内 輪   第297回

大野万紀


 梅雨入り宣言が出されると、それからしばらくいい天気が続くのはよくあることですが、今年もそうなのでしょうか。

 文藝別冊『諸星大二郎 マッドメンの世界』を楽しく読んでいます。ぼくが『マッドメン』に衝撃を受けたのは、七〇年代後半、ちょうどアボリジニのドリームタイムを描いた映画『ザ・ラスト・ウェーブ』が大阪でひっそりと上映されたころで、安田均さんやKSFAのみんなと見に行った記憶があります。
 アボリジニのドリームタイムといえば、ちょうどそのころル・グィンをはじめ、ビショップとか、ルポフとか、海外SFでもテーマとして取り上げられることが多くて、ちょっとしたブームになっていたと思います。それらと『マッドメン』のパプア・ニューギニアの精霊世界が呼応し、不思議な感覚を覚えたものです。民博のチケットを買って入り浸ったのもその頃でした。
 このことをツイートしたら、大森望さんから「帰りに紅茶専門店かなんかに入りませんでしたっけ」とリプライ。さらにお久しぶりの安田均さんからは「『ザ・ラスト・ウエーブ』。あれは僕にとってよくできたホラー映画でした。けっこう雨男なもんで」と。みんな40年近く前のことなのに、よく覚えていますね。安田さんからは「『アルケリンガの魔海』はそうしたイメージもあります。お暇なときにでもよろしく」との言葉もいただきました。ここでも宣伝しておきますので、どうぞよろしく。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『アンダーグラウンド・マーケット』 藤井太洋 朝日新聞出版
 2012年に「小説トリッパー」に初出、2013年(本書の第一部)と2014年(本書の第二部)に電子書籍として出たものを加筆修正して単行本化したもの。
 舞台はほんの3年先、東京オリンピックを2年後にひかえた2018年の東京。移民社会、仮想通貨、マイナンバー、消費増税、表と裏に二分化された社会と経済、それにカプセルホテル的な集合住宅と、自転車で走りまわる東京。あと、自転車で走っているときにスマホを見てはいけませんという話でもある。3年後に1千万人の移民を受け入れる東京が実現するか、というところはかなり無理な気もするのだけれど、情勢が急変すればあり得るのかも知れない。何しろ空気で動く国だから。
 第一部「ヒストリアン・ケース」は(実際は後から書かれたのだが)、この時代の紹介が中心で、仮想通貨N円の仕組みや移民社会、表社会から落ちこぼれた若者たちのキャラクター紹介といった、わかりやすい導入編となっている。緊迫する場面はあるが、基本的にはさわやかでリアルな近未来青春小説だ。
 そして第二部「アービトレーター」が本書のキモであり、仮想通貨のマーケットと、表社会との闘争を描く、IT・経済・サスペンス小説となっている。作者の他の作品と同じく、本書もIT業界に関わる若者たちが主人公であり、その描写はとてもリアルで、ぼくは実際に仕事で関わったA君やB君の顔を思い浮かべながら読んだ。何せ3年後の話なので、やっていることは今と大差ない。今年はちょうどマイナンバーの立ち上げにあたり、その意味でも興味深く読める。
 もっとも、本書の主人公、木谷巧にしろ、鍵田大樹にしろ、森谷恵にしろ(森谷はちょっと違う側面もあるが)、企業に就職せずにフリービーとして裏経済にたよる零細なIT技術者であり、商店や小企業を相手に小さな商売をしているエンジニアである。決してコンピュータ・ウィザードやすごい天才というわけではない。どこかで書かれていた「IT土方のためのプロレタリアSF」というのがすごく合っているとはいえ、ちょっと違う気もする。主人公たち3人の若者は、確かに金はなく地位もないプロレタリアートかも知れないが、彼らは人月で雇われてこき使われるような存在ではなく、自立して顧客と直接対話できる人間であり、もっと肯定的で、前向きだ。彼らには明るい未来があるように思う。
 本書でもっとも特徴的なのは、この前向きさだ。普通ならディストピア的に描かれるだろうこの社会と生活を、むしろその先の未来へとつづく過渡期の姿として、肯定し、その可能性に期待している。変化と未来への展望。それが主人公たち3人の姿と重なって、本書に青春の輝きを与えているのだろう。

