続・サンタロガ・バリア (第147回) |
前号に書いた一文を読んで、なんやこのボケっぷりは、と自分で驚いたのが、
「・・・日本ではピブロクトーの名前はすでに伝説的だったけれど、イギリスでは当然フツーに活動していたロックバンドの一つで、その後はクリームの前身バンドの片方だったにすぎないわけだ」
クリームが68年解散したことは常識。ピブロクトーは70年デビューということで「その後は」以下の文章は取り消し。トシの所為ともいわれんなあ。
いまやクラシックと呼ばれている70年前後のブリティッシュ・ロックが我が高校/浪人時代の関心の的だったわけだが、YouTubeを見ていて気になりだしたのが、ジェスロ・タル。当時「ブーレ」みたいなシングル・ヒットは聴いていたし、72年の初来日のステージが話題になったことも知っていたが、今ひとつピンとこなかった(実は1972年の初来日公演のブートレッグも持っているのだが1回聴いただけ)。当時聴いた唯一のアルバム5作目の「ジェラルドの汚れなき世界」はプログレのパロディみたいで、好きになれなかったことを覚えている。で、国内廉価版(といっても1500円ぐらい)で1枚目「日曜日の印象」から4枚目「アクアラング」までを買って聴いてみた。ブルース大好きギタリストのミック・エイブラムスが参加したファーストは、とっ散らかった印象で面白いが、ミックが出て行ってイアン・アンダーソンが主導権を握った後の3枚はおもしろさが隔靴掻痒的だ。その理由の一つはイアン・アンダーソンがひねくれすぎていて叙情性をストレートに出すことを嫌った所為だろう。当時のプログレはスケールの大きさと叙情性が同居したところに魅力の一端があった。「ジェラルドの汚れなき世界」はそれを強調した大作だが、シニカルな視点がきつすぎて素直に聴けないのだった。ライナーノートで当時を振り返ったイアン・アンダーソンは、この時期よりももっと後の作品の方がよりジェスロ・タルらしい、みたいな発言をしているので、気が向いたら6作目以降も聴いてみよう。
待ちに待った朴葵姫(パクキュヒ)の新作「SAUDADE−サウダージ」は、ブラジル音楽を集めたというだけあってブラジル最大のクラシック作曲家ヴィラ=ロボスはもちろんエグベルト・ジスモンチの渋い曲からルイス・ボンファやアントニオ・カルロス・ジョビンのボサノヴァ有名曲まで入っている。
前作と同じようにほぼ毎日数曲ずつ聴いているのだけれど、残念ながら前作のように持って行かれるような感覚が生じない。一番大きな原因はデノンのアンプを25年前に買ったソニーのアンプに変えたことだろう。ソニーのアンプは10年弱使ったと思うけれど、音がゴツく迫力があった。でも最後には左右のバランスがおかしくなってきたのでデノンに買い換えたのだ。デノンはソニーと正反対の優しい(フワついた?)音がした。この夏なぜか急に思い立ってソニーをもう一回聴いてみようという気になり、アンプのカバーを開けて掃除して、接点賦活剤を大量に振りかけた後、半日通電して鳴らしてみたらボリューム(オーディオ屋的にはアッテネーター)の雑音がとれて左右のバランスも回復していたのには驚いた。以来、お気に入りのCDをあれこれ聴いているところだが、音がゴツいことには変わりないので、クラシック系の音は聴きづらい。デノンで聴き直したらこのアルバムもお気に入りになるのかもしれない。今のところはジスモンチの3曲が一番聴きやすい。このアルバムで初めて聴いたパウロ・ベリナティ「ジョンゴ」は派手な効果を持つ現代風な曲で、クライマックスではギターのボディをパーカッションとして使う。なかなカッコいい。
まるでパク・キュヒを聴くための前トレみたいになっていたことに今さら気づいたボサノヴァCD集めだけれど、リリース第2弾からシルヴィア・テリスとワンダ・ヂ・サーを買って聴いてみた。テリスは60年代半ばに32歳で亡くなったヒトで、名前しか聞いたことがなかったけれど、ちょっと気になっていたので、1963年作の「ボッサ・ブランコ・バラーダ」を選んだ。結構よい雰囲気のアルバムだったが、ライナーノートの解説で知ったブラジル初の伝説的インディ・レーベル「エレンコ」の話が興味深かった。レーベル主アロイージオ・ヂ・オリヴェイラは当時シルヴィアの夫で、エレンコは商業的には長続きしなかったけれど、エドゥ・ロボをはじめその後重要視されるブラジル・ミュージシャンのアルバムを数多く出しているらしい。ワンダ・ヂ・サーの方は洋楽を聴き始めた中学生の頃から名前は知っていて、ジャケットにも見覚えがあったが、セルジオ・メンデス&ブラジル66のアルバムを買うのが精一杯で手が出なかった。ワンダのアルバムは65年発売のアメリカ録音で、11曲入りというのに収録時間はたった24分ほど。昔好きだった「アルアンダ」が聴けて嬉しいけれど、こちらもライナーノートを読んでビックリ。21歳のワンダはこのアルバムを残してブラジルに帰り、エドゥ・ロボと結婚して引退していたのだった。情報としては目にしていたはずだけれど、ここで初めて驚いた。子供が成人した後エドゥと離婚し現役復帰したとあり、さらにビックリ。YouTubeで確認したら確かにおばあさんぽくなっているけれど、デビュー当時の先生だったメネスカルと一緒に元気に歌っている姿が見られた。ブラジルポップも奥が深くて1000円盤シリーズをもう少し買ってみようという気になった。
知り合いから借りた100枚のジャズ・ボーカルCDはときどきというペースで聞き続けているけれど、カサンドラ・ウィルソン「ニュー・ムーン・ドーター」を聴いてひっくり返る。歌詞カードがなかったので、曲目を知らないまま聴いていたらモンキーズの「恋の終列車」が思いっきりスローなブルースになって歌われていた。「クラックスヴィル行き最終列車に乗るんだ、もう戻れないかも」と低い声で歌われると結構ジンと来たりして。このアルバムが当時のジャズ界で評判になっていたことは知っていたけれど、すぐさまネットで注文したCDにはオビにグラミー賞とスイング・ジャーナルでジャズ・ボーカル部門受賞と謳ってあった。確かにこれはよいアルバムだ。
めぼしい翻訳SFがない中で、アンディ・ウィアー『火星の人』が、いかにもアメリカ(白)人的前向き思考を全面に展開していて、結構面白かった。火星のサヴァイヴァルものはこれまでにもあったけれど、この作品はたったひとり取り残されたという設定で、徹底して楽天的な技術屋の一人称日記が功を奏していて、SFファンとしては満足のいく出来。地上と帰還宇宙船の人々の活動を描く場面はさすがにユルめだけれど、ケナすほどのものでもない。アメリカでしか書かれないタイプのSFだな。
久しぶりに堀晃「梅田地下オデッセイ」が読めるというので買った有栖川有栖編『大阪ラビリンス』は、結局収録作を全部読んでしまった。最初の2作、宇野浩二「橋の上」と横溝正史「面影双紙」はまだ大阪の夜が暗かった時代の話で、電飾の光が印象的な作品群。戦後焼け跡期の織田作之助「大阪の女」ではほの明かりが射す。堀晃以上に久しぶりに読んだ小松左京「大阪の穴」は今読んでも面白いが、登場人物が精神病棟に入るのは当時の常套だったのかなあ。そしてこのアンソロジーの目玉に違いない目次の真ん中におかれた集中一番長い作品が「梅田地下オデッセイ」。今回の再読でも凄い迫力のある作品であることが実感される。今年7月に歩いた梅田地下街はこの当時から遙かに広がっているけれど、そんなことは気にならない。ただほかの作品に比べて迫力がありすぎてちょっと浮いているかな。田辺聖子「コンニャク八兵衛」は落語みたいな話。有明夏夫「川に消えた賊」は江戸から明治へと替わったばかりの時代の捕物帖。骨格はミステリそのものであるが、時代の雰囲気が結構うまく作られていて楽しめる。江戸時代からカキ船が広島から大阪へ出稼ぎに出ていたのは仕事柄知っていたけれど、こんなところで舞台背景に使われていたとはねえ。いわゆる純文学的な面持ちの岩阪恵子「おたふく」は、女手の小さな「饂飩」屋を舞台にした、文章そのものが「芸」であるという純文学のテーゼを体現している1作。芦辺拓「天幕と銀幕の見える場所」は江戸川乱歩ジュヴィナイルへのオマージュ。柴崎友香「火花T/火花U」は、小学生時代のある一日を数人のグループで遊んだ思い出話だが、一人称は「わたし」を使いながら、遊んだ日の行動と景色があまりにも鮮明なシーンとして描かれる。
こういう短編集が面白く読めるようになったと云うことはトシをとった所為なのか。
