続・サンタロガ・バリア (第160回) |
ベートーヴェンの交響曲が何か不思議な演奏のように聴けてしまう小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)による“GERMAN MASTERWORKS"から、今度はブラームスの交響曲第1番を聴いた。
あの重々しく悲劇的な響きから始まるハ短調交響曲、なのにやっぱり寝てしまう。まあ、夕食後に安楽椅子に沈み込んで聴くせいもあるのだろうが、それにしても変だ。ということで、ジョージ・セル/クリーヴランド交響楽団のCDを聴く。高校生の頃からの愛聴盤で、まったくハードボイルドなブラームスが鳴る。他にバーンスタインとケンペとフルヴェンのセットが手元にあるが、聴いた回数ではセルが1番多い。これは眠らずに最後まで聴ける(当たり前だ)。
小澤のCDはあまり持っていないのだけれど、昔はどうだったのかと、まずウィーン・フィルでリムスキー・コルサコフ『シェエラザード』を聴いてみた。93年の録音なのでSKOのベートーヴェン7番と同じ頃だ。ウィーン・フィルにとってもアンドレ・プレヴィンとのセッション以来20年ぶりの録音だったという。小澤はボストン交響楽団との録音もあるが、それは聴いたことがない。高校生の頃はイーゴリ・マルケヴィッチ/ロンドン響で何回も聴いた曲だけれど、この小澤/ウィーン・フィル盤は、発売当時に買って、1,2回聴いただけで棚に眠っていた。久しぶりに聴くウィーン・フィルの『シェエラザード』は、まさにウィーン・フィルにしか出せない豊麗な響きがする。しかし、それ故にやはり寝てしまうのだ。マルケヴィッチの俊足でスリムな演奏が耳にこびりつているのでこれは仕方ない。
ということで引っ張り出したのが、小澤が1972年にパリ管弦楽団を振ったストラヴィンスキー『火の鳥』全曲盤。若い頃に初めて聴いたときからわが最愛の『火の鳥』全曲盤だ。ちなみにイエスがライヴ盤『イエスソングス』の冒頭に使っていたのは小澤/ボストン響の演奏。で、聴いてみたら、“キターッ”のである。40年以上前の録音でオケの音自体は薄いのに、音が見え始める。音がどんどん広がって行き、特に奥行きが深くなり、見事な立体感を伴って音の像が眼前に立ち上がる。こうなるとスピーカーが消える。目に見えているのは後ろのカーテンだが、見ているものは音なのだ。前にも書いたことがあるけれど、この季節は大気の湿度が極端に低くなることがあって、この日も3週間以上雨が降らない状態で、湿度は40パーセントちょっと。こういう時にたまにアレがやってくる(オーディオはオカルトなのだよ)。聴き終わったときしばらくボーゼンとなる。そうかあ、今回はこういう経路だったのかあ、などと余韻に浸って、翌日また小澤/SKOを聴いたら、やっぱり寝てしまうのだった。何なんだろう。
田中啓文『イルカは笑う』が、「屍者の定食」を表題にするはずだったという話は知らなかったけれど、収録作のタイトルを眺めれば、妥当なところだ。12篇中再読が三分の一。収録作はどれも面白く読めるが、「血の汗流せ」にはさすがヘキエキする。「あの言葉」のようにオチの無い話があるのもビックリだ。SFマガジン掲載作だというのに昔の中間小説誌に載るタイプのSFを思い起こさせる。そして何より酉島伝法の解説が作者コメントとあいまって非常に楽しい。
円城塔『エピローグ』はのっけから大変面白く読めるし、全くダレないというか、ダレてても分からないくらいめまぐるしいエピソードがこれでもかと繰り出されて、何が書いてあるのか良く分からないが、最後まで楽しく読ませてもらった。山田正紀が言葉でSFをしているという意味で、円城塔は理屈でSFしているという印象。表面的にはラノベもかくやという軽やかさだが、見えない理屈がとことん支配しているという感触があって、図形問題だといわれりゃ、そうなのかと信じてしまいそうだ。シライシユウコの表紙もステキ。
翻訳物の長編がないので、中村融新訳のアーサー・C・クラーク『宇宙への序曲(新訳版)』を読んでしまう。昔読んでいたような気がしていたが、たぶん初読。
出だしの半ページが素晴らしい。クラークの描く軌道式ロケット発射台が見えてくる風景は詩情に富んでいて、たとえそこに描かれたものが“ガーンズバック連続体”となっていようとも描写の価値が減じることはない。現在の目で見れば、登場人物には深みがないし、男しか書けてないし、オーストラリアの抱えた人種問題には一切言及がないとか、ないものづくしだけれど、宇宙には行かない記録係としての歴史学者を視点人物にして、当時のまだ宇宙へ行くことに意味を見いださない人々に宇宙を目指す信念を披露して見せたというその一点で、この昔の未来は今でも読む価値がある。
池内紀・川本三郎・松田哲夫『アイロンのある風景 日本文学100年の名作 第9巻1994-2003』は、ほとんどが昭和20年以降に生まれた作家の作品だが、2点だけ戦前生まれの吉村昭・津村節子夫妻の作品をそれぞれ収録している。
松田哲夫が江國香織の作品解説で「この時代の「現実」の手ごたえのなさが、くっきりと際立ってくる」と評しているが、この巻あたりになると、たとえ吉村・津村夫妻のリアリズム作品であってもプロットが仕掛けとして意識されてしまい、いわゆる「現実」が失われたことがはっきりしている。この「現実」とは「人間(像)」であり、戦前の作家たちはどれほど幻想を書こうともまた私小説を書こうとも「現実」は現実であり、「人間」もまた現実であることを知っていた。
「現実」が失われるきっかけはやはり二度の大戦争だろうが、その後の60年代革命やバブル崩壊以降の急激なテクノロジカル・ランドスケープの変化、そしてグローバル経済の激化、混沌とした国際政治状況が「現実/人間」を滅ぼしたのだ。
16篇中9篇が女性作家の作品であることは、すでにそういう時代が来たということで、村田喜代子、川上弘美、吉本ばなな、山本文緒、小池真理子らの作品はどれも勁い文体を持っている。しかしひとつ気がつくのは、彼女らは辻原登、浅田次郎、重松清、村上春樹、堀江敏幸ら男性作家が必ず取り込むいわゆる社会状況(大状況)に強い関心を示さないことだ。これは編者たちのセレクションのもたらす偏向かもしれないが、吉村・津村夫妻も同様にそろいもそろってそういう風になっている。
表題作は村上春樹の作品だが、改めて感じるのは、文体が他の日本人作家のものとかけ離れていることだ。やはり一種の翻訳文体なのか、文章から生じる感情の発露がズレている。それは孤立した文体であり、表面的なフォロワーがいたとしてもそれは錯覚だろう。
この巻ではじめて気にくわない作品に出くわした。ひとつは林真理子「年賀状」で典型的な落とし話だが、そのために造られたキャラがあからさまなのでオチの気が抜けている。もう一つは浅田次郎「ラブ・レター」。これはあまりのあざとさに鼻白む。オースン・スコット・カードよりひどい。でもカードみたいな宗教的確信犯じゃないところはカワイイ。
降ってわいたようなタイミングで出たジョン・ヴァーリイ『汝、コンピューターの夢』は、ハヤカワ文庫SF『逆行の夏』と示し合わせたわけではないと大野万紀さんは云っているけれど、読む方にはそうはみえないよね。どちらにしてもヴァーリイ、それも八世界で、大野万紀単独訳というヴァーリイ万歳な一冊。
全て再読3読だけれど、30年も経てば、新作と一緒だ。新訳・改訳のおかげでアウト・オブ・デイトな言葉遣いが一掃されているし、リアルタイムでは悪戦苦闘しなければならなかった科学用語やSFタームの訳もスムースになっている。元の原文では古くなった言い回しも翻訳で救われている。ということは原文しか読めない英語国民が損をしているのか・・・。
