内 輪 第284回
大野万紀
桜も散って、新緑の季節。でもこの夏はとんでもない猛暑になるのだそうな。そんなこと知りたくもないんだけどなあ。
大森望さんが『NOVA』でSF大賞の特別賞を受賞し、受賞者は自動的に日本SF作家クラブの入会資格をもつということだったが、反対動議が出て入会を否決されたとのこと。そう聞いたときはコニー・ウィリスの繰り返しギャグみたいな感じで「またかいな」と笑ったのだけど、だんだんと笑い事じゃないみたいな雰囲気になってきたので、ここでは自粛。何というか、不謹慎な感想ばかりが浮かぶのですが。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『超時間の闇』 小林泰三・林譲治・山本弘 創土社
創土社が出しているクトゥルー・ミュトス・ファイルズのシリーズ。これは昨年11月に出た本で、小林泰三、林譲治、山本弘のハードなSF作家3人が、それぞれラヴクラフトの「超時間の影」を題材に競作している。
小林泰三「大いなる種族」は、登場人物の議論好きな理屈っぽさなどがいかにも作者らしいが、わりとストレートなクトゥルーものに仕上がっている。ストーリーはあんまりなくって、精神憑依によって巡っていく超未来や超過去のモンスター図鑑の趣があり、昔のクトゥルーものってこんな感じだったなあと思わせる。精神憑依による時間・並行世界旅行というテーマなので、作者ならもっと現代SFっぽいハードな作品も書けたのではと思うが、それではクトゥルーものらしさが乏しくなると思ったのだろうか。愛だねえ。雰囲気だけで話を放り出したようなところまでも含めて、まるごとクトゥルーだ。
いっぽう林譲治「魔地読み」は、もう一つの現代の日本、独裁者の県知事が支配する戦時体制の地方で、それに反抗する「魔地読み」という謎の人々の存在を描く。こっちは本格的なサスペンス小説の味わいがあり、それが途中からチャイナ・ミエヴィルや北野勇作を思わせるような多重化した街(魔地)の描写から、現代ハードSFのテーマにも接近していく。最後はちゃんとクトゥルーになるのだが、これは普通に面白かった。
こうしてみると「超時間の影」のイース〈大いなる種族〉にはホラーというよりSF的なロマンの方が勝っているといえるな。どこかで「本当は恐ろしいクトゥルー神話」という笑えるキャッチコピーを見た記憶があるが、確かに本書には超自然の怖さはほとんどない。
山本弘「超時間の檻」は何と小説ではなくて、200パラグラフのゲームブックだ。タイトルどおり時間ループがテーマになっていて、読者は何度も同じところをループさせられるのだが、その度に背景情報が変化しているので内容は違ってくる。ちゃんと全部やってはいないのだけど、昔『火吹き山の魔法使い』などにはまった身としては懐かしい感じがした。今ならパソコンのアドベンチャーゲームツールなどでデバッグは比較的楽にできるのだろうとは思うが、昔はカードとフローチャートでチェックしていたのだな。デバッグはできても、それとパターンごとに整合性のある面白いストーリーが作れるかというのは別の話なので、さすがとしかいえない。ちゃんと途中の状態を記録しておくためのメモ用紙も付属しているという親切設計だ。
本書の巻末解説は編集者の増井暁子さんが書いているのだが、これがいい。「超時間の影」について「私はクトゥルー神話の中でこれほど「怖くない」と思った話はない。なぜなら、彼が過ごした世界――巨大な建築物、幾何学模様の岩床、今まで見たこともないような模様の月――があまりにも魅力的で、身体的迫害もなく自由旅行ができて、五年で帰ってこられるならぜひ自分も「精神交換」されてみたいと思ったからだ」と書いている。同感。まさにSFファンの感覚だといえるだろう。
『クトゥルーを喚ぶ声』 田中啓文・倉阪鬼一郎・鷹木骰子 創土社
創土社のクトゥルー・オマージュアンソロジー。これは2月に出た本。
ずばりラヴクラフトの「クトゥルーの呼び声」を題材にした3編(鷹木骰子はマンガ)が収録されている。もっとも田中啓文の「夢の帝国にて」は邪神召喚の儀式のおどろどろしさがいつもの田中啓文で読ませるが、話は宇宙的に大きく、何とクラーク『楽園の泉』へのオマージュでもある。宇宙と地球を結ぶ軌道エレベータを、芥川龍之介の蜘蛛の糸にたとえていて、つまり地球こそ地獄だというのだ。またクトゥルーをどう発音すべきかにもこだわっていて、召喚の呪文のくだりは圧巻だ。まあ基本的に現代のクトゥルーものって怖いホラーというより別の何か(どっちかというとマニア向けのパロディっぽいもの)になりがちだが、これは破滅SF寄りで成功した作品だといえるだろう。
倉阪鬼一郎の「回転する阿蝸白の呼び声」は、もっとストレートなクトゥルー・パロディ。回転寿司チェーンで供される謎の白身魚「阿蝸白(あかしろ)」。阿蝸湾で採れるというその魚の姿を見たものは誰もいない。ジャーナリストがその謎を探ろうとするが。まあどうなるかは想像できるというものだ。「根来巫女言」とか、駄洒落や語呂合わせにこだわりがあり、ひきつるような笑いの要素もある。ただ「クトゥルーの呼び声」にしては、ちょっと話が小さい(地域限定で、せいぜい日本全国まで)と思った。クトゥルーが単なる怪物で、欲の皮の突っ張った人間たちに捕らわれているというのも、ちょっとねえ。スケールダウンしたパロディものとしては面白いのだが。
