続・サンタロガ・バリア  (第143回)
津田文夫


 ここんところジャズばかり聴いている。ジャズも聴くという程度のファンなので、お気に入り以外はまず聴かないできたけれど、今年出たソニー/RCAレーベルの廉価盤が結構気になってぽつぽつと買ってきた。それと、ジャズ通の知り合いに、このシリーズのビリー・ホリデイ「レディ・デイ」を買おうと思うんだけど、と話したらジャズボーカルは100枚持ってるからと言って貸してくれた。すべてダビングCDだったけれど。
 そんなわけでジャズばかり聴いているのだけれど、ここ(聴き始めから40年あまり)にきて、何となく東海岸/黒人主流と西海岸/白人主流がわかり始めたような気がする。別にその解説をする気はないんだけれどね。

 ジャズ・トロンボーンの第一人者として知られるJ.J.ジョンソン「ブルー・トロンボーン」は、J.J.の驚異的なテクニックが楽しめる有名な57年録音の1作だけど、ピアノがトミー・フラナガン、ベースがポール・チェンバース、ドラムがマックス・ローチとメンバー全員が黒人で、この後に聴いた64年作のバルブ付きトロンボーンの白人プレーヤー、ボブ・ブルックマイヤー「ブルックマイヤー&フレンズ」は、スタン・ゲッツのテナーにヴァイブでゲイリー・バートンが参加しているけれどもともに白人で、リズム隊がハービー・ハンコックのピアノ、ロン・カーターのベースにエルヴィン・ジョーンズのドラムという変な組み合わせ。ハービーとロンは当時マイルス・デイヴィスのもとで活躍中のバリバリの若手だけれど、エルヴィンみたいないかにも黒っぽい感じはないから、全体的な雰囲気はメロディーを担当する白人プレーヤーの楽器が醸し出す。録音年代の差もあるだろうが、確実に空気が違う。まあ、昔からジャズを聴いているときは、それなりに感じることはできていたんだろうけれど、改めて強く感じた次第。

 スタン・ゲッツは膨大な録音を残しているので、聴いているのはわずかだけれど、40年代末から60年代まで、2,3枚ずつ持っている。50年代のライヴ演奏「アット・ザ・シュライン」でも司会に「クール」と冗談めかして紹介されているテナー・サックスは、それでも結構燃える演奏を繰り広げているように聞こえる。これが60年代前半に大ヒットでゲッツの代名詞となったボサ・ノヴァアルバムでは、ホントにクールだ。60年代半ばに、スタン・ゲッツはチック・コリアを入れてコリアの曲を吹くようになる。ブルックマイヤーのアルバムでハンコックと演奏したことが、チックを入れるきっかけになったようにも思える。

 今回のソニー/RCA廉価盤に入ってびっくりした一枚にスタン・ゲッツ「キャプテン.マーヴェル」がある。72年作品で、ジャケット表は少年時代のゲッツで裏に当時のゲッツという普通ならキャリアを回想するか原点に立ち戻ったことを意味しそうな作りにもかかわらず、内容は表題作がリターン・トゥ・フォーエヴァーのセカンド・アルバム冒頭の曲であるように、バックがチック・コリアをはじめとするリターンのメンバー。ただし、ECM作ではドラムも叩いたアイアート・モレイラはパーカッションに専念し、ドラムにはマイルスグループを卒業してジャズ・ロックへ進出したトニー・ウィリアムスという、ちょっとスゴそうな組み合わせ。演奏曲も「ラ・フィエスタ」「500マイルズ・ハイ」に表題曲。ボーナス・トラックに「クリスタル・サイレンス」とまんまゲッツのコリア曲集(まあ「ラッシュ・ライフ」なんてスタンダードも入ってますが)。ところがこれがちっともおもしろくない。チックのグループはもはやハードバップ以来のジャズを演奏していないのに、スタン・ゲッツはいかにもなジャズを演奏しているうえに、ジャズ・ロックで暴れまくるトニーのドラムはまるで噴火中の火山みたいにやかましい。このアルバムの聴き所はトニー・ウィリアムスかもしれないなあ。トニーのドラムは常に一瞬先にリズムを推し進めて演奏の未来を創り出すので、合わせることのできるミュージシャンは少なかったんじゃないかと思う。「イン・ア・サイレント・ウェイ」でトニーにひたすらハイハットを叩かせたマイルスは偉かった。

 ソニー/RCA以外にも廉価盤は出ているけれどその中から買ったのは、プレスティッジ・レーベルのシダー・ウォルトン「シダー!」67年盤。前に紹介したアート・ファーマー・クィンテットにサイドメンとしてしゃれたピアノを弾いていた黒人ピアニスト。村上春樹が音楽エッセイでこの人をフェイバリットとして取り上げている。ウォルトンは作曲もよくするので、ここでは6曲中4曲が自作。曲自体はスタンダード的ではないけれども、67年当時のハードバップを経験したメンバーを中心にいわゆるジャズの雰囲気を大事にした演奏は、上品でテクニカルなピアノ演奏とあいまって、とても聞きやすい。

