続・サンタロガ・バリア (第163回) |
なんとか小澤征爾のベートーヴェンを寝ないで聴いていられないかと、再び第7番を聴いてみたら、やっぱり1楽章の途中から寝てしまった。目が覚めると3楽章の終わり。しかし今回は、なぜか目覚めたときに体が横に揺れていた。これはと思い、4楽章でクラシック・ファンがよくやるように、腕を上げて指揮のまねごとをしてみたら、なんと小さな円を描いて高速でグルグル回り始めた。普通はタテヨコ乗りで軌道を描く腕が、円を描いて、疲れたら8の字を描いて、最後には左右に振れるだけのメトロノーム状態となった。4番や8番を聞き直してみても腕の反応は同じ。ブラームスの1番や4番でも変わらない。 腕を振り回していれば当然眠れないわけで、ようやく小澤征爾の演奏を最初から最後まで聴けるようになった。こうして耳に入ってくるようになった小澤のベートーヴェンやブラームスは、60年代70年代の名指揮者たちとは違うくっきりした演奏で、いわゆる感動的な演奏とは違っている。これは小澤が80年代以降にクラシック界を席巻した古楽器オーケストラの演奏成果を取り入れた結果だと思われる。いやあ、眠らずに聴けるようになってよかった(腕を振り回さずに通しで聴けるかどうかはまた試してみよう)。
久しぶりにタワーレコードに寄って、ブラジル・ポップス/MPB1000円盤の棚をのぞいたら、マルコス・ヴァーリの81年作『ヴォンダージ・ジ・レヴェール・ヴォセ』があった。なんとシカゴのピーター・セテラが作曲に加わってたり、リオン・ウェアが入っていたり、70年代アメリカ滞在の成果みたいなアルバムで、メロウな時代のシカゴだけれど、ロバート・ラムやジェームズ・パンコウ、リー・ログナインなどオリジナル・メンバーも1曲参加して演奏している。作詞はいつものパウロ・セルジオ・ヴァーリだけれど、この解説では兄ではなく弟になっている。音の方はマルコス・ヴァーリなので、ポップには違いないが、アメリカンなアレンジよりも、いつものようにパウロと二人だけで作った「砂金取り」がおもしろかった。
昨年末にかおるさんが借してくれたレニーニはマルコス・ヴァーリやカエターノ・ヴェローゾより1世代あまり若いブラジル・ポップスのミュージシャンで、ナイロン(クラシック)・ギター1本でロックができる優れもの。スターになったのは30代半ばで遅咲きだけれど、聴かせる音楽の厚みはハンパない。ボサ・ノヴァからクレージー・ケン・バンドみたいな暑苦しいロックまでエッジの効いた音楽を作っている。
タワーレコードを覗いたついでに、行きつけの老舗古書店を覗いたら中古CDの棚にマドレデウスの『海と旋律』が500円で置いてあったのでゲット。20年あまり前に表題曲がCMに使われちょっとヒットした。クリスタルな声質の女性ヴォーカルにナイロン・ギターとチェロ、アコーディオンにキーボードの4人がバックをつとめる、ちょっとファドっぽいバロックみたいな音楽で、たまに聴くと気持ちよい。
クラシックの方は久しぶりにケンペが出ていたので聴いてみた。1959年のザルツブルグ音楽祭ライヴで、オケはフランス国立放送管弦楽団。演目はヘンデル「合奏協奏曲 作品6-1」、モーツァルト「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」ピアノはクリフォード・カーゾンで、メインがベルオリーズ「幻想協奏曲」。ザルツブルグのライヴは以前62年にベルリン・フィルを振ったのがあった。音質は落ちるけれど演奏はこちらの方がおもしろい。特にカーゾンのピアノが集中力を感じさせて見事。「幻想」はスタジオ盤をベルリン・フィルと入れた直後で、フランスのオーケストラ相手にケンペらしいおどろおどろしくない「幻想」を紡ぎ出している。フランスのオケの木管は官能的で、これはお家芸ですね。「幻想」の第2楽章のワルツはケンペのが1番好きだ。
キング・クリムゾンのコンサート会場で買わなかった「THE ELEMENTS 2015 TOUR BOX 」がようやく届いたのだけれど感想はまた来月。
12月、1月と読むのに2ヶ月かかったジーン・ウルフ『ナイト』Ⅰ・Ⅱ『ウィザード』Ⅰ・Ⅱ(総タイトルは『ウィザード・ナイト』とひっくり返る)は、ジーン・ウルフの趣味丸出しのさっぱり呑み込めない一見中世騎士物語風な北ヨーロッパの中世神話・伝説ファンタジー。
