴの演奏曲目と今回買ったアルバムを見比べると、なんと『ウン・バンダ・ウン』から3曲も、それも6曲目7曲目8曲目と続く曲たちを取り上げている。ジルは50年間でおそらく300曲以上作曲しているだろうが、50周年記念ライヴで歌った持ち歌は10曲あまりに過ぎない。そのうち3曲が1枚のアルバムから取られているというのは、ちょっと驚く。カエターノの方は手元にある20枚以上のアルバムにも入ってない曲が歌われていることを思うと不思議でさえある。それだけこのアルバムはジルにとって思い入れのある曲が揃っていたのだろう。
機会があれば残りの3枚も聴いてみよう。

 あまり読みたくなるものがなかったので、ついにウラジーミル・ソローキン『氷』『ブロの道』を読んでしまった。「氷三部作」なのだから最終巻が出るまで待っても良かったのだけれど、手を出してしまったものはしょうがない。奥付は昨年の1月と9月。
 『氷』が第2部で『ブロの道』が第1部だが、出版順は第2部からということで、素直に『氷』から読み始めた。
 第1部はいかにもソローキンらしい暴力的な世界が展開する。性別、年齢、社会的地位に関わりなく人々が襲われ、捕まった者は胸をはだけられ、「氷」のハンマーで意識を失うくらい胸を叩かれる。このうち、襲った連中が名前を云えと尋くと「心臓(こころ)」が本人の名前とは別の名前を答えた者は連れ去られ、何も答えなかった者は廃棄される。ソローキンは襲われる側の登場人物たちの生活をさらっと描いて、現代ロシアの雰囲気を醸し出す。第1部の終わりでは、なぞめいた名前を答えた者たちが襲う側の施設に集められ、新しい名前の者として覚醒したところで終わる。ここまでは襲う側の訳の分からない暴力と行動がソローキンのパワーを感じさせて、物語の続きに期待を持たせた。
 第2部となると、ナチに占領されたロシアの田舎の村の一人の少女が、村を焼き払われ、他の若者と一緒にポーランドへ連れて行かれ、まるでアウシュビッツかと思わせる行動を取らされるが、そこで待っていたものは、ナチの高級将校により「氷」ハンマーで胸を叩かれることだった。他の若者が全員事切れる中、少女だけがハンマーの打撃に新しい名前を答えたため、少女は新しい名前を持つ者として特別扱いで将校に大事にされてウィーンへと旅立ち、オーストリア・アルプスの屋敷でブロと名乗る男と「心臓」同士のふれ合いをして、ついに目覚める・・・。ここまでがおもしろく読める物語で、少女がブロから自分たちの素性と使命を聞かされたところで、SFファンとしてはこりゃイカンとなってしまう。そのアイデアの筋の悪さは致命的で、いかに「人類=肉機械」を言いつのられても説得力がない。それは主人公側も「肉機械」と同じ思考しかしていないので、読み手を説得できないのだ。
 『ブロの道』はブロの生い立ちと学生となってツングース隕石探検に出かけ、「氷」を発見するところまでがおもしろく読めるが、「氷」を発見して自らのルーツを知ってからは、「心臓」の名前の持ち主を捜索する話がメインで、結局『氷』第2部の再演になってしまっている。
 せっかく楽しみにしていたのに、あとは宇宙の始まりに存在した2万3千の光(?)を地球上で探す話が、第3部で本当に現代世界を撃つどんでん返しになってくれていることを祈るばかりだ。

 順調に単行本が出る宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』は、男性レポーター/ジャーナリストを語り手に、ちょっと胡散臭い疑似科学的トピックを割とシリアスに扱った連作短編集。うち「ムイシュキンの脳髄」と「薄ければ薄いほど」は創元の年間傑作選で既読。各短編には英語の副題がついていて、1作目「百匹目の火神」には'The blackiston Line' と振ってある。ブラキストン線の説明は作中にあるように、本州と北海道の動植物の違いをつくったのは津軽海峡=ブラキストン線というものである。それは物語の不穏さとは別に、作品の要約になっている。表題作は以前スプーン曲げで話題になった少女のその後であるが、副題は'The Discoverrie of Witchcraft' でこれは表紙にも印刷されている。ちょっと気になる英文タイトルなのでググってみたら'The Discoverie of Witchcraft is a partially sceptical book published by the English gentleman Reginald Scot in 1584'とWikiにあった。「妖術の暴露」と訳すらしい。よくできてるなあ('r'が一つ多いけど気にしない)。
 これらは本当に英訳するときのタイトルかもしれないが、日本語題のおどろおどろしさを中和している。まあ「水神計画」に'Solaris of Words'は、「水にありがとうというと水がきれいになる」話のタイトルとしては大仰だと思うけれど。

