内 輪   第286回

大野万紀


 このところ、仕事で昔のサンリオSF文庫から何冊かを読み直しているのだが、これが決して懐かしさだけではなく、今読んでも新しい発見があってすごく面白い。
 とりあえずディレーニイ『エンパイア・スター』とゼラズニイ『ロードマークス』を読んで、どちらも涙が出るくらいの傑作なのだが、『ロードマークス』が、ゼラズニイの書いたもうひとつの『エンパイア・スター』だということが納得できた。これって、『ロードマークス』の解説で、津田くんがとっくに指摘していたことなのだけれどね。
 それにしても『ロードマークス』のキャラクターたちは最高だ。いつもタバコをくわえている謎めいたタフな主人公と、その傍らで彼に語りかける美少女(に違いない!)の声をもつ詩集型コンピュータ<悪の華>。そして彼を襲う<黒の十殺>の殺し屋たち。格闘技の達人である修行僧や、脳だけ人間のサイボーグ戦車、さらにはコントロールされたティラノザウルスまでも。いっぽう、彼の友人で、一個のウィルスから惑星全体まで破壊できるという最終兵器は、陶芸が得意で、普段は山奥で壺を焼いているのだ。そして空には、すべてを超越したベルクウィニスの大ドラゴンが悠々と羽をはばたかせている……。 

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『呪禁官 百怪ト夜行ス』 牧野修 創土社
 うわー、久しぶりの呪禁官シリーズだ。前作から11年ぶりか。ヒーローのギアもヒロインの龍頭も健在。
 創土社の「クトゥルー・ミュトス・ファイルズ」の一冊だが、あんまりクトゥルーには関係ないと思う。
 魔法が科学と混在するようになった世界で、魔法犯罪を取り締まる呪禁官たち。今回はヴァルプルギスの夜のくる前に、世界を滅ぼしかねない最悪の魔女(可愛らしい女の子の格好をしている)螺旋香を、特殊監獄グレイプニルへ護送するのが任務。ついでと言っては何だが、猛毒(と毒舌)を吐く双子のフォスゲンとイベリット、不死身体質の獣人・鬼頭、武闘派の魔術師・藍、全身を拘束された奇怪な行旅死亡人といった、一癖も二癖もありそうな囚人たちもいっしょに護送するのだ。そして、たまたま見学に来ていて巻き込まれる呪禁官養成所の少年たち。はたしてギアたちは、襲いかかる凶悪な魔女集団や、無数の〈千の黒山羊〉たち、町中を覆う結界や、ウィッカーマン、ゾンビなどと戦いながら、日が暮れるまでに無事にグレイプニルへたどり着くことができるのだろうか……。
 物語の開始直後から、たちまちノンストップの戦いが始まる。それはもうほとんどギャグといっていいくらいなのだが、この息もつかせぬ無茶苦茶なアクションと魔法が、やたらと面白い。スピード感のある派手なアニメで見たい感じ。
 そして(まあ予想はつくのだが)、呪禁官養成所の少年たちこそ、本書の真の主役だ。少年らしい正義感とズッコケと、成り行きと偶然が、あれよあれよという間にびっくりするようなクライマックスを迎える。グロいシーンも多いけれど、いかにも絵になるしゃれたイメージがいっぱいで、このシリーズは好きだ。もっと続きが読みたいな。