鷹木骰子「Herald」は、菊地秀行「バンパイアハンターD」のマンガ版の作者による、ホラー味豊かなマンガ作品だ。海辺の町での奇怪なできごとを描いているが、ストレートなクトゥルーものというよりは、それに触発された独自の作品といえるだろう。ちょっと耽美が勝っていて、クトゥルーのどろどろした不気味さ、おどろおどろしさには乏しいといえる。
『〔少女庭国〕』 矢部嵩 ハヤカワSFシリーズJコレクション
日本ホラー小説大賞を受賞した作者による書き下ろし長編。タイトルには〔 〕がついている。SFマガジンに載った著者インタビューによると、これはずばり閉塞感を表しているそうだ。閉塞感。まあ確かに。「帝国」が「庭国」となっているのも、非現実な箱庭世界を示しているのだろう。
本書は「少女庭国」と「少女庭国補遺」の2パートから成っている。卒業式へ向かうはずの女子中学生。気がつくと薄暗い狭い部屋の石の床に寝ていた。部屋は石造りで、向かい合わせに鉄の扉が二つあり、一つはノブがなくてこちらからは開けられず、もう一つにはノブがあり、張り紙があった。「ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n-m=1とせよ」と。ノブのあるドアの向こうも全く同じような部屋で、そこには一人の中3女子が寝ており、ドアが開くとその子も目覚めた。という話。
本書が二つのパートに別れているのは、一つ目がn=0の話だからだろう。二つ目のパート「補遺」は、1から無限に続く任意のnの話だ。ドアが開くというイベント無しで目覚める場合(n=0)と、イベントが発生して目覚める場合の二つの場合があるということだな。
以下、完全にネタバレで書いていくことになるので、要注意。女子中学生たちが閉じ込められて殺しあうバトロワ的な話かと思ったら、だいぶ雰囲気の違う、変な話だった。SFでいえば、時間ループものや進化テーマの変種ともいえるが、もっとずばりといえば、コンピュータシミュレーションのログっぽい。女子中学生というアイテムをセルオートマトンにして、与えられた条件下で無限試行するライフゲームのログ。条件としては、明記されていない環境条件の方が重要で、それは一方通行の扉(いったん開けると障害物を使って開けっ放しにすることは可能)によって方向性が決められた閉鎖空間の存在と、その扉を開けるというイベントによって起動される新たな少女の発生だ。そして少女たちがたまたま持っていた所持品。最初ははっきりしないが、部屋の数と少女の数は無限定(事実上無限)と設定されており、となれば、殺し合いを暗示する、いかにも意味ありげな張り紙の条件は実質的に無意味となる(その条件が満たされたとき具体的にどうなるのか全く不明確だから。本書でもそこにはあまり興味がないようだ)。それより資源がほとんどなく、食糧が乏しい(だから人肉食が必要となる)ことが、基本要件である。もっとも他のリソース(特に水など)が未来方向の少女たち以外から得られないとすれば、後半の展開はとうてい不可能と思えるのだが。
いかにも現実感がなく、ロジックにも無理がありありな設定だが、セルオートマトンであるにもかかわらずアイテムは一応いまどきの女子中学生なので(名前にみんな「子」がついているのが、いかにもオートマトンっぽい)、その行動には人間的なバリエーションがある。とはいえ、条件が厳しすぎて、バリエーションもほとんど枝切りされてしまい、大きく見れば大した違いはない。特に「補講」になってからはまさにログを読んでいる感じで、だんだんと疲れてくる。SF的には、この閉鎖環境の中で大帝国の興亡が繰り返されたり、扉の一方通行性が擬似的な過去と未来の時系列を作り出していて、バリントン・ベイリーばりの面白さはあるのだが、どうしてそんなことが可能なのか、根拠や説明に乏しく、納得できるとは言い難い。それでもグロテスクで悲惨な話のはずが、あっさりとした書きっぷりなので、それほどのえげつなさがないのは助かる。「庭」という言葉がシミュレーション性を強調しているのだろう。
『時が新しかったころ』 ロバート・F・ヤング 創元SF文庫
ヤングの初訳の長編。とはいえ、『時の娘』所載の同名の中編をほとんどそのままに長篇化したものである。
出版されたのは83年だが、実質的には中編の書かれた64年の作品だといっていい。だって、とうてい80年代のSFとは思えない内容だもの。
白亜紀にトリケラトプスの擬装をした武装タイムマシンでやってきた30過ぎのおっさんが会ったのは、11歳くらいの女の子とその弟。二人は悪者に誘拐されて火星から来た王女と王子だった。びっくり。彼らは悪者たちと戦い、白亜紀の世界でキャンプを楽しみました。そして……。
まあロマンティックで可愛らしく、「SFが新しかった」ころの昔のジュヴィナイルの雰囲気だ。とはいえ、ボーイ・ミーツ・ガールならぬロリなおっさん・ミーツ・ガールで、このおっさんが、相当いらいらさせられるし、はっきりいって気持ち悪い。うちの娘を絶対近づけたくないタイプ。というわけで、引き延ばされたストