続・サンタロガ・バリア (第150回) |
あけましておめでとうございます。というには個人的には難しいのだけれど、ま、THATTA on-line150回とういうことで目出度いとしておこう。
やや無理して参加したSF忘年会では三保さんにいろいろ聞いてSFで生きるのも大変だなあと感心してしまいました。みなさん、三保さんをよろしく。
最近はSF忘年会に行くついでに、京都の観光名所を一つずつ巡ろうと思い、3年前から金閣寺と竜安寺、その後は銀閣寺そして哲学の道を歩いた。去年の夏には平安神宮にも行ったなあ。もちろんどれも初めてだった。大学及び就職浪人で5年もいたのに、喫茶店しか行かなかったからねえ。
今回は清水寺と思っていたのだけれど、竜安寺の近くにお住まいの仕事でお世話になっている先生を訪ねたら、竜安寺の湯豆腐をごちそうになってしまい、酒もいただいてしまったので、とても清水寺どころではなくなってしまった。先生と別れて竜安寺のバス停から59番で三条京阪を目指す。ちょうど59番が行った後で、ほろ酔い気分で次のバスを待っていたら、後ろには長蛇の列ができていた。一番でバスに乗り込み座席につくとあっという間に超満員。うしろの席や頭上からは中国語が飛び交い前の方ではハングル言葉が聞こえてくる。円安もあって京都の名所は日本人より中国・韓国の若者が目立つのであった。平安神宮でもそうだったけれど、みんな若いし、裕福そうだ。日本の若者がかれらと愉しくつきあえればいいなあ。
音楽の方は再びブラジル・ポップスの1000円盤とジャズの1000円盤買いを再開。男性歌手ではベテランのジョルジ・ベン『アフリカ・ブラジル』1976年作を買ってみた。ジョルジ・ベンといえば「マシュ・ケ・ナダ」の作者として有名な人。その頃から10年あまり後の作品である。なんでこれかというと、Youtubeでロッド・スチュアートの「アイム・セクシー」がジョルジ・ベンの「タジ・マハール」の盗作だというのを知ったから。実際、あの有名なフレーズは「タジ・マハール」のまんまである。それにしてもこのアルバム、「マシュ・ケ・ナダ」のイメージとかけ離れたブラジル・ファンク・ロックで、歌詞も思いっきりくだらない。やー、ビックリした。カエターノ・ヴェローゾ『ムイト』は1978年作。ジョルジ・ベンとは大違いの内省的サウンドと見事な歌詞が堪能できる一作。もはやボサノヴァは過去の素材となっている。一方ボサノヴァの名人マルコス・ヴァーリ『ガーハ』1971年作は、気持ちのいいポップでボサノヴァの魅力を保ちつつ新しいブラジル/欧米ポップへの道を開いている。カエターノ・ヴェローゾはこの頃軍政下のブラジルを脱出してロンドンに逃げたが、マルコス・ヴァーリには政治的な反抗心はあまりなく、見事なポップスを創り出している。マルコス・ヴァーリはミスター・ジョイといわれたらしい。しかし、ブラジル・ポップスの中心的ミュージシャンといえばカエターノ・ヴェローゾの方のようだ。このふたりはもう少し聴いてみよう。男性ヴォーカルが続いたので女性ヴォーカルをと思い、ジョイス『フェミニーナ』1980年作を聴く。歌詞はアルバム・タイトルらしいもので、一聴これはという曲はあまりないけれど、地声裏声がきれいで、ジョニ・ミッチェルを思わせる。
ジャズの方はまず、セルジオ・メンデスとブラジル'65『エル・マタドールのセルジオ・メンデスとブラジル'65』1965年作。これはジャズ時代最後のセルジオ・メンデスの作品でピアノ・トリオにパーカッションという編成、これにゲストとしてギターのロジーニャ・ジ・ヴァレンサそしてあのワンダ・ジ・サーのヴォーカルがときどき入るライヴ・アルバムである。1曲目から、後にセルジオメンデス&ブラジル'66でも録音する、エドゥ・ロボ作曲の「祈り」が入っている。演奏は愉しいが、ブラジル'66のポップな歌唱を知っているとやや地味に聞こえる。ギターはめちゃウマ。エドゥ・ロボの曲は「地引き網」も演奏していて、タイトルは地味だけけれどワンダ・ジ・サーが歌っていて好きな曲である。ベースのセバスチャン・ネットはそのままブラジル'66に参加した。 本場のジャズの方は、今回は超有名だけれど敬して遠ざけていたアルバムを聴いてみた。第1弾はジョン・コルトレーン『至上の愛』1965年作。これを聴いていないジャズ・ファンは皆無だろうけれど、いままでアルバムを買ったことがなかった。ジャズ・ファンの知り合いはコルトレーンはこれから聴き始めたという。コルトレーンで一番よく聴いたのは『ジャイアント・ステップス』と『バラード』だが、そのほかの代表的アルバムも10枚くらい持っている。ロックが第一のチョイスだった高校生の頃はサンタナ&マクラフリンのアルバムで「パート1承認」を覚えた。長年ジャズを聴いてきて今これを聴くと、もはや衝撃というものはなくなっている代わりに「パート2決意」のテーマがセロニアス・モンクの「ベムシャ・スウィング」のテーマにそっくりなことがわかってビックリしたりできるのであった。コルトレーンといえばロリンズだが、ロリンズも超有名な『サキソフォン・コロッサス』とか『ウェイ・アウト・ウェスト』を持ってない。ブルーノートの名盤とか『橋』とかインパルス盤は手元にあるのについに買わずに来た。で、今回は『ウェイ・アウト・ウェスト』1957年作を聴いてみた。ピアノレス・トリオ第1弾というこのアルバムはレイ・ブラウンのベースとシェリー・マンのドラムスがとても愉しくて聴いていて飽きない。『サキソフォン・コロッサス』も聴いてみよう。キース・エマーソンの十八番「ザ・ロンド」の原曲がデイヴ・ブルーベックの「トルコ風ブルー・ロンド」であることは有名な話だけれど、この曲が入った超有名盤『タイム・アウト』も買ったことがない。なんとなくポール・デズモンドのアルトが気にくわないせいもあった。で、買ったのは『デイヴ・ブルーベック・カルテット・アット・カーネギー・ホール』1963年作の2枚組。これにしたのは「トルコ風ブルー・ロンド」や「テイク・ファイヴ」がライヴで聴けるし、デズモンドのアルトも少しは元気かもと思ったからだ。予想は半分あたりでユージン・ライトのベースとジョー・モレロのドラムスは元気がよかったが、デズモンドはやっぱり嫌いなフニャッとした音しか出さないのであった。期待の「トルコ風ブルー・ロンド」はテーマこそ調子がよいが、ソロになるとフツーのジャズ演奏になってしまい、長尺なのに肩すかしを食らってしまった。ちょっとアン・バートンが聴きたくなって超名盤とは何の関係もない世界初CD化という『シングス・フォー・ラヴァーズ』1971年作を聴いてみた。これは高校生の頃よく見たジャケットで、聴いたことはなかったけれど、懐かしいので買ってみたのだった。オランダ出身のこの女性ヴォーカリストは特にジャジーというほどではないけれど、聴きやすい声と嫌みのない節回しが魅力のヒト。このアルバムでは、いつものルイス・ヴァン・ダイクのピアノ・トリオではなく、ギターが中心のアレンジだけれど、カーペンターズやジェイムズ・テイラーなど同時代のポップ・ヒットをヨーロピアン・ジャズにして歌って見せていて、気分よく聴ける。今回のジャズの最後は、マイルス・デイヴィス『ダーク・メイガス』1977年作2枚組。とはいえこれは1974年3月30日のカーネギー・ホール・ライヴ。マイルスは電化轟音サウンドまっただ中、エレキ・ギター鳴りまくりの1作。当時の若手テナーサックスのエイゾー・ローレンスが吹いているところがミソ。ただし解説では、マイルスの気に食わずこの1回で首になったという。この後の日本公演ライヴ『アガルタ』よりも音が混乱気味でその分荒削りな魅力がある。マッコイ・タイナーのカルテットではバリバリ吹いていたエイゾー君もここでは周りを気にしてイマジネーションの乏しい人まねフレーズを繰り出すばかり。マイルスに引導を渡されても仕方ないか、というところ。