『サムライ・ポテト』 片瀬二郎 河出書房新社
 片瀬二郎のSFデビュー作となる短編集。後半3篇が描き下ろし。
 表題作「サムライ・ポテト」は「NOVA」で読んだときとても印象に残った大傑作。チェーン店のマスコット・ロボットたちに意識が芽生えたら、というカラフルで可愛らしく、ちょっとビターな悲恋ものでもあるという、まるでピクサーの3Dアニメみたいな雰囲気のある作品だった。しみじみとした感動もある。何しろ最後には二人手をつないで溶鉱炉に沈んでいくのだから(半分嘘)涙なくしては読めない。
 この印象がとても強かったので、他の作品を読むと印象の違いに驚き、容赦のない残虐な描写にどきっとするだろう。基調にあるのは、暗い狂気である。そういえば、「サムライ・ポテト」にも、実はこの狂気が含まれていたことがわかる。残酷で痛ましい執着。
 「00:00:00:01pm」では、時の止まった世界で、長い時間を過ごした主人公が、さらにおぞましい狂気を目撃する。この描写はかなりエグい。
 「三人の魔女」も、ある中学を舞台に、すさまじいばかりの過去への執着が描かれる。この作品の女子中学生たちには、「00:00~」の、時の止まった世界でのモノと化した人間のように、ある種の非実在存在への眼差しというものを考えさせられる。イーガンと同じ問題意識を共有しており、SF的にも傑作といえる。
 「三津谷君のマークX」は、カラオケ屋でバイトしながら、ネットの仲間と自立型ロボットを作っている主人公が、そのロボットがテロリストの武器に使われた恐怖から、いびつな執念に取り憑かれる。ここではリアルな日常の狂気と、テロリズムの狂気が重ね合わされている。とはいえ、巨大ロボットの活躍シーンには胸躍るものがある。
 最後の中編「コメット号漂流記」は、映画「ゼロ・グラビティ」を思わせる宇宙ものの傑作だ。勉強が嫌いで何かといえばつっかかてばかりいる、あんまり萌えない女子高生が主人公だが、彼女が日常を暮らしているのは地球近傍のスペースコロニーで、それが突然攻撃され、破壊される。いきなり不条理なサバイバルに直面した彼女が、たまたま生き残った犬といっしょに、ARのアシスタント知性に助けられながら(そしてとめどなく悪態をつきながら)おこなったっことは……。ここでも基調にあるのは不条理な暴力と狂気である。そして抑圧と差別。アシスタント知性の可愛らしいおしゃべりも、この状況にあまりにもそぐわない。ただし、この結末は、ストーリー的にはこれで大正解なのだが、ちょっと無理があるように思った。
 5編とも、それまでの日常が突然断ち切られる不条理が描かれている。そしてその狂気とおぞましさに直面したとき、それまでの「普通の」人間がどう行動するのか。それに共感できるかどうかはともかく、暗いパワーが彼らを動かしていく。邪悪さというのとも違う、もっとカジュアルな、悪意との自覚もない悪意。男の子がおもちゃに対して、いじめの相手に対して、小動物に対して示すような残酷さ。
 筒井康隆がいった「ヒト=モノ」をふまえたまま、さらに「モノ=ヒト」と逆転させ、ロボットや非実在人格や、シミュレーション世界を扱ったなら……。だがここで「モノ」は容易に「オモチャ」へと転化するのだ。その恐怖が本書の作品には描かれている。

『世界堂書店』 米澤穂信編 文春文庫
 海外の(日本作家も久生十蘭が含まれているが)、SF、ミステリ、ファンタジー、ホラーといった不条理で奇妙な短篇15編を収録したアンソロジーである。編者は『折れた竜骨』や『インシテミル』などのミステリで有名だが、こういういわばずいぶん通好みの海外小説が好きだとは知らなかった。
 どの作品も面白いが、やはりぼくの好みとしては、何といってもキャロル・エムシュウィラー「私はあなたと暮らしているけれど、あなたはそれを知らない」が一番印象に残った。超自然的なようで、そうではないようで、不思議で怖くて不気味な、しかしどこか明るくエロティックで、何ともいえない読後感が残る作品だ。
 他にはヘレン・マクロイ「東洋趣味(シノワズリ)」や、ベン・ヘクト「十五人の殺人者たち」、パノス・カルネジス「石の葬式」などが好きだ。他に台湾の張系国「シャングリラ」がまさかの麻雀SF。作者の短篇集『星雲組曲』は国書から出ているが、うっかりして買っていなかった。他の作品もこんな感じなのかしら。