雑誌掲載時に表題作を読んだ乾緑郎『機巧のイブ』は、架空の江戸を作り上げて本物と見分けのつかない機械生物がガジェットとして出てくる(といっても印象に残るのは蟋蟀とアンドロイドぐらい)連作短編集。一読「機巧師」釘宮久蔵を中心に毎回登場人物が入れ替わる事件ものかと思わせるが、実際はアンドロイド娘伊武の存在がメインのSF時代劇。とはいえ伊武もはっきりとした主人公役を担っていなくて、キャラクター的な焦点がやや散漫。天皇家に当たる天帝が女系で、幕府は天帝を取り込もうとしているという大仕掛けは、設定の説明が少ないこともあってピンとこないのも残念。それともこちらがバカなだけか。
アマゾンでようやく買った今岡正治編『夏色の想像力』は、「スゴすぎる」というのが読後の感想。作品のレベルが大森・日下編年間ベストSFアンソロジーと同等もしくはSFプロパー系に限れば上回る作品がある。大森が「営業妨害」と書くのもムベなるかなである。この内容と発行部数からすればファン出版として2000円でも全く高くはない。ちゃんと原稿料を払ってこのまま創元から出すというのもまんざらではないと思う。ただし、定価は1500円以下ということで。その場合作品の配列などは変えてもよいと思うけれど。
森岡浩之『突変』は文庫で700ページを超える大作だが、読後感は大長編のプロローグを読んだだけみたいな感じがする。大長編らしい多数の登場人物の紹介が前半部分を占めているので、本格的な災害小説部分が短く感じられるのだ。長い間アオっておいて巨大怪獣が一回しか出てこないのはサービス不足ではないのか。多彩な登場人物もその多彩さが700ページでは足りないくらい活躍の場が制限されてしまって、若い母親とその息子の物語に集約されてしまうところはまるでハリウッドの大作映画みたいだ。と、まあ悪口ばかりだが、面白くてスイスイ読める作品であることには間違いはない。続編は当然出るよね。
ノンフィクションでは、まずはなんといっても牧眞司・大森望編『サンリオSF文庫総解説』(1刷)。あのー、この間のSFマガジンといい今回の表紙といい目が泳ぐんですけど。表紙の棚に置かれたサンリオSF文庫がすべて袋入りなのが可笑しい。
改めて翻訳陣を眺めていると結構すごいではないですか。KSFAの翻訳陣は仕事が遅かったといわれても仕方がないですね(と他人事のように)。自分の場合は実力もないのに引き受けたことが一番の問題なわけで、それがわかっていないところが若(バカ)さだったのだ。山形浩生じゃないが、西村さんから送ってもらったサンリオのネーム入り特製原稿用紙(B5サイズで紙質は悪かった)を使って200枚ほど訳したパメラ・サージェントのクローンド・ライヴズは、引っ越しでなくなっていなければ、書庫代わりのボロアパートの一室に半分塵となって今も眠っているだろう。
喜んで書いたはずのゼラズニイとカウパーの解説もいまや全く内容が思い出せないけれど、大野万紀さんが『ロードマークス』の方でディレーニとの対比を書いたことを思い出させてくれました。でも取り上げたのは『アインシュタイン交点』だったような・・・
まあ、端から端まで読んで愉しませてもらってます。
安川加壽子のことを書いた作品が面白かった青柳いづみこ『グレン・グールド 未来のピアニスト』が文庫になったので、さっそく読んでみた。
期待に違わぬおもしろさで、プロのピアニストでもある著者自身の体験を引き合いに出しながら、グレン・グールドのピアニストとしてのキャラクターを彫り出していく。実演時代の評判を調べ、ブートレッグ・ライヴやプライヴェート録音を多数聴きながら、その後スタジオにこもって編集作業を自ら積極的に行ったグールドを分析して、遂にグールドにとってピアノが役不足な楽器であったことを確信し、最終章では今生きていればコンピュータを駆使した音楽家になっていたに違いないと喝破する。
熱心にグールドを聞いてきたわけでもない(それでも十代の頃最初に買ったバッハのフランス組曲はグールド盤だった)けれど、ある程度グールドを知っていれば、笑ってしまうほど面白い1冊だ。
ミステリには何の興味もないけれど、ついつい読んでしまうのが喜国雅彦の本棚探偵シリーズ。豪華箱入りハードカヴァーには手を出さないが文庫になれば手が出る。その3冊目が『本棚探偵の生還』。ホームズにもポワロにも乱歩や横溝にも用はない。さらに喜国雅彦のマンガも読んだことはないが、このシリーズだけは読めてしまう。山田風太郎の日記みたいなものか。古本者/ミステリ者たちの生態を自虐ギャグを連発しながら描く喜国雅彦のサービス精神はややうっとうしいのだけれど、なにか惹かれるものがある。たぶん本人の作り上げた喜国キャラクターが強いんだろうな。