先月取り上げた『楽園追放-rewired』で「TR4989DA」へのコメントが漏れた上、読み終わっていたのに書き忘れた神林長平『だれの息子でもない』は、別に印象が薄かったわけでもなく、単にトシのせいで忘れていたのである。この変わったタイトルの連作中編集は、始まり方がちょっとシリアスな感じなのだけれど、結局コメディ・タッチな仕上がりのエンターテインメントだった。ヒトが死ぬと電脳空間に残された故人の情報を消していく作業が必要になったという話は昨今の新聞でも話題になるくらいの現在形な設定だけれど、そこは神林長平、地方公務員としてそのような仕事を担当している主人公の亡くなったはずの親父のアバターがしぶとく生き残って主人公の生活を引っかき回す。メインテーマは相変わらず意識の問題だけれど、父と母と息子の物語でもある。
あまり読みたいSFがないので、文庫になった梨木香歩『ピスタチオ』を読む。ヒロインはフリーライターで、母親の自宅兼アパートの一室に住みながら、たまにつきあっている男の家に行くという生活。問題は長年飼っている雌犬が最近性器から出血があり弱っててきて獣医に診せたが、結局男の勤めている大学で手術をした。ヒロインは以前アフリカにいたことがあり、そこで知り合った呪術医の調査をしていた男の本を手に入れると、相方からその男が最近死んだことを知らされる。するとヒロインは、雑誌からアフリカのカスタム観光旅行の調査記事を頼まれ、アフリカへ向かう。これが話の前半というか導入である。全体の3分の1強。そこからはウガンダを舞台に死んだ男の足跡を追って、呪術医の修行を始めていた男の患者第1号の女性と出会い、不思議な運命に導かれていく。
全く違う話なのになぜか中島らもの『ガダラの豚』を思い出す。ヒロインがいつか書けるかもしれないと思っていた、アフリカの神話をモチーフにしたような短編が最後に置かれている。見事な出来の短編で、これだけでも年間ベスト短編集に入っても良さそうな作品であるが、やはり『ピスタチオ』の最後で出会うのが一番いいのだろう。
筑摩文庫続きで、カレン・ジョイ・ファウラー『ジェーン・オースティンの読書会』を読んだ。2006年に白水社からハードカヴァーが出ていたのにわざわざ新訳した中野康司というヒトも相当なシロモノだが、それを文庫オリジナルで出した筑摩もほとんど営業妨害に近い。ま、読者には関係ないが。とはいえ、これは2013年1月に出たもので1年間積ん読状態だった。もともとジェーン・オースティンとジェーン・マンスフィールドとの違いもわからない門外漢なので、ずうっと積ん読になっているはずだったけれど、何かの拍子に読み始めてしまいそのまま読み終わった。
カレン・ジョイ・ファウラーだけあってジェーン・オースティンを1冊も読んだことのない人間でもSFを読んでいる者ならとりあえず楽しめる仕掛けがいっぱい。プロローグとエピローグに「私たち」を使う語り手が登場するが、これがこの物語全体をひとつ上のの架空レベルへと持ち上げている。「読書会」と称してオースティンの6つの長編に合わせた6人の登場人物の人生のてんやわんやは、もしかするとオースティンにあやかっているのかもしれないが、それとは別に個々のエピソードが単に面白い。6人のうち唯ひとりの男(かつ独身)がSFファンという設定なので、そちら関連の言及もたっぷりと出てくるし、SFファンへのサービスも十分である。そういえば大森望はオースティン大好きといっていたよなあ。
中村融編『黒い破壊者 宇宙生命SF傑作選』は中村融ならではの目配りが効いたオ-ルドSF短編集。珍しいリチャード・マッケナの未訳短編「狩人よ、故郷に帰れ」を皮切りにジェイムズ・H・シュミッツ「おじいちゃん」ポール・アンダースン「キリエ」ロバート・F・ヤング「妖精の住む樹」ジャック・ヴァンス「海への贈り物」そしてA・E・ヴァン・ヴォークトの表題作、全6編はどれもそれなりに古めかしいけれど(一番新しい「キリエ」で46年前、ヴォークトにいたっては75年前だ)、SFらしい愉しみがある。全体を通して読むと宇宙生命というよりもエコロジーSF傑作選のように見える。