 ジャズCDの話ばかりしていてもしょうがないので、ビリー・ホリデイの話は次回にすることにして本の話に移ろう。

 藤井大洋『オービタル・クラウド』は3月に読んでいたんだけれど、なぜか前回言及するのを忘れていた。作品としては前作よりも充実した仕上がりで、エンターテインメントとしてまたSFファン向きの近未来小説としてそれなりにハッピーな物語が展開していて、その点では十分な1作。ただし、復讐に燃えて北朝鮮の傀儡と化した日本人技術者やこの作品のメイン・アイデアを担ったイラン人科学者への視座について、そこまで現時点での政治的善悪にはまらなくても良かったと思うけれど。

 訳者の小川隆さんからいただいたラヴィ・ティドハー『終末のグレイト・ゲーム〈ブックマン秘史3〉』(ありがとうございます)は、死んでしまったマイクロフト(ホームズ)の元秘蔵っ子殺し屋スミスが隠退生活から引き戻されるところから始まる。めまぐるしいアクションの連続とフーディーニをはじめくるくる変わるメインキャラクターのおかげで、あっという間に読み終えてしまったけれど、話がわかったかどうかははなはだ心許ない。基本的には異世界と一時的に通路が開いてしまった19世紀的な地上で、異世界からやって来たトカゲ族が女王となって君臨するするビクトリア朝イギリス帝国をメインに、実在の人物と架空の人物が入り乱れて、世界の成り立ちと支配を巡る情報戦を繰り広げたことになるのかな。情報戦のわりにはアクションと殺人(人とは限らないが)満載で、なんでもありだけれど、ブックマン自体の正体も一応この巻で明かされるので、とりあえず大団円ということになっている。しかし、人格吸収は反則技ですね。

 ジョー・ウォルトン『図書室の魔法』はヒューゴー賞ねらいといわれても仕方がないくらいSFファン、それも4、50代あたりをメインターゲットにした1作。まあ、主人公の女の子の境遇と妖精が見える話は微妙な感じがつきまとうけれど。
 セラズニイ・ファンとしては、英語ネイティヴが読んでもあの文体がゼラズニイの最大の魅力であると明確に語ってくれていてうれしい(作品中に言及された数多くの作家のファンはみんなそれぞれが主人公の評価に一喜一憂するんだろうから、SF賞を総なめして当然だ)。
 訳題はあまりにも平凡なシロモノだけれど、原題のAmong Others はかなり抽象的で、作品の内容を象徴しているともとれる。この少女の語りから生じるダーク・ファンタジーと彼女が好むSFとは必ずしもつながっていないように思えるのは、やはり作品自体がファンタジーとして機能しているからかもしれない。SF的思考は主人公の魔法に関してやや説得力を欠く方向で作用しているように見えるのが、違和感の元なのかも。それにしても分冊にして出す理由は何だったんだろう。

 新☆ハヤカワSFシリーズから出た久しぶりのフランスSF、ロラン・ジュヌフォール『オマル 導きの惑星』は、待っていたのに地元の本屋に入らず、結局ネットで購入。現代フランスSFといううたい文句に、サンリオSFを期待してしまった所為で、のっけから古風な宇宙種族と舞台設定に思わず眉につばをつけてしまった。まあ、タイトル自体にミスリードが入っているなんて思いもしないわね。
 空中海賊に襲われる辺りからようやく調子が出てきて、アメリカSFの影響が生で出ていることや、本歌取りくさいアイデア(同じことか)もあまり気にならなくなってきた。本来の謎一部が結末近くでようやく明かされてオシマイなので、こりゃ次作を読むしかないよね。それにしてもメイン・キャラクター級をこうもあっさり捨てるというのは最近の流行なのか。

 ハヤカワSFシリーズJコレクションで出た仁木稔『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』は、この作者独特の未来史の始まりの時代を描いた連作短編集。一読、これまでの作品から一皮むけたような切れ込みの鋭い作品に仕上がっていることがわかる。これまでの作品にはいかにもSFファンが好きそうなコーティングが施してあったように思うけれど、ここではそのコーティングがより苦くシビアなものになっている。まあ、タイトルからもそれは予想されるが、これらの作品には伊藤計劃以降という言葉が具体的に適用できる気がする。岡和田晃の解説は相変わらずハリセン入りだけれどよくできている。

 東京創元社からいきなり(という感じで)出た牧眞司編『柴野拓美SF評論集 理性と自走性―黎明より』は、編者の思い入れが詰まった柴野さんの文章集成。600ページを超える柴野さんの文章につきあって思うのは、やはり正直でブレない頑固一徹なSFファンの第一人者だったんだなあということ。
 柴野さんと個人的に話をしたことはないけれど、宇宙塵20周年を祝う会のコスミコン77には参加していて、関係ないけど九段会館近くのインドカレー屋で初めて本格的なインドカレーを食べたことを覚えている。あと、ダイナコンEXで大野万紀さんが柴野さんと立ち話をしているときに紹介されたような気がするなあ。
 それにしても追悼本としてこれだけの集成を作った編者には頭が下がる。たとえ索引や年表がないという画竜点睛を欠くところがあったとしても、それは別の補遺があればいい話だろう。でもタイトル中の「黎明より」は、なくてもよかったのでは。

