内 輪 第292回
大野万紀
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
毎年京都で開かれる青心社主催のSF忘年会。今年も参加してきました。家族参加の子どもたちもいますが、年々高齢化がすすみ、今やそこで若者といえば40代に。中心は50~60代です。
そこで出ていた話題のひとつが、SFファンダムの高齢化と消滅について。
SFファンダムといえば、アメリカでのSF雑誌の誕生から、そのお便り欄を通じて始まったというのが定説ですが、するとすでに100年近く、日本でも半世紀以上の歴史があるわけですが、古くからのファンダム・ファンならおわかりのように、単にSF好きが同好の士とSFの話をするという以上の、まさにファンの王国(ファン・キングダム)というべき独特の「伝統文化」があるのです。それが妙に排他的な雰囲気や、入り込みにくいマイナスのイメージをも作りだしているわけですが、その中にいるととても居心地が良く、またその中から実際SFに限らず、様々なムーブメント(後にオタクと呼ばれるようなものも含めて)を送り出すベースになったという功績もあるでしょう。
しかしその中核部隊は、昔の感性のまま歳を取り、新しい血を積極的には迎え入れようとしないことによって衰退していきます。
SFやSFファンがいなくなるという話ではありません。かつてのSFファンダムが、そろそろその役目を終えつつあるということです。
新しいSFファンもそんなべったりした密な結びつき(むしろSFの話はしないことが多い)よりも、個々の作家や作品、あるいはもっとフットワークの軽いイベントへの参加などへと移っていくようです。このことは日本よりアメリカの方がむしろ顕著だということです。まあ、あっちの方が歴史が長いからね。日本ではまだマンガやアニメがSFと結びついている部分が大きいので(ラノベもつながっているし)、これからもしばらくは続くかもしれませんが、しかしSFファンダムというものは、もう先が見えたといってもいいのではないか。老兵は死なず、消えゆくのみ。と、まあそんな結論でした。
いや、酒を飲みながらの雑談ですからね。ファンダム論をするには、もっとそれを成り立たせているコミュニケーション/メディアの変遷などから追っていけば、ちゃんとした議論ができるのではないかと思いました。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『宇宙人相場』 芝村裕吏 ハヤカワ文庫JA
ゲームの「ガンパレード・マーチ」、小説と漫画原作の傑作『マージナル・オペレーション』、ハヤカワでは近未来リアルSF『この空のまもり』、それから『富士学校まめたん研究分室』といった傑作を送り出している芝村裕吏の新作は、株売買がテーマの金融SFだ。
まあSFだとわかるのは、タイトルがそうだし、途中出てくるメールの相手がそうだし、最後の方は本当に確かにSFになっているのだが、実際の所、本書の90%はリアルなデイトレーダー的(もっと短いサイクルで売り買いするスカルピングというやつらしい)ネットでの株取引の話で、さらに本書の本当の90%は、零細企業の35歳のオタクな社長が、偶然知り合った病弱で可愛い女性と恋に落ち、リアルに充実し、ついに結婚するという、何ともチョー甘々というか、ほのぼのというか、エロはないのだけれど、ひたすらラブラブな物語なのである。
普通は読んでいて恥ずかしくなるというレベルだが、人によっては殺意を抱きたくなるような話かも。いや、これはもう、株取引も宇宙人も重要だが、嫁が一番大事だという話なのです。それでいいのか。ま、いいのだ。
後書きによると作者は実際に株取引をしていたそうで、本書に書かれているようなことはほとんどリアルなのだという。身近に株やってる人がいて、話は聞いているけれど、自分ではやらないしろうとのぼくでも、わかるように説明がされている。このあたり、とてもうまい。
オタクな結婚話も、そんなに変ではなくて、実際にあってもおかしくない感じ。あと、SFの部分だが、これも全体のホンワカとした雰囲気の中に自然に溶け込んでいて、すごく説明不足ではあるけれど、まあそんなものかと思えてくる。全体的な結論からいうと、とても面白かった。