ヴァーリイでさえ一種の“ガーンズバック連続体”には違いないけれども、2015年の地球の現状から見る古さがないのは、これが八世界(地球はアンタッチャブル)であることが大いに関係している。それと基本的にヤング・アダルトな感覚で物語が紡がれている(大野万紀文体がそれを強化している)ことも大きい。必ずしも大作家にはなれなかったヴァーリイだが、八世界は読み継がれるだけの魅力がある。人類が地球を(人類なんかに関知しない何者かによって)追い出された設定は円城塔も使っているけれど、八世界がその設定から生まれた最も素晴らしい成果であることは間違いない。集中一番好きなのは「鉢の底」かあ、イヤ恥ずかしいな。
Project Itoh の一環として遅めに出された大森望責任編集『書き下ろし日本SFコレクションNOVA+ 屍者たちの帝国』は、シェアード・ワールドを強調するだけあって、ハヤカワ版よりも元本の設定に沿った作品から成っている。一篇一篇に制限枚数を課したかどうか知らないけれど、8篇で340ページ足らずとコンパクトな短編集だ。
一つ一つは短いけれど、それぞれかなりのひねり具合で楽しませてくれる。藤井大洋と仁木稔がハヤカワ版にも作品を出しているが、両者ともハヤカワ版とは味わいの違う作品を寄せていて読む方は嬉しい。それにしても藤井大洋の筆力/量産ぶりは凄い。どれも読ませるし、大物だ。一方、仁木稔はエッジが立っていて素晴らしい。ハヤカワ版のも気に入っていたので、早くまとめた本を出して欲しい。高野史緒はファニッシュ・パワーで大暴走。書いてる本人も楽しそうだ。坂永雄一の作品は異色のクリストファー・ロビン系パスティーシュ、読んでてビックリする。
他に山田正紀、宮部みゆき、津原泰水、北原尚彦がそれぞれ「らしい」スタイルの作品を寄せている。山田正紀が漱石で、津原泰水が鷗外であそんでみせているけれど、山田正紀はスチームパンク・パロディで津原泰水は怪奇小説という違いがある。北原尚彦はワトソン直球勝負。宮部みゆきは異人伝説に流し込んでの1作。どちらも読みやすくて面白い。
ノンフィクションは、デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティ-ズ 1950年代アメリカの光と影』1~3のみ。
この本は昔から気にはなっていたけれど読む機会が無く、文庫で出たので読んでみた。最終巻に掲載の訳者あとがきを読んで、これが東江一紀が手がけるはずだった新訳版と知り、ちょっと驚いた。
総ページ数1100ページに第1項「ルーズヴェルトからトルーマンへ」から第46項「60年代の危機へ」が詰め込まれていて1篇は25ページ前後。全編どれもこれも面白い話題と書きっぷりなので、もうちょっと各エピソードの続き読ませてくれと言いたくなる。副題は「1950年代アメリカの光と影だけれど、圧倒的に「影」の方が多いし、面白い。
この本を読んでいると、60年代前半に白黒テレビからカラーテレビに替わるころに日本で放映され、子供だった自分が熱心に見ていたアメリカのホームコメディが、大戦戦勝国アメリカに出現した女性に対する保守方向への急激な変化を反映したものであることがよくわかる。50年代アメリカはアイゼンハワーの共和党が支配する時代であり、マッカーシズムと呼ばれたアカ狩りが、ソ連の現実とかけ離れたアメリカ国内の政治闘争ヒステリーだったことも教えてくれる。
一方、アメリカの高度成長を支えた大衆消費時代に対応した起業家たちは、大学出のインテリではなくまさにアメリカンドリームを体現した連中だったことも見せてくれるし、アメリカ南部での黒人の抵抗と人権確立への動きが、当時急激に発達したテレビ・ジャーナリズムと切り離せない現象であったことも分からせてくれる。
たった1人のジャーナリストの書き物として、これは驚くべき守備範囲の広さとまともな正義感を誇る作品だ。しかしそれでもカバーし足りないことはあるわけで、そこら辺は越智道雄と町田智浩が解説対談(政治漫談)でフォローしている(ニクソン大好きな越智道雄が面白い)。
50年代から60年代のアメリカSFを考える(たとえばポール&コーンブルース『宇宙商人』の時代背景とか)上でも有効だし、読み物としては最上の1品といえる。