『ビッグデータ・コネクト』 藤井太洋 文春文庫
 『アンダーグラウンド・マーケット』とあまり変わらない時代の、ということはほんの数年先のほぼ現代を描いた小説だが、あちらがSFといっても問題なかったのに比べ、こちらにはSF要素が少ない。というのも、例えば1千万人の移民というような大きなレベルの社会的変化がなく(あるのかも知れないが、描かれてはいない)、背景が今からほとんどそのまま延長されたような感じに描かれているからだ。
 犯罪小説であり、警察小説である。そして、何より違うのは、ここにあるのは暗い怒りであって、未来や技術への前向きな肯定がほとんど見られない。これまでの作者の作品に比べると、とてもきつい、読むのがつらい小説である。
 大きなテーマとしては、タイトルのとおり、様々な種類のビッグデータ(マイナンバーによる信頼性の高い個人情報、監視カメラデータの顔認証、互いに提携しあうポイントカード、入退室管理やPOSレジなどによる個人の行動情報などなど)が、互いにコネクトし、紐付けあうことによる、陳腐ないい方かも知れないが〈超監視社会〉である。
 だが、監視する主体は誰か。本書では警察などの国家機関が主に示唆されているが、個人であってもかまわないのだ。ネットの野次馬や、本書の主要人物である、冤罪で汚名をきせられたハッカーの武岱(ぶだい)のような。だから権力対民衆のような単純な二項対立にはならず、互いに互いを監視しあう(それもほとんど目的もなく)息苦しい状況が立ち現れる。しかし、これまでの作者なら、そんな環境すら、そこから未来へ向かう変革の、肯定的な要素を抜き出してくれたかも知れない。それがほとんど見られないのは、作者の目が、このテーマとは直接は関係のない、現代日本のIT業界の底部に向けられているからだ。
 IT開発現場の底辺にある、ブラックで人をすりつぶしていくような現実。この業界に関わった人なら、きっと目にしたり、あるいは直接体験したようなことが、ここには書かれている。会社名にしろほとんど実名だったり少しだけ変えていたりするものが出てきて、どきっとする。またよく知られた事件がそのままモデルになっているようなところもある。もちろん、事実ばかりが書かれているわけではなく、誇張も多い。でもその誇張は、地磁気の強さの桁を変えるといった類のものではなく、まあそんなこともあるかも、というレベルである。リアリティを損なうものではない。
 本書はもちろん警察小説であり、プロジェクトリーダーの誘拐事件という犯罪の謎を追うミステリである。しかし、正直なところ、ミステリとしては一本調子で、驚愕のどんでん返しということもなく、落ち着くところへ落ち着く。まあ安心して読めるともいえる。ただ結末に至る部分には、ちょっと厳密さに欠けるところがあるように思えて、リアリティを損ねているように感じた。それから、作者本人を彷彿とさせる白髪の小山さんには、もっと活躍してほしかった。