『ナイト』Ⅰの冒頭で、兄に向けて書いた手紙(こんな長い手紙があってたまるか)に(人間でないものを含む)人物・事項用語集があるのだけれど、その膨大なことといったら、この長い物語を読んでいる間に忘れてしまうこと必定というシロモノだ。だから、こいつ/これは何だったけというときには、いつでもここへ戻って確認できるようになっている。とはいえ、いちいちそんなことする読者は少ないと思うけど。
手紙(!)は、よくあるように〈ぼく〉がこちらの世界からあちらの世界へ移ってしまう時からはじまるが、その手続きは最初の3ページで終わってしまい、さっそく「エルフリース」へと入り込む。
しかし、いま『ナイト』Ⅰの(兄に向けた手紙の)最初の1ページを読むと、主人公が「ここでなら書く時間がいくらでもあるし、いまをおいては書いたものをにいさんのもとへ届けるチャンスもなさそう」とか「自分でも納得できないことがたくさんあるんだよ」とか「ある意味、いろいろあった。見ようによっては、なにもなかった」という言葉を書きつけているが、この長い長い物語を読み終えた後では、これらの言葉が意味していることはウルフが読者に仕掛けた得意の謎かけであったとわかる。ちなみに「ここ」がどこで、なぜ「いまをおいては」なのかが分かるのは、『ウィザード』Ⅱの最終ページである。
また3ページでは〈ぼく〉がエルフリースへ移る直前、丘の頂きから見た雲が様々に形を変えて、これから行く冒険の世界の事物を見せるのだが、そのことに言及があるのは『ウィザード』Ⅱの143ページという時点だ。これがウルフなんだよなあ。
『ナイト』は基本的に一人称の話だけれど、『ウィザード』の方は〈ぼく〉が最初に断っているように人から聞いた話(要は1人称では語れないエピソード)で構成されている部分が多い。どちらにしても〈ぼく〉が語らなかったことは多々あると思われ、〈ぼく〉自ら説明を省いていることを認めているのだ。
ということで語りの仕掛けに目が回るウルフ・ワールドであるが、あまりの仕掛けの多さに物語を楽しむ余裕が失われ気味なことも確かで、そういう意味では『ナイト』が楽しく読めた。この物語にはいわゆる魔法の猫や犬や馬が出てくるのだけれど、『ナイト』Ⅰで最初に出てくるのは犬のギュルフで、出会いの場面、腹を空かしたギュルフに肉をやると一声うなった。「うめえ」。このシーンが一番好きだなあ。
ちなみに、訳者後書きで触れているように4冊の表紙をⅠⅡⅠⅡとA3型に並べると1枚の絵になる。あちこちに本作に登場するあれやこれやが描かれているが、絵の左下にギュルフがいるのが分かる。
宇宙SF三部作の開幕編というグレッグ・イーガン『クロックワーク・ロケット』はタイトルこそスチームパンクっぽいが、この宇宙と違う物理法則を持ち込んで、数学音痴には歯の立たないハードな考察が展開される1作。
とはいえストーリーの組み立てやキャラクター設定の方は、非常に古めかしいスタイルなので、読むだけなら、割とスラスラ読める。問題は主人公たちがつくるロケットが、何でそんなようなロケットなのかの基本的な理屈がピンとこないことだ。イーガンが書きたかったそしてそのおもしろさを伝えたかったのは、当然その理屈なのだが、これが実感されないと作品の評価は微妙である。その点では『白熱光』の方がよりオーソドックスなSFとして楽しめるところが多かったといえる。
たとえば『重力の使命』以来の「今ある物理法則のエスカレート」SFは、文系読者にもそのイメージは感得できるが、イーガンの「直交宇宙」をイメージ化するには基本的な物理数学の教養が必要なことが分かる。ある意味究極のハードSFのそのハードさがエンターテインメントとして感得できない状況で、文系読者としては非常にフラストレーションがたまる。
ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』も文庫になったので読んでしまった。今回の主人公はシニカルなお笑いで成功したコメディアン(?)だが、基本的な意識の持ちようは、これまで読んだ作品の語り手と変わらない。いわくよいセックス/愛が人生で一番価値ある瞬間だ、ということであるが、今回はその主人公の行動自体を、2千年未来でネオヒューマンになった主人公のデータ上の子孫が記録として解釈しているという、まさにSFな設定がついている。