 ハヤカワSF文庫の新刊は読みたいものがないので、「全米百万部突破、衝撃のSFスリラー三部作開幕」とオビに謳われたA・G・リドル『第二進化 アトランティス・ジーン1』を眉にツバをつけてを読んでみた。・・・眉にツバつけておいて良かった。
 まあ、わざわざ紙に印刷して出すようなものでもない。最初からエンターテインメント映画の台本をカット割入りで書いたようなもの、話のお粗末さもいかにもアメリカン・エンターテインメント・ムービーになっている。それでも読めるのは翻訳がよく出来ているからで、読みながら笑えるところがいくつもあって、訳者が楽しんでいることが分かる。何も考えないで(考えると損をする)読める文章の翻訳の仕方はすばらしい。

 その点アン・レッキー『亡霊星域』は『叛逆航路』の第2部ということで安心して読める。今回は舞台が辺境聖域の星系にあるステーションと惑星だけで物語が展開されている上、「彼女」人称ももはや気にならないので、かなりフツーのSFだ。それにしてもここまで文化人類学的なアイデアを持ち込むとはねえ。ブレクちゃんではヴァンスのような魅力は出てこないけれど、それでも惹きつけるキャラの持ち主ではある。セイヴァーデン君の活躍がないのが残念。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ第3期/第2回配本のケン・リュウ『蒲公英(ダンデライオン)王朝記 巻ノ一 諸王の誉れ』は、あの短編集からするとちょっと驚く処女長編のエピック・ファンタジー。「項羽と劉邦」という話もありますが、個人的にはそれほど中国古典史劇っぽいとは思えなかった。第1章だけで鮮やかにこの世界の設定と登場人物の雰囲気を読者に伝える力はたいしたもので、多数のキャラクターの扱いに時折ぎこちなさを感じるものの、物語にとけ込めるだけのパワーは保持されている。続いて「巻ノ二」も出るようだから楽しみにしておこう。
 訳者あとがきで古澤氏が翻訳の苦労を明かしているけれど、クニ・ガルが出てくるパートだけ何となく明るいのは、原文にも違いがあるのでしょうか。

 新訳ブームもそろそろ終わりみたいだけれど、ハル・クレメント『20億の針』が新訳で出たので読んでみた。
 読んだのは中学生の頃だよなあと思いながら、読み始めたのだけれど設定は知っているのに、ジュヴィナイルだったことは全然覚えていない。読んだという記憶は勘違いなのか。それとも当時の中学生が読んだからジュヴィナイルではなかったということか。まあ、今更どうでもよいことだけれど。
 今読むとさわやかな物語で、全然物足りないと云うところもなきにしもあらずだけれど、解説で牧眞司氏がいっているように、これがハル・クレメントの持ち味でもある。50年代アメリカSFとしていまでも歴史的な価値を持つハードSFであることは間違いないが、その後この設定がよそで使い倒されたので、若い人には既視感がある分退屈かも。

 川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』は340ページに13編を収めた連作長編(いや短編集?)。「人類は衰退しました」というタイトル・シリーズのラノベがあるが読んでないのでよく分からないけれど、これは川上弘美にしか書けない「人類は衰退しました」物語。
 多くは女性(人間とは限らない者も含めて)を語り手またはメインキャラクターにした短編群だけれど、中にいくつか男をメインに据えたものがある。うち2つのタイトルが「Remember」と「Interview」で、この2つだけに英語綴りが採用されている。「Interview」の語りはなかなか面白い。キャラクターたちのなかにはいわゆる超能力者もいるし、フツーの人間の姿をしていない者もいるが、川上弘美は超能力者を語り手にするが、それをドラマティックに強調するような書き方はしてない。
 最後から2番目の「運命」を除けばほぼ静謐な文体が駆使され、読み終えた後ではいわば日本型ル・グィンのような感覚がある。関係ないけど、なんだか映画の『A.I』を思い出した。