『天冥の標 VIII ジャイアント・アーク Part1』 小川一水 ハヤカワ文庫JA
 ついに物語上の円環がつながり、1巻のストーリーのB面が語られる。
 本書の章題は、1巻『メニー・メニー・シープ』(上下)の章題に「B」がついたものだ。ここまで密接につながるとは思わなかった。これはぜひ1巻を読み直さないといけないだろう。
 だが、本書の冒頭「断章」は異なる。ここではいきなり1千万光年を越えるとほうもない時間と空間の広がりが語られる。この超銀河団に含まれる3百兆個の恒星の、知的生命による議論ストリーム。そこではこの宇宙に迫る危機が語られていた。うわー、これぞSF。あの銀河規模の「断章」がここまでになっているとは。
 で、その後、前巻からも続くイサリの物語が始まる。本書の主な主人公はイサリだ。過去と外部を知るイサリの視点で、過去を忘れ閉じこもった世界での生存と戦いが描かれる。イサリと同様、過去を知っている読者にとって、本書と1巻で一番大きく印象が異なるのは、〈石工〉たちだろう。何とも哀しい物語だ。
 1巻で描かれた戦いの裏側に、さらに大きく激しい戦いがあったのだ。しかし、本書ではまだ不明な点も多い。特に1巻でも登場していた外部世界との関わりについて、どう決着するのか。半分くらいは見えてきた気がするが、まだわからない。外部の存在であるミヒルたちと、さらにその外部の世界との関係はどうなっているのか。次巻は下巻でなくPart2というくらいだから、さらにPart3などへと続くのだろうが、早く続きが読みたい。
 それにしても(ダダーやフェオドール、カヨといった連続的な存在はあるにせよ)この世界の何百年も切り離され、閉じ込められ、制限されているという閉塞感。それが開かれていくことはあるのだろうか。ぼくはこういう話に閉所恐怖症的な恐怖とともに、にもかかわらずそこで生き抜いていくものへの、たまらないドラマチックな魅力を感じる。実際それは、何度かあったという地球の全球凍結時に、数百万年の間、氷の下で細々と生き抜いてきた生命たちへの思いと同じものだ。

『霧に橋を架ける』 キジ・ジョンスン 創元海外SF叢書
 「スパー」が話題となった60年生まれの米国作家、キジ・ジョンスンの日本オリジナル短篇集で、11編が収録されている(2012年の短篇集 At the Mouth of the River of Bees がベースになっているが、未収録の作品も含まれている)。うち4編がSFマガジンに翻訳あり。
 どの作品もSFという枠にはとらわれない、幻想的な作品だが、クラリオン・ワークショップ出身で、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞などを受賞し、おもにSF雑誌やオリジナルアンソロジーで活躍していることからもわかるように、その基本にはSF的、あるいはスペキュレイティヴ・フィクション的な想像力がある。
 「26モンキーズ、そして時の裂け目」や「陳亭、死者の国」、「ポニー」のように、ブラッドベリが書いたといってもおかしくないようなファンタジイ作品もあるが、その想像力はとても硬質だ。ほとんどハードSFといってもいいくらいである。また、「水の名前」のように、携帯電話から聞こえる水音が、宇宙的なイメージへと広がり、まさにSF的なセンス・オブ・ワンダーを感じさせる傑作もある。
 表題作と「蜜蜂の川の流れる先で」は、いずれも水ではない幻想的な「川」(スティーヴン・キング的な「霧」だったり、「蜜蜂」だったり)によって隔たれる世界を描いた作品だが、とりわけ表題作の方は骨太な土木工学SFといってもおかしくない傑作だ。ぼくは、その異世界での土木工事の進め方に、プリーストの『逆転世界』を思い起こした。主人公がエリートながらバランスのいい人物で、工事現場の地域住民の暮らしや環境を重視したり、人間関係を大切にしたりと、好ましく描かれているのが心地いい。しかも単なるエンジニアではなく、巨大プロジェクトの管理者として、さまざまな事務仕事、書類仕事にもやりがいを感じているというのが面白かった。あんまりこの手の主人公っていないよね。
 喪失、孤独、コミュニケーションの不在(あるいは断絶)を描く作品が多いのは事実だが、そこに「橋」を架けようとし、決してその努力を笑わないのが作者の特徴だといえる。訳者は後書きで「淡々と容赦ないが"意地悪”なところはない」と書いているが、まさにそんな感じだ。
 「スパー」は狭い救命艇の中で、宇宙を漂いながら、不定形なエイリアンと二人きりでひたすらからみあう女性飛行士の話だが、人間的な意味でのコミュニケーションはなく、あるのは肉体的な接触のみである。だが「橋」とは結局そのようなものではないのだろうか。何らかのインタフェースであり、交通によって(必ずしも交流じゃなくてもいい)互いに何かの変化が生まれる。その変化は自分ではわからないものかも知れない。この小説でも、それが何かはわからない。でも最後にエアロックが開くとき、確かにそこに何かはあるのだ。


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