しかし、現実はこううまくはいかないよなあ。リーマンショック直後の話となっているが、本当はもっと悲惨な話になっていてもおかしくない。だからSFで、だからファンタジーなのかとも思うが、ちょっとそう断言できないのは、作者の他の作品でもそうなのだが、根っからのオタクで、世間一般から見ればまともな社会人といえない主人公が、のほほんとしながら、けっこう骨太に社会とコミットし、おやっと思うような実績をあげる。その背後には無数の悲劇があることをしっかりと理解しながら、というパターンが見えるからで、そういったリアルとフィクションとのバランスの取り方が、とてもうまいと思うからだ。
それと、短くてすぐ読めるというところもポイントが高いよね。
『ニルヤの島』 柴田勝家 ハヤカワSFシリーズJコレクション
第2回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作品。作者は87年生まれ、まだ20代の民俗学を研究する大学院生だが、ペンネームどおりの武将風な風貌で話題を呼んでいる。とはいえ、本書はとても真面目で文学的なSFであり、戦国武将のミームとは関係ない(というか距離がある)。
そう、これはミームについての物語である。リチャード・ドーキンスが作った、遺伝子(gene)に対応する文化遺伝子、模倣子たるミーム(meme)という概念。ぼくはこれをホフスタッターやデネット経由で知ったので、社会学的な方面よりも進化論や、認知科学・コンピュータ科学の観点から(そしてもちろんSF的観点から)とらえることが多い。
本書の舞台は未来のミクロネシア。生体受像の技術(ライフログの進化したやつかな)により、人生のすべてを記録し、編集し、再構築し、体験できるようになった時代。主観的な時間の流れも、記憶が断片化される前に、編集された叙述によって書き換えられる。かくて死後の世界という概念はなくなり、大宗教は大きな打撃を受ける……。
本書のキモでありながら、実はここのところがちょっとわかりにくい。肉体的に不死になったわけではなく、自分の主観的物語の中でいつでも過去と再会し、そこで生きることができるという意味だと思うが、よくわからない。そのことでバチカンが死後の世界はないと宣言するのもぼくには理解できない。
しかし、島々が巨大な「大環橋」で結ばれ、ミームの理論をもとに政治が運用され、DNAコンピュータが浸透しているこの未来国家、ミクロネシア経済連合体で、死後の世界、海の彼方のニルヤの島があるとする宗教が復活していた。文化人類学者のイリアス・ノヴァクは、その意味を探ろうと島々を訪れる。
本書は、DNAの塩基(A、T、G、C)を頭文字とする4つのパートから構成される。各パートは断続的に入り乱れ、時系列も一様ではない。登場人物も変わっていたりする。これは混乱するよ。でもまあ最後には、およそ落ち着くところには落ち着く。Gが一応メインのパートなのかな。島の外から来た文化人類学者のパート。TとAは、それを補完するような、島に育った人々、変化する生活環境や過去の習俗、新たな宗教に取り込まれていく両親と娘の物語(A)と、島で休暇中に彼らと深く関わっていく模倣子(ミーム)行動学者の物語のパート(T)。そしてCは、これらと関わりながらむしろ全体を説明するような、ポナペ島の遺跡でコンピュータとひたすらチェスに似たゲームをしている男のパートである。
それぞれのパートのテーマはどれも刺激的で、興味深い。熱帯の海と島々、そして橋と猿の描写もいい。ミーム・ベースの分散コンピュータみたいなアイデアも(無茶だけど)面白い。ただ、それぞれのテーマや断片はとても興味深く、面白いのに、全体的な感想としては、SFコンテストの選評で、東浩紀がいっていることに同意したい。ひとことで言えば、一冊の小説として統合されていないと感じる。それと、最初に書いたように、これで「死後の世界がなくなった」とすることに納得がいかず、宗教的な主題にもよくわからない点が多い。舞台がミクロネシアでなく、近未来の日本だったら、もっと違った話になり、理解もしやすかったかも知れない。若い作者には、さらに現代的な本格SFに挑戦してほしいと思う。
『黒い破壊者 宇宙生命SF傑作選』 中村融編 創元SF文庫
初訳1編(マッケナ)を含む6編が収録されたアンソロジー。
