続・サンタロガ・バリア (第156回) |
一昨年のSF大会「こいこん」でご縁が出来た宮本英雄氏のお誘いに乗って、「イマジニアンの会」に顔を出してみた。
SFマガジンを読み出したのが、1972年からだったので、瀬戸内海SF同好会や会誌『イマジニア』のことはバックナンバーを読み出してから知ったのだけれど、高校生にとっては昔の話みたいなものだった。ただ、バックナンバーで読んだ渡辺晋さんの記事は印象に残っていた。
「こいこん」がきっかけで復刊された『イマジニア』8号は、1970年の7号から号数を引き継いでいて、渡辺さんは、以前『本の雑誌』でミステリ情報を担当された穂井楕直美さんとともに編集人に名を連ねておられる。発行者天瀬裕康は渡辺さんのペンネームである。先月発売のSFマガジン読者欄には『イマジニア』9号の広告が掲載されているけれど、そこでは宮本さんが代表となっていて、渡辺さんから復刊『イマジニア』を引き継いで発行していくことになった。
広島市の繁華街近くにある、いわゆる公民館のフリースペースで隔月で開かれている「イマジニアンの会」は、行ってみると、参加者は自分を含め6名。初対面の渡辺さんには天瀬裕康名義の名刺をいただき恐縮する。中学生時代に瀬戸内海SF同好会に入っていたという穂井田さんやその友人の女性そして宮本さんは自分とほぼ同世代、「こいこん」でプロジェクト・マッピングを担当したというもうひとりの女性はだいぶ年若く、ご高齢の渡辺さんと差し引きで平均年齢はやはり60歳前後ということになる。『イマジニア』復刊号に寄せられた巽孝之氏の祝辞に「全日本中高年SFターミナル」を立ち上げる話があるけれど、宜なるかなではある。
渡辺さんは「こめこん」での企画や「イマジニアンの会」の会則、会で発刊予定の書籍の話などをされてから退席。あとは穂井田さんを中心にダベリング。それは昔のSFファンの集まり的なものにちょっと新情報が混じるユルーい感じ、要はアレですね。
久しぶりにタワーレコードを覗いたら、なんとカエターノ・ヴェローゾの見たことない1000円盤が2枚ある。さっそく買って帰ったが、昨年のワールドカップ・ブラジル大会に合わせて出したシリーズの第3弾がこの6月に出たらしい。レコード会社が追加発売を納得するほどの売れ行きがあったということなのかな。
今回発売されたのは『トロピカリア』68年と『アラサー・アズール』72年。これまで聴いた19枚への追加としてはちょうど良い年代のアルバムという感じだったけれど、実際聴いてビックリ。『トロピカリア』は、カエターノのアルバムと云うよりは、ビートルズの『サージャント・ペッパーズ・・・』に範をとったオムニバス・アルバムに近いし、『アラサー・アズール』は普通の歌曲もあるが、大半は声と言葉の実験的な作品である。
『トロピカリア』はカエターノがソロが2曲しかなく、ジルベルト・ジルやガル・コスタ、ポップ・バンドのムタンチスがメインをとる曲が複数入っており、ナラ・レオンが「リンドネイア」を歌っている。『サージャント・ペッパーズ・・・』を思わせるのは、アレンジのスタイルがかなりよく似ているからだけれど、歌詞の方は政治的な異議申し立ての意味合いが強く、後にジルとカエターノが警察に逮捕され、イギリスへ亡命するきっかけとなったと云われているが、アルバムとしては大変面白い出来で、聴いていて楽しい。
政治的な異議申し立てという意味では、ボーナス・トラックとして入っている「エ・プロビード・プロイビール(禁止することを禁止する)」というシングルや、この曲を歌ったソング・コンテスト・フェスティバルのライヴでカエターノが審査員と聴衆をやじった演説が強烈で、めちゃくちゃカッコいい。軍政国家では、まあ、逮捕されても仕方ないエキサイトぶりだ。
一方、ロンドンから帰国しての『アラサー・アズール(青い果実)』は、具体詩という文字と音声を素材化して効果を発生させるような実験や、知られてはいても長い間録音されずに来た芸能的音楽を取り入れたり、ポップス・ファン相手には時期尚早な作品が並んでいる。解説によると全く売れなかったそうだが、さもありなんである。ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・・・」をもじった「シュガー・ケーン・フィールズ・フォーエバー」なんてタイトルもあって、この頃のカエターノに与えたビートルズ(ジョン)の影響がとても大きいことが分かる。
この時代のビートルズの影響を見事に消化して歌い手として披露して見せたのが、75年の『クァルクェル・コイザ』 に収録された3曲のビートルズのカヴァーなのだった。
なんとなく手を出すのを控えていた機本伸司『未来恐慌』は、小松左京の逝去をきっかけに書かれた物語と云うことでちょっと期待したのだけれど、大きな構想をコントロールしかねている感が強い1作だった。主役の男女はいつもの調子でそれはそれでたのしいのだけれど。
オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』はハヤカワSFシリーズ・Jコレクションの1冊。連作中編集の第1作「エコーの中でもう一度」は再読。よくできた設定とキャラづくりで再読でも面白い。
受験生だった頃、まだ出来て間もない九州芸術工科大学(いまはどっかに吸収されて存在しない)の音響設計というのを(数学が0点なので)趣味で受験したことがある。スペアナと実際の聴覚、良い音響とは何かとか、要はステレオ好きだっただけなのだが、この連作集を読んでいるとそのころのこと、たとえば同宿の受験生のオヤジがリヒテルの調律師で、本人はアルバイトでバキュームカーのタンク清掃をやっていて、高給だが毎回温泉に行かないと臭いが取れないので大変なんだ、などという話を思い出す。
どの1篇もよく出来ているが、表題作はスケールが大きけれどやや作りすぎかも。
一部で人気のジーン・ウルフは、今度はアメリカ本国での第2短編集である『ジーン・ウルフの記念日の本』が出た。関係ないけど、添付の「未来の文学」10周年記念リーフレットが結構ステキ。
作者前書き及び解説では、18篇もの短編を一気読みせず、ぽつぽつ読むのがお勧めみたいに書いてあったけれど、どうしても2、3篇ずつは読んでしまうよねえ。
SFかどうかとか、面白いかどうかとか、ウルフのことなのであんまり読んでる自分が信用できない。集中一番長い「労働者の日 フォーレセン」は典型的「不条理な仕事場」小説で、日本でなら筒井康隆から北野勇作まで誰かが書いていても不思議はないような作品だ。ただし文系SF的な凝りようはウルフっぽい。レイバー・デイに対応させたと云うことはワールド・コンと引っ掛けたのかな。
中村融編『街角の書店 18の奇妙な物語』は、中村融がこれだけは世に紹介せずにはいられないといういくつかの作品を入れたいわゆる奇妙な味のする短編のアンソロジイ。18篇もあると云うことは1篇が短いと云うことでもある。
よく出来た古い短編というのは初読なのに、どこかで読んだような気にさせるものだ。本当に再読なのは、カート・クラーク「ナックルズ」とかハリー・ハリスン「大瀑布」ほか数編なのに、なぜか読んだあとではどれもが以前読んだことがあるかもという気にさせる。それが今回初訳の作品でさえ。
ウィルヘルム「遭遇」のSF的解釈って、何だったら一番スッキリするんだろう。
買う気は無かったのになぜか買ってしまったジェニファー・アルビン『時を紡ぐ少女』。積ん読にしときゃ良かったのに、なぜか手を出して読み始めてしまった。設定が飲み込めた時点で、放り投げても良かったのに最後まで読んでしまった。どうして女の書く都合のいい物語って男が読むと気持ちが悪いのだろう。
グレッグ・イーガン『ゼンデギ』は、読み始めてビックリのイスラム・イラン近未来もの。プロローグの主人公のレコードの趣味に思わず笑ってしまう。二度と金を出す気にならないディーヴォとレジデンツ、高尚なエルヴィス・コステロとザ・スミスって、わかるけど、笑える。
と、まあ、訳者解説にもあるようにイーガンらしからぬ笑いの先制パンチに面くらい、オーダシティという録音加工フリーソフトは確かに6年前自分も使ったことがあったので、思わず頬が緩み、自分の場合は雑音除去加工だったけれど、結局失敗したことを思い出した。
オーダシティの録音レベル調整が最初の数枚録音するときにOKだったからといって、残りを自動調整に任せると、あとになって再生音がひずんでいることに気づくことがある。これが冒頭に出てくる主人公のささやかな失敗で、いわゆるカッティング・レベルの違い(レコード制作側の音圧設定の違い)から生じるレコード時代からよくある失敗だけれど、要は機械任せは危ないよと云うことだ。
残念ながら、楽しかったのはそこまでで、設定のために要請された父と子の物語、「ゼンデギ」というゲーム、テクノロジーの近未来の可能性とその限界はかならずしも楽しいい話ではなかった。特に普通の小説ならメインのエピソードであるべき父と子の物語が、SFとしての設定のためにあからさまなメロドラマを要請されていて、近未来のイランというエキゾチックでかつ政治的な重要性をも加味された舞台にあっても、そのわざとらしさを消すことが出来ないのだ。
一種の人格トレース技術を扱うイラン女性のパートはイーガンらしくて小難しい技術論が出てくるけれど、いままでのウルトラハードなSF設定とは違ってなんとなく分かる気がするところがミソ。
前回積み残したノンフィクションから2冊。