『紙の動物園』 ケン・リュウ 新ハヤカワSFシリーズ
 古沢嘉通訳・編による日本オリジナルのケン・リュウ短編集。15編が収録されている。
 評判通りの傑作短篇集である。同じ中国系のテッド・チャンと比較されることも多いが、理知のチャンに対して情感のリュウというところか。とにかく心にぐっとくるような、情感にあふれる作品が多く、読み応えがある。純粋なSFから幻想小説までテーマも幅広い。
 本書には大きく3種類の作品があるように思える。
 ひとつは表題作のように、東アジアの文化的伝統に根付いた、人と人の関係や心情をストレートに細やかに描いたファンタジーよりの作品。ややステレオタイプな感じもするが、そこには強く心を打つ感動がある。大傑作である「良い狩りを」もこのタイプの作品だ。
 もうひとつは「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」や「波」のような、はるか未来へと続く純粋SFとでもいうべき作品群。SF好きの心をわしづかみにするあの感覚に満ちている。どのように変容しようとも、その未来には希望のビジョンがあり、心が熱くなる。
 それからチャンやイーガンのテーマにもつながる、コンピューター・サイエンスをベースにして心や意識の問題を扱う「1ビットのエラー」や「愛のアルゴリズム」のような作品がある。科学的ディテールはあまり気にしていないようだが、そのぶんわかりやすく衝撃的だ。
 最後にこれらに通底して、現実の歴史とその重みが深く複雑な思いを呼び起こす。とりわけ「文字占い師」や「月」のような作品では、より直裁にファンタジーと現実の界面を描いている。だがそれは過去の糾弾というより、世界の日常がそれに重畳しているのを忘れないようにということなのだろう。
 彼の作品には、個人の心情により深くよりそった情緒的な作品が多いように思える。そのあたりは現代のひたすらエッジのきいたSFとは逆のベクトルを持っているともいえるが、読みやすくて表現力が豊かなので、ジャンルを超えた広い訴求力があるように感じた。現実世界への視線は、むしろ「第六ポンプ」のバチガルピに近いかも知れない。だが彼の場合は怒りよりも、諦観の方が勝っているような気がする。
 以下、特に印象に残った作品について。
 ヒューゴー賞とネビュラ賞、それに世界幻想文学大賞の三冠に輝く表題作「紙の動物園」は、魔法の折り紙を折ってくれた中国人の母に、アンビバレンツな感情を抱いていたぼくが、ふたたびその真実を知るという、まさに泣かせる話なのだが、そのポイントは折り紙の動物に人の心や共感を見ることができるか、という点にあるように思う。最後の長い手紙にあるような現実的で重い背景ももちろん重要だが、そこが伝統的・魔法的・東洋的な世界と、現代的・合理的・西欧的な世界との界面になっているのだ。
 「月へ」は亡命申請者の政治的背景とその受け入れを巡る話で、現実のできごとと言葉で定義されるもの(ルール/論理)との乖離が重くのしかかる。SF/ファンタジー的要素は少ないが、西遊記がひとつの背景となっている。
 「太平洋横断海底トンネル小史」は本書にもいくつか含まれている改変歴史ものの一編だが、リアルな改変歴史というより、スチームパンクに近く、寓話的な要素が強い。リアルで重い背景もあるが、それは現実の世界でも同じなので、ここは戦前の空想科学小説を読むように現代の倫理観を少し横に置いて読むのがいいだろう。
 「潮汐」はショート・ショート。訳者は「バカSF」と呼んでいるが、なかなかどうして、ストレートな奇想である。迫り来る海を前にした情景が美しく、市川春子の短篇SFマンガを見るような味わいがある。
 「選抜宇宙種族の本づくり習性」は、ボルヘスやカルビーノを思わすといいたくなるような博物誌で、様々な宇宙種族の「本」というものへの執着・態度が、ユーモラスに描かれている。ずいぶん知的な作品であるが(訳者はテッド・チャン「息吹」の雰囲気を感じたと書いている。ぼくは円城塔を思い起こした)、本好きにとってはこれも情緒的に心を揺さぶる物語であり、とりわけ最後の一文にはぐっとくるだろう。
 「心智五行」は宇宙SF。遭難した女性宇宙飛行士がAIと共に降り立ったのは、ずっと昔に植民され、技術文明を失った惑星だった、というよくあるパターンのSFだが、彼女と、東洋的な知恵を残す住民との異文化コミュニケーションを描くと見せかけて、何とこれは腸内細菌SFだった。それがなければ、本当に古風な懐かしいタイプのSFだといえる。
 「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」は、うって変わってまさに現代のSFであり、シンギュラリティ後の世界を美しく情感豊かに描いた傑作である。次元も超越したデジタルな存在である少女が、シンギュラリティ以前の〈古代人〉である三次元のママと、リアルワールドな地球を体験する。この世界における親子関係(それは情報の継承という意味なのだが)の実体や、時間操作のあり方など、例えばイーガンに比べればずいぶんと軽い調子で描かれているのだが、そのぶんわかりやすく、頭にすんなりと入ってくる。とにかくそのビジョンの美しさ、明るさが読んでいて嬉しくなるSFファン好みの傑作だ。
 「円弧(アーク)」は未来技術による不老不死をテーマに、人生や時間について、親から子、孫への連続性について考えさせられる。苦みはあるが、結末は明るい。
 「波」はその姉妹編で、恒星間飛行中の宇宙船に地球からこの不死の技術が伝えられ、それまでの計画が大きく変更されることになる。物語は様々な創世神話を語りつつ、遙かな未来へ、宇宙の彼方へと人類が変貌し、広がっていく様子を描く。手塚治虫の「火の鳥」もそうだが、こういうロマンティシズム溢れる未来感には、本当にSF好きの心をわしづかみにするものがある。あえて言おう、センス・オブ・ワンダー! と。
 「1ビットのエラー」はまた地上に話が戻り、コンピューター科学をもとに、人間の意識や心の機械性が語られる。これはチャンの「地獄とは神の不在なり」にインスパイアされたと作者自身が語っている作品で、人間の神秘体験や人生を動かすような大きな感動が、いわば1ビットのエラーから生じることをテーマとしているが、科学的ディテールよりも、登場人物たちの人間関係に話のポイントがあるといっていいだろう。エラーだろうが何だろうが、そこから発する行動に、人として共感するかどうかが問題である。
 「文字占い師」は本書で最も重い、社会的・政治的テーマを扱った作品。戦後まもなくの台湾が舞台だが、アメリカ軍と中国共産党、台湾の本省人と外省人、さらには教室の中のいじめっ子といじめられっ子まで、様々な対立関係が重層的に描かれつつ、少女のごく何気ない一言から陰惨な悲劇が起こる。文字占いという要素が、それら全てを超越する幻想的な視点を与えてはいるのだが、読後感は重い。伊藤計劃ならどう描いただろうということも考えた。途中に出てくる引用文がやたらと長いのは、歴史を忘れるなと言いたかったのだろうか。
 そして巻末の「良い狩りを」。多くの読者が言うとおり、これが素晴らしい。「聊斎志異」か諸星大二郎のような中国怪異譚として始まり、いつの間にかスチームパンクな改変歴史へとさまよい込み、そして生命力とスピード感に溢れる、目くるめくような結末へと展開していく。姿を変えながらも未来へと生き抜いていく、生き生きとした妖狐のかっこよさ。それを支える主人公も、その目はずっと未来を見ている。「良い狩りを」という挨拶が実にステキだ。