主に50年代と60年代の作品(ヴォクトは39年の雑誌掲載版)だが、今読んでも(科学技術的なところはともかく)その問題意識はちっとも古びていない。宇宙生物とのファーストコンタクトや、新たな生態の発見や、人類文明との関わりを、主として生態学的な観点から描いた作品が集められている。
いや、これはいい作品集である。70年代のSFマガジンに翻訳された作品が多いが、埋もれるには惜しい作品ばかりだ。
リチャード・マッケナ「狩人よ、故郷に帰れ」は、寡作ながらその昔の海外SFファンの間で評判が高かった作者の、初訳作品。ある惑星の生態系を完全に破壊しようとするマッチョな植民者たちが、テラフォーミングに使った生物の反撃を受ける。
ジェイムズ・H・シュミッツ「おじいちゃん」はおじいちゃんと呼ばれ、便利に使われていたいかだ状の生物が、新たな生態を見せる。
ポール・アンダースン「キリエ」は超新星のブラックホール(この作品が書かれたころはまだその言葉はなかったが)をエネルギー生物とともに探検しようとする話。
ロバート・F・ヤング「妖精の棲む樹」では、植民星に残った超巨大な樹を切り倒そうとする男に、その樹に棲む少女のような妖精が見える。
ジャック・ヴァンス「海への贈り物」は海洋資源開発に従事する男たちが、希少金属を採取する道具として使っていた生物に知性があることを発見する。
ヴァン・ヴォークト「黒い破壊者」は後に『宇宙船ビーグル号の冒険』の第一話となった、凶暴だが知性があり、とても魅力的な猫型異星人の生き残りであるケアルと、人間たちの闘いを描く。
いずれも傑作といえる作品だが、エコロジーものが、今となってはいささか類型的に見えてしまうのは仕方がない。でもそれはここから始まったものなのだ。
ぼくが一番好きなのは「キリエ」だ。プラズマ生命体と、かれとテレパシー的に交流できる女性技官との結びつきが、ブラックホールの物理的な性質と相まって、美しくも悲劇的な結末を迎えるこの作品には、良質なハードSFのもつ硬質なロマンがある。その昔SFマガジンで読んだときも、これこそがSFらしい情感なのだと感動した記憶がある。
「黒い破壊者」も本書で一番古い作品にもかかわらず、古さを感じさせない。人間側も一枚岩ではなく、ケアルも凶暴なだけの動物ではない。読者はいつのまにかこの「子猫ちゃん」を応援している自分に気づくだろう。
『だれの息子でもない』 神林長平 講談社
神林長平の新作長編は、一家に一台地対空ミサイルが装備されている近未来の日本、それも長野の安曇野が舞台だ。ネット上の自分のアバターが、自分の死後も意識をもち、存在し続ける、そういう〈ネットファントム〉を消滅させるのがお仕事の、地方公務員である「ぼく」のお話。
設定からもわかるように、基本的にコメディであり、確かに笑えるシーンも多い。それが作者特有の、ストーリーの流れそっちのけでねちっこく自己考察を繰り返す文章で描かれると、意識、知性、情報、記憶と記録、哲学的ゾンビといったテーマの、最先端な現代SFのようにも読める(いや、実際に最先端の現代SFなのだ、間違いなく)。
ただ、そういった哲学的テーマについては、特別目新しいことが描かれているわけではなく、神林流のひとつのまとめという位置づけになるのだろう。それはそれで納得できるまとめである。その中で面白かったのは、オリジナルのいないアバターについての考察や、人のような意識をもたない動物たちがネット世界に侵入してきたらというアイデアだ。前者はまさにイーガンのテーマだし、後者は、ル・グィンの昔の短篇にも(ネットとは関係ないが)同じようなものがあった。
だが、本書で最も重きを置かれているのは、そういったリアル世界とバーチャル世界の混淆や自己同一性のほころびといったことが、安曇野といった確固とした土着的な風土の中で、祖父、父母、自分という一族、家族の物語として描かれるというところだろう。それが表題にも現れているし、いささか過剰とも言える死んだはずの父のアバターの饒舌にも現れている。まさに幽霊に取り憑かれているという状態である。
本書では、この父のアバターが最も生き生きと描かれていて、魅力的なキャラクターとなっている。何しろビタミンちくわをつまみに、仮想の酒盛りで盛り上がるんだから。冒頭の描き方とは違って、ちょっとお茶目なキャラクターとなった祖父や、「ぼく」の女性の上司である、少しふくよかで、「絶対痩せるぞ」がキーワードの係長もいい。老いて病んだ母の存在は重いが、ラストで見事な活躍を見せてくれる。うまいな。
しかし、本書を土着性や血縁への回帰の物語として捉えたくはない。それでは放浪癖のある親父のアバターが浮かばれない。それらもまた「記憶」と「意識」の中にあって、バーチャルな「リアル」を支えるものとしてあるのだろう。つながりはない。「だれの息子でもない」のだ。ウムム。
『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』 ひこ・田中 光文社新書
今年の京フェスで稲葉振一郎さんが紹介していた2011年発行の新書。
TVゲーム、TVヒーロー、アニメ(男の子)、アニメ(女の子)、世界名作劇場、マンガ、児童文学と、各章をジャンルに分けて、60~70年代から現代までの流れと、そこに現れた制作者である大人、親たち、そして子どもたちのそれぞれの思惑と受取方の違い、時代背景とメディアの特性、そういったものが実にきちんと(TVゲームは実際にリプレイしたりなど)現物にあたって書かれ、分析されているのだ。そしてテーマは明確で、サブタイトルにあるとおり「なぜ成長を描かなくなったのか?」。
著者はぼくと同世代。だから、ここに挙げられている作品は、ほとんど同じように受け取り、楽しんできた。子どもがいたから、2000年代初めくらいまでのものも大体わかる。ただ、そういう新しめの作品は、子ども目線で見たわけじゃないから、ここに書かれていることは新たな発見だった。
著者は、本書で「成長物語」がダメになったとか、不要になったとか、そういっているわけではない。ただ、大人が子どもに示すような意味での「成長」の「物語」がリアリティを失い、子どもを幸せな家庭の中に閉じ込めたり、あるいは学校という疑似社会で大人ごっこをしたり、そこから「成長」して大人のロールを身につけたり、ヒーローとなって世界を救ったり(ただしそれは男の子で、女の子は日常の中に封じられる)、そういったストーリーが現実と齟齬をきたしているということだ。
面白くて子どもにも受け入れられれば、それはそれでいいだろうが、もはやそんな物語を喜んでいるのは親たちだけではないのか、ということ。いや、親たちだって、自分らがそう教えられてきたからというだけだろう。メディアによって早い遅いはあるが、大体2000年前後にそんな変化が目に見えてきた、という。ゲームではFFX、TVヒーローではウルトラマンネクサス、仮面ライダークウガ、アニメ(男)はエヴァンゲリオン、アニメ(女)はプリキュア、マンガはONE
PIECE、といったあたり。そういわれれば、わかるような気もする。
そしてようやく子どもの物語はポスト・モダンどころか、モダン社会に追いついてきたのだという。何しろそれまでは19世紀が生き残っていたようなものだから――「世界名作劇場」みたいに。成長が描かれなくなった理由は、そこにあり、つまり情報へのアクセスが容易になって、大人と子どもの確固とした差異が減少してきたからだ。
おおむね納得である。ただ、われわれロートルSFファンというやつは、ずっと昔からそうだったんじゃないかと思っている。ファンダムは何歳になっても成長しない子どもの集まりだ。社会人として、それなりに大人っぽく生きているにせよ、SFなりアニメなりマンガなり、早くそんなものは卒業しなさい、という声に反発し、中学生・高校生の視線をそのままに持ち続けている。変化は受け入れる、でも成長なんて知ったことかと。アメリカでも日本でも、ずっと昔からそうだった。そして現代はオタクが普通になり、キモいとはいわれるにせよ、それなりに認められる時代。昔みたいに仲間うちで凝り固まる必要もなくなり、個として他者を気にせず生きられる(逆に他者とのベタベタな関係はそれこそキモいといわれる)時代。そりゃあファンダムは高齢化していずれ消滅するしかないわなあ。とまあ、あまり関係ないけど、そんなことまで考えさせられた。
後半はちょっと飛ばし気味。特にマンガについてはもっと深く掘り下げる必要があるように思う。でも、ゲーム、ヒーロー、アニメについては、同意するところが多い。世界名作劇場を切って捨てるところもいい。女の子アニメについては、ジェンダー論との関係も書かれているが、男からすればわかりやすいのだけれど、もうひとつ歯切れが悪い。当事者である少女からの発言が聞こえてこないためだろう。