 天瀬裕康『異臭の六日間』(近代文藝社刊)は、作者渡辺晋先生からいただいたので読んでみた。
 渡辺晋先生は1931年生まれで、60年代には現役の医師としてSFマガジンで連載コラムを持っておられた。また60年代後半にSFファングループを作ってファンジン『イマジニア』を発刊、広島県にファースト・ファンダムもたらした方でもある。いまや後期高齢者の仲間入りをされたが、この3月には天瀬裕康編『増補改訂版 SF・科学ファンタジー俳句集』を発刊され、4月には本書を刊行されるなど精力的に文筆活動に邁進されておられる。
 オビや著者前書きにあるように〈原爆文学〉短編集である。作家としては私小説嫌いを標榜する渡辺先生だが、やはり旧制中学生で原爆被害を目の当たりにした人間として「原爆短編集」を書き残しておかねばと云う執念がこの作品集には漂う。
 表題作の「異臭」はもちろん被爆者の身体が焼かれる臭いであり、そのリアリティは体験に基づく。このリアリティは、ヒロシマを伝えようとする様々な団体や運動との関わりや医師として被爆者診療で出会った患者への想いそれに娘のお見合いの話まで個人的経験に支えられ、いかにも私小説同人誌に掲載されるようなタイプに見えることもあるが、それでもSFファン気質もしくはSF作家でもあるという体質からか、これらの短編には幻想小説としての質が窺える。
 「いせしまこん」にも参加されるそうなので、ぜひ「SF・科学ファンタジー俳句」企画を覗いてあげてください。

 ノンフィクション系も何冊か読んだけれども、歴史系と音楽系を1冊ずつだけにしておこう。

 1冊目は鳥居民『鳥居民評論集 昭和史を読み解く』。鳥居民は1928年生まれ。1985年に草思社から昭和20年の日録という形式で『昭和20年』第1巻を出版、2012年に13巻まで出し続けたが翌年未完のまま亡くなった、いわば在野の歴史家で、この文庫に著者略歴年表が掲載されている。それによると戦後に水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業後、台湾政治大学に留学、李登輝と知り合う。帰国後台湾独立運動に関わり機関誌の編集をする・・・。
 この経歴からかなりな人物であることが窺えるが、その間に草思社の創業者と友人となり、企画出版顧問的立場となったとあるから、その著作が草思社から出されているのは当たり前である。
 というような人物が描く昭和史エッセイが本書なわけで、第1部「太平洋戦争を考えるための読書案内」は、清沢洌『暗黒日記』や学徒勤労動員の記録『海鳴りの響きは遠く』あたりをトップに持ってくるまともな選択だが、第2部「敗戦について」や第3部「原爆はなぜ投下されたか」あたりになると「新発見」や自説を強調するあまりだんだん読みづらくなってくる。面白いことは面白いが、井沢元彦みたいな雰囲気になってくる(ちょっと云いすぎだけど)のでやや引いてしまう。『昭和20年』はどうしようかなあ。こんど戸高館長にあったら尋いてみよう。学者先生の我が師はたぶん鳥居民なんか読んだことはないだろうから。

 音楽系は五味康祐『西方の音』。五味はご存じ剣豪小説の大家だけど、オーディオ・ファンには昔々のハイファイ求道者のイメージが強いヒト。戦前戦時中とクラシック(レコード)にのめり込み、ある種ロマンティックなベートーヴェン・モーツァルト賛を私的な体験に引きつけて書き続けたヒトでもある。まあ今のヒトで、五味康祐みたいな強烈なベートーヴェン体験いやクラシック体験をもつことは不可能だろう。
 五味のクラシック/オーディオ・エッセイは角川ランティス文庫でも読んだけれど、今読むともはやこの世界を五味のように受け取る条件が失われてしまったことが痛感される。それはよい悪いではなくて時代の推移の結果である。ただオーディオに関してはいまの価値にして数千万円を費やしたと思われる五味の経験から導かれた「音楽には神がいるが、音には神はいない」という言葉は、いまもって名言であろう(ただしこの名言はこの書になく、解説で引かれている)。
 特に面白かったのは、当方がオーディオに興味を持ち始めた1970年頃、家ごとスピーカーにしたというオーディオ評論家高城重躬(たかじょうしげみ)はすでに伝説となっていたが、五味はその昔高城にいろいろ指導してもらって(高城自作アンプとかスピーカーとかも含め)あれやこれや買い込んだ結果、高城氏は本当に音楽的な良いオーディオを全く知らないとクソミソにけなしていたことだった。わははは。
 


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