前間孝則『悲劇の発動機「誉」 天才設計者・中川良一の苦闘』草思社文庫は、2007年の親本から初文庫化。前間さんのノンフィクションはたいてい厚いが、これは550ページで1冊に収まっている。宮崎アニメのおかげで零戦設計者に注目が集まっていたけれど、堀越二郎は大財閥三菱グループの飛行機デザイナーで、こちらの主人公は一代の成り上がり中島知久平率いる航空機製造専門会社中島飛行機のエンジンデザイナー。零戦は千馬力タイプの艦載戦闘機の傑作といわれたが、搭載エンジンは中島の「栄」発動機である。零戦はその性能を発揮するためコンパクトになりすぎていて、二千馬力タイプの「誉」発動機を載せることができない。そこで新たにデザインされたのが紫電であり、改良型が紫電改ですね。
創刊号から読んでいた少年キング掲載『0戦はやと』も同時期の少年マガジン連載『紫電改のタカ』ももうすっかり忘れたけれど、この本が抵抗なく読めてしまうのにはその頃の記憶が少しは影響しているのかもしれない。
前間さんは、自身技術系社員だったこともあり、以前からモノづくりニッポン万歳ムードに対して警鐘を鳴らしてきた。ここでも「誉」がいかに世界水準の先を行った設計になっていたかを明らかにしながら、それを支えきれない日本型システム、それは指導的立場の軍部(最上級意志決定者)のご都合主義とそれに振り回されても諾々と従う企業と個人そして常に希望的観測を現実と取り違える奇妙な思考などからなっていることを強烈に訴えている。
でも、スティングも『ナッシング・ライク・ザ・サン』で歌っていたように、われわれは歴史から何も学ばない可能性の方が高いようだ。
江戸時代と云えば侍と町人が主役の小説ばかりのようだけれど、土台となる下部構造は当然、村とそこに住む人々が支えたわけで、岩波新書シリーズ日本近世史②『村 百姓たちの近世』はそういう観点から興味深い1冊である。
最初に村とは土地利用的な意味でどういうで構造をしているかが示され、そこから現実に存在した村の記録から村の成り立ちを見てみたり、自治社会と云われた村と領主(侍)との関係はどうだったかとか、いろいろ示してくれるが、一番面白かったのは、近世農村が達成したいわゆる資源循環的クローズドシステムは江戸時代後半までに破綻してしまい、そこから大規模開発が行われ広大な湖沼埋め立てや原野山地の新開地化が進み、農民の階層分解を極限化しながら幕末に向かうという話。地元の豪農の歴史を見てもそういう感じがするなあ。
『本の雑誌』ででかでかと取り上げられたいたのを6月に行った京都への団体旅行で思い出し、京都で買い求めたのが、一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』。だったけれど、艦コレ世代向けにつくったようだが、何とも情けない1冊だった。
その点、川田稔『昭和陸軍全史3 太平洋戦争』講談社新書は博引旁証による仮説が次々と出てきて読んでいて非常に面白い。コレを読むと日中戦争から太平洋戦争初期にかけて陸軍の戦争体制思想の権化みたいな武藤章・田中新一という天敵コンビが、ともに対米戦を深く悩んでいて、時期を逃せば戦争自体が出来なくなるので戦争だという田中と、でもやっぱり対米戦争は最後の最後まで伸ばしたいという武藤の対立がなかなかスリリング。
いやあ武藤章は悩めるヒトだったんだなあ。しかし、この本の論点の主眼は、英国の絶対的防衛を念頭に置くアメリカと東南アジアの英国植民地の資源をなんとしても盗りたい日本の思惑が重なり合うところで、東南アジアの英国領の資源の保護は対ドイツ戦に於ける英国崩壊を防ぐ意味で最重要として、それまで日独両面戦争を引き延ばしてきた米国が一気に戦争を決意してしまったところに太平洋戦争の根本原因を見たことにある。
すなわち日中戦争はアメリカにとって日本と戦争を決意するほどの重要性はなかった、ということだ。これは武藤らが南方進出が戦時体制を整える上で絶対必要だと考えながらも、中国大陸での日本の行動が直接アメリカとの戦争には結びつかないと考えていたことは状況判断としては正しかった。また英独戦とそれに続く独ソ戦が、それまでアメリカが英国にどれだけ肩入れするかに頭を悩ませてきた武藤らを追い詰めたともいえる。
そして何ともいえないのが、東条陸軍大臣と及川海軍大臣の会談で、東郷に「(アメリカに)勝利の自信はあるか」と問われ、及川が「それはない」と答えたというエピソードが紹介されているが、東条内閣の海軍大臣なった島田繁太郎は次官以下の幹部連中の反対を押し切って「開戦やむを得ず」と言ってしまったことである。東条は東条でアメリカ側の中国大陸撤兵要求は断固拒否ということで、結局海軍お墨付きで戦争を断行する。
しかし、この本の示す米英とソ連とドイツそして日本の関係の大枠からして、太平洋戦争は起こらざるを得なかったといえる。それはドイツの傲慢であり、日本の傲慢であり、イギリスの傲慢と判断ミスであり、ソ連とアメリカの支配者意識から生じた結果のように感じられる。
ところでこの本のタイトルが『昭和陸軍全史』となっているのは今でも納得しがたい。中央機構の動きを詳細に研究したとはいえ軍隊の行動史を抜きにした軍全史というのはどうなんだろう。