『幸せスイッチ』 小林泰三 光文社文庫
 読者の神経を逆なでするような、もうやめろと叫びたくなるような、しかし肉体的というより精神的にグロい、そんなおぞましい「春子」さんたち(同じ人物ではない)の登場する(最後の1編は違う)6編が収録されている。
 登場人物はたいがい壊れていて、非常識で、0か1かで独善的、バランス感覚がおかしく、とにかくしつこく、ひたすらイヤなのだが、そういう人物がホラー小説の中だけでなく、現実にも存在することを、ネット時代のわれわれは知ってしまった。そのことが本書のおぞましさをいや増しているのだ。
 冒頭の「怨霊」と巻末の「哲学的ゾンビもしくはある青年の物語」の2編は少し違うが、「勝ち組人生」の金銭に異常に固執する春子、「どっちが大事」の極端な決断を迫る春子、「診断」の独りよがりな判断に囚われる春子、「幸せスイッチ」の自分が感じさえしなければ悲惨な現実は存在しないとする春子、彼女たちに影響されるその周囲の人たちも含めて、みなマニアックで、怪物的である。壊れたプログラムで機械的に反応しているだけの、人間的な意識に欠ける存在、つまり哲学的ゾンビなのかも知れない。
 「哲学的ゾンビもしくはある青年の物語」はずばりそれがテーマになっていて、春子は出てこず、主人公のまわりで世界そのものが壊れていくような話だが、それは自意識、他人、共感、コミュニケーションといった現代SFの最先端が追求しているテーマそのものである。
 しかし、そんなおぞましい作品群の中で、唯一ほっとさせてくれるのが冒頭の「怨霊」だ。これはめちゃくちゃぶっとんだ超限探偵Σの登場するシリーズの一編であり、「春子」さんたちに対抗できるのはまさに超限探偵のような人物だけだといえるのだ。オカルトっぽいストーカーに追われる春子さんに対し、探偵のとった対抗策は……いやもうこの結末は何というか、バカSF、バカホラー、そんなものを飛び越して、おとぎ話の領域に達している。傑作。