 ノンフィクションは今月も読めなくて、4月に新潮選書で出た平山周吉『昭和天皇「よもの海」の謎』だけ。これを読もうと思ったのは『CDジャーナル』で片山杜秀が連載しているクラシック音楽のコラムに紹介されていたから。
 太平洋戦争に突入間近の昭和20年9月、開戦に踏み切るかどうかの御前会議が開かれ、彼我の生産力の格差から早期に開戦にもちこもうする東条陸軍大臣や杉山陸軍参謀総長軍部それを援護するような海軍首脳部の議論に対し、昭和天皇は異例の発言として日露戦争開戦時に明治天皇が詠んだ和歌「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を示して、開戦に反対の意思を示した。その意味をその場で了解したはずの東条や杉山たちが次の日には開戦強行派に立ち返ってしまい、結局天皇はやむを得ず開戦を承諾せざるを得なくなった。これはその経緯をかなり大胆な推測を交えて解き明かし、この歌がもたらした衝撃を戦後の長い時間を生きた昭和天皇の言葉のなかに探って検証した作品である。
 片山杜秀推薦というだけあっておもしろいんだけれど、作品としては軽い流れになっているのは、たった一つの和歌をもとにあの膨大な戦争をもたらした戦時体制の核心を説こうとしたからで、さすがにその重みを支えるだけの論にはなり得ていないからだ。あと、御前会議開催時に陸軍の政策担当官だった石井秋穂が敗戦の日を回想して、「よもの海」に言及する一文がこの作品の最後に置かれているのだけれど、あまりにも決まりすぎていてノンフィクションとしてかっこつけすぎと感じられたのもマイナスか。

 今月の積ん読消化は、なんとホメーロス『イーリアス』。呉茂一訳の岩波文庫で上巻は1979年10月29刷、中巻は同じく7月26刷、下巻は1978年8月23刷。
 なぜか急に読みたくなってボロアパートの書庫を探すと、上巻と中巻はすぐに見つかったけれど、下巻が行方不明。ま、次にくれば見つかるさとおもって、2冊だけ持ち帰って読み始めたのが大間違い。中巻を読み終わる頃になって再び探してみたが、全く見つからない。しかたなく新刊でと思ったら岩波文庫はすでに松平千秋の新訳版ホメロス『イリアス』上下2巻本となっていたのだった。もはや呉訳の中巻も読み終わってしまったし、ま、筋を追えればいいかとアバウトに下巻を掴み買って帰ると袋から出てきたのはなんと上巻だった。わざわざ時間を掛けてジュンク堂までいったのにこのていたらく。あまりのショックにネット古本屋で呉訳下巻を注文しようとしてググったら、価格一覧ページに良品1円送料257円というのを発見、ものは試しとポチっとやったら新刊屋とちがって数日後に届いた。届いたのは昭和36年11月4刷で、まあ1円ならこの程度かというものだったが、いかんせん強烈な古本臭がして日干しにしても耐えられないくらい臭い。ここにいたってようやく半日掛けても探し出そうとボロアパートの完全捜索を決心し、よく晴れた日の午後まなじりを決して自転車を漕ぐこと20分、汗だくになり水分を補給しつつ、捜索開始。岩波文庫が詰まった棚から初めて1冊ずつ確かめながら、3番目の文庫本棚で下巻を発見。雑多なエンターテインメント文庫本が詰めてある棚だった。なんでこんなところにポツンと挟まっていたのか、疑問は沸くが、それよりも意外に早く見つけてしまい拍子抜け。ということで、無事呉茂一訳『イーリアス』を読了できた。
 オリジナルの『イーリアス』とはいえ、古くはシュリーマンの子供向け発掘本から近くはダン・シモンズ『イリアム』まで、超有名なエピソードのほとんどはどこかで読んだような話ばかりという結果になったわけだけれど、呉茂一の微に入り細にいる訳注が面白いし、ゼウスにヘーレー、アポローンにアテーネーら神様連中の人間くささたっぷりの駄目さ加減がおかしい。一方人間の英雄たちが神様連中の助太刀が勝敗を分けていることを知りながら運命に従っていくのは不思議に感動的である。
 ちなみに松平訳は読みやすさ/スピード感優先で、呉訳が詩行を大事にした形式で訳しているのに対し、散文形式になっている。どちらがよいというものでもないが、とりあえず呉訳で読んでよかったなあと思う。
 ついでにこれは以前にも書いたけれど、呉という姓は呉市にはなく、江戸時代に呉の山田村出身で広島藩の御典医になった山田黄石が江戸に出てのち、故郷呉を思い呉姓を名乗ったのが呉姓の始まりで、その子孫が代々が統計学や医学や語学において一家をなしたため、明治から大正昭和にを通じて東京の呉一族は学者の家系として知られるようになったのである。この呉茂一もその一人。


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