なおネオヒューマンはデータで存在していて、肉体にダウンロードされれば、ほぼ人間と見分けのつかないヒューマノイドとして現世で生活することができる。その場合、肉体とともにダウンロードされた意識が消滅すれば次の世代となる。
目次が第1部「ダニエル24の注釈」で、第2部が「ダニエル25の注釈」、第3部が「最後の注釈、エピローグ」となっているが、小説の本体は現代のダニエル1の物語であって、ネオヒューマンのお話はダニエル1のパートがとぎれるたびに数ページ挟まれるだけである。ただし、短い第3部では第2部の終わりでダニエル1がいなくなってしまったので、肉体で地上を放浪するネオヒューマン・ダニエルの物語がつづられている。
2千年後の旧人類はどうなっているかというと、よくある野蛮な原始人で、SFファンとしてはあまりに月並みなので、がっくりくる。まあ、ウエルベックの人間観からすると正面からのSF的考察なんてしたくないと思っているのかもしれない。ネオヒューマンたちも自分たちの不完全さは意識していて、自分たちよりも「未来人」が登場することを予感している。
小説の本体部分であるダニエル1の部分では、主人公は、意識のダウンロードで人間は不死になるというSFテクノロジーを基盤とした新宗教団体の幹部として招待され、教団を内部から観察している。結局ネオヒューマンを用意するのはこのテクノロジーがもととなるのだが、それはネオヒューマン・パートで回想されるのだ。いかにも文学者のSFで大江健三郎の作品を思わせる。
なんとなく既視感があるのは『素粒子』の未来人(人とはいえないが)を知っているからだろうが、SFの構成を取ったために、小説としては『プラットフォーム』や『地図と領土』に見られた切迫力はない。もろに未来図を描くにはウエルベックは不向きで、やはり『地図と領土』が図らずもSFの可能性を感じさせる代表作といえる。
帯をよく見ると「英国SF協会賞受賞」と謳ってあるガレス・L・パウエル『ガンメタル・ゴースト』。解説を読めば『反逆航路』と同時受賞ということではないか。たった1冠それも「英国SF協会賞受賞」程度では、7冠の後では宣伝にならんと思ったのかな。
どうも字で書いた漫画(いやゲーム)が、導入部でのシリアスな口調で語られる殺人事件とバランスが悪く、その最初のエピソードさえ我慢すれば、あとはエンターテインメントとしてお約束が展開するのだけれど、最初の躓きが印象を悪くしてしまって、ほめる気にならなかった。ところが巻末におまけとして収録された原型短編を読んで評価を見直した。ここからお猿のヒーロー「アクアク・マカーク」がスピン・オフしてこの長編に化け、なおかつヒットするとはねえ。
まあ、本体だけを見れば、SFとしては非常に安易なお約束が多すぎて鼻白んでしまうのだが、短編の苦さを知っていれば、まるでサイボーグ009のように加速装置でアクションする怪我人も許してしまう。この話のアホらしさは書き手も読み手も了解の上に成り立っているようだ。そもそも原題が“ACK-ACK MACAQUE”で、よほど原型短編が知られてなくては最初の読者がつかなかったろうと思われる。この作品自体はスチームパンクのヴァリエーションともいえるかな。
タニグチリュウイチがエラく誉めてたので読んでみたのが辻村七子『螺旋時空のラビリンス』(くどいタイトルだなあ)。集英社オレンジ文庫なんて知らないので奥さんに買ってきてもらった。
文体はラノベ調そのものなのでちょっとメゲるが、時間ループSFでオペラ『椿姫』を設定に用いたところはなかなか読ませる。昔だったら萩尾望都が漫画で描いていてもおかしくないと思わせる出来である。
まだ第1部なので先の展開に期待するしかない小川一水『天冥の標Ⅸ ヒトであるヒトとないヒトと PART1』は、やはり顔見せ的な総ざらえプロローグで、アクリラは帰ってくるわ、舞台がまだ広がってるわ、10巻と予告したうちのはや9巻でこれだけ広げられた風呂敷はどうなるのか、まさかpartがどんどん増えていくんではあるまいなと心配するくらいだ(いやそれはそれで嬉しいか?)。
歴史関係の文庫や新書を3冊読んだのだけれど、覚えていればまた来月。