『深海大戦 漸深層編』 藤崎慎吾 角川書店
 2年前に出た『深海大戦』の続編。何とまだ完結していない。三部作になるのか、それとも、もっと続くのか。
 ぼくは昔から海上生活する人々の話が好きだった。ロマンと自由そうな雰囲気がいいというだけの、単純な理由だけれど。海じゃなくてもいいのだが、山の中は閉塞感があるので、広い海の方がより自由気ままな気がするというだけのこと。昔の海洋アクションSF映画(タイトル忘れた)から、ゲームでは「クロノクロス」、アニメはいっぱいあるし、最近の小説では上田早夕里がどんぴしゃ。
 本書も、シー・ノーマッドという海洋民の集団が主役で、これがとても魅力的。もちろん海洋ロボット(機械的というより生物的だが)による海中戦闘も迫力あって、とてもいい。ただ、前巻でも思ったが、そういうリアリティを感じさせる近未来SFと、妖精や神話的な存在が普通に出てくる(もちろんSF的な説明はあるものの)部分が、すごくミスマッチ感覚があるのも事実だ。
 アニメ化企画があるということだが、アニメで見れば納得かも知れない。しかし、続編はいつ出るのだろうか。

『波の手紙が響くとき』 オキシタケヒコ ハヤカワSFシリーズJコレクション
 SFマガジンに掲載された3編と、書き下ろしの長い中編1編を加えた連作長編である。それぞれは独立した短編・中編として読めるが、表題作である最後の書き下ろし中編に収束する形で緊密な関連があるので、ひとつの長編としても読める。
 小さい頃の事故で声変わりしないまま成長した、所長の佐敷裕一郎、彼の幼なじみで、口を開けば罵詈雑言の飛び出す音響技師の武藤富士伸(フジ)、その二人にこきつかわれる新人で雑用係(時には現場仕事もする)の鏑島カリン。たった3人だけでやっている零細企業の武佐音響研究所に、音に関わるミステリアスな仕事が舞い込んでくる。
 失踪したミュージシャンとの通話記録から居場所をさぐる「エコーの中でもう一度」、深夜の寝室で、何もない空間に人の呟くような声が響くという「亡霊と天使のビート」、その音を聞く人をなぜか水へと誘う「サイレンの呪文」、そして音楽によって感染する奇病と、これまでの登場人物たち、そして宇宙や生命の進化までがそこに集約する「波の手紙が響くとき」。
 登場人物たちはみな魅力的ないい人ばかりだが、中でも本書の実質的な主人公というべき、すべての焦点にある魔女、トラブルメーカーのミュージシャン日々木塚響がいい。破天荒で天才肌、周囲を振り回すが憎めない可愛らしさのあるキャラクターである。
 SFマガジン掲載時にも注目していたが、連作長編となってさらに読み応えが増した。音響SFである。音響工学と医学を背景に、音というものがいかに人の心に関わり、波紋を広げ、共鳴していくかを描いている。ごく日常的なところから始まり、壮大なSFへと広がっていく。
 最初の3編は音響ミステリで最後が本格SFだという意見が多いが、いやいや最初からはっきりとサイエンス・フィクションであり、すなわちSFである。扱っているのが量子力学とか宇宙論とかではなく、ごく身近な技術なので、SF味が薄く感じるのかも知れない。
 最終話のSF的広がりは壮大だが、本書で描かれるのはあくまでも等身大の人と人とのつながりである。一人一人が優しく暖かな視点で描かれ、それが、人間の情報処理や認識の不思議を扱った、けっこうハードでテクニカルな内容を、読みやすいものにしている。
 勝手な思いでいうなら〈フーリエ変換SF〉だ。エンジニアならみんな知っている、たとえ知らなくても、自分で計算はしなくてもその恩恵は受けているはずの、波の重なり合いや分離に関わる数式。音波だけでなく、本書では人の意識や感情も重なり合い、共鳴しあっているのだから。


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