収録作はどれも逸品だけれど、ここのところ素朴すぎる長編SFで評価が下り気味のヤング「妖精の住む樹」が、何十年かぶりの再読でそのおもしろさを(再)認識できたことが印象に残った。
ジェフ・ヴァンダミア『監視機構 〈サザーン・リーチ2〉』は、『全滅領域』の直接の続編。主人公は〈エリアX〉に調査隊を派遣し続けてきた組織の出先機関〈サザーン・リーチ〉に新しく赴任した局長コードネーム「コントロール」。基本的なストーリーはこの出先機関での「コントロール」の体験談で、〈サザーン・リーチ〉自体が組織として不気味な存在になってしまっており、なおかつ中央の組織からはほとんど見捨てられつつあるという設定。主人公にはグレート・マザーそのものの母親がいて、本部組織の幹部として居座っており、主人公との関係は非常に鬱陶しく、マザ・コン「コントロール」はとても管理者として適任には見えない。クライマックスは「コントロール」が、帰ってきた(逃げ出した)生物学者(前作のヒロイン)を追いかける話だが、ここはやや面白かった。やっぱり「眼底手高」だ。
出てすぐ読んでしまった小川一水『天冥の標Ⅷ ジャイアント・アークPart2』は、いくつかの種明かしが続き、また小川一水らしい甘さがそこここに出ている。まあ、アクリラ・アウレーリアがどういう運命なのかがちょっと気になるものの、構成上は全編のクライマックスを迎えるはずの第9巻に期待しよう。
ノン・フィクションは相変わらず読めなくて、講談社現代新書の川田稔『昭和陸軍全史2 日中戦争』と中公新書の成田龍一『近現代日本史と歴史学 書き替えられてきた過去』の2冊だけ。
前者は第1巻を見逃していて、とりあえず2巻でもいいか(「あとがき」にもそう書いてあったし)と、読んでしまった。ま、タイトルに惹かれて少しは陸軍の動きも知っておこうかと思ったのだが、「昭和陸軍全史」の看板はこちらの思っていたのとは全く違って、陸軍省(軍政)と参謀本部(軍令/作戦及び実戦指導)を牛耳った中堅実力者幹部たちの権力闘争とそれがほぼ日本をなし崩しの戦争へと引きずり込んでいく過程を追ったものだった。
やっぱり陸軍の話は暗くてかなわない。永田鉄山、石原莞爾、武藤章その他大勢の有名軍人たちのそれぞれの立ち位置を紹介しつつ、かれらの軋轢を解説する。読めば読むほど暗澹としてきてイヤになる。海軍は一応悲劇だが、陸軍は悲劇でさえない。それにしても皇道派って何だったんだ。
後者は2012年刊で、読もうと思ったのは2010年代に書かれた軍事産業史の専門書でさえ、明治期の軍事技術導入の解説に戦後流行ったマルクス主義/共産党的思考の残滓みたいな用語が出てくるのにちょっと反発があったからだ。ここでは、戦前地下水脈化したマルクス主義を全面的に打ち出した1960年頃までの「戦後歴史学」の流れを第1期、1970年代半ばまでを民衆史を導入して歴史の主体と構造に着目した第2期、そして進歩史観及び「近代」の再検討が始まった現代までを第3期とする。
著者の解説ではこれは前者を否定する動きというよりは、継承しつつそのときそのときの日本の社会思潮の影響を強く受けながら変化してきたのだとされる。しかし反権力志向が戦後何十年も歴史学の大枠として持ち越されてきたため、幕末期から明治20年代の地元の村役人たちの資料を読んできた者からすると、1期2期の歴史理論がいかに当時の現実を枠にはめて切り取って来たかに思い至る。現在の歴史学が第3期に移ったのは当然といえよう。もっとも1期2期の歴史学にこだわる歴史学者は第3期的観点で書かれた歴史書は認めないのだそうである。