本書は基本的にひとつの切り口で各ジャンルを串刺しにしているので、とてもわかりやすい。本書より新しいもの、まどかマギカや、妖怪ウォッチなども、どう捉えるのか考えてみても面白いだろう。
『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』 吉川浩満 朝日出版社
これは進化についての科学解説ではなく、進化論についての哲学書である。わかりやすく、ところどころに今風のユーモアがあり、そして何より、現代SFの問題意識とも通じる主題が扱われている。それは一言でいえば「科学」と「物語」の関わりということだ。
序章は「私たちは進化論が大好きである」という言葉から始まる。ぼくも進化論は大好きだ。
本書のタイトルに直接関わるのは第1章である。進化といい適者生存というが、実に99.9%の種は絶滅しているのであり、絶滅という観点から見ると、それは理不尽なものであるということが語られる。いくらがんばって環境に適応しても、隕石衝突のような偶発的な「ルール変更」によって、チャラにされてしまうのだから。
そして、遺伝子による環境適応・生存競争の優劣よりも(もちろんいったん環境が安定するとそれが苛烈に働く)、理不尽な運の悪さこそが大絶滅を引き起こす。ここでは絶滅していったものは生き残ったものに対して、必ずしも劣っていたからではないということを強調し、また大絶滅は新たな進化の大きなチャンスとなることを語っている。
ここでSF的に面白いのは、知的生命が進化するような惑星は、安定した環境よりも、種の絶滅を引き起こすような擾乱がたっぷりある、理不尽な絶滅が起こるような惑星だという知見だろう。
続く第2章では、自然淘汰と適者生存という言葉を中心に、進化と進歩を同一視するような俗流の進化論理解について語られる。もちろんそれは「進化ポエム」であり、間違った理解なのだが、むしろ近代社会における日常的な人間の理解としてはそれが普通なのだともいえる。それはダーウィン主義ではなくスペンサー主義の進化論ともいうべきで、そのミームが現代人にはしっかりとインストールされているのだ。
「ガラパゴス」ケータイという言葉は品性下劣であるとか、ビジネスの世界で「環境の変化にフレキシブルに対応してこそ進化できるんだ」なんて言われたら「目標はよくわからんが、まあとにかくがんばれ」と言われているに等しいとか、そんな話はよくわかる。ここまででようやく半分。
本書の残りの半分、第3章と終章は、現代の正統的な進化論の「適応主義」と呼ばれる方法論について、スティーヴン・ジェイ・グールドによる異議申し立てと、その(学問的な)敗北、そして敗北したとはいえグールドの異議申し立てには見るべき意義があったことが語られる。ここはやや専門的になるのだが、著者のまとめによればそのポイントは、適応主義の「科学」とそこで見失われる「歴史」との対立ということだろう。
グールドは進化を歴史として見る立場であり、生き残ったものだけ、今ある結果だけを見るのでなく、理不尽な絶滅で消えていったものを含めて、全体的・歴史的な経緯を見ようとする。進化は(歴史は)偶発的なイベントに満ちていて、カオス的な経緯をたどるから、もしリプレイしても同じ結果にはならないという主張もそこからくる。
本書は基本的にドーキンスらの、科学の側に立っている。リプレイしても同じにはならないカオス的な歴史に対しては、検証できることを個別に検証するしかない。それ以上は解釈であり、「物語」である。
ここには現代SFとも関わるテーマがある。無数の並行宇宙という居心地の悪さから納得のいく一つの宇宙を選びだすにはどうするのか。この宇宙はなぜ選ばれたのか。物理学の弱い人間原理とよく似た論法でもある。イーガンのSFでいえば、別の数学的構造と覇権を争ってもいいし、不幸な歴史の発現しないような並行宇宙が生き残るように枝刈りを行うこともできる。理解はできても納得はできない事象に対し、納得させられるのは物語というものだろう。理解と納得という点に関しては、菊池誠『いちから聞きたい放射線のほんとう』にも言及されている。
本書は科学の側に立ちながらも、物語や「進化ポエム」についても、それが実際的な害を及ぼさない限り、気にすることはないとする。そんなバランスの取り方が、本書を「理不尽じゃない」読み物としている。いやあ、とても面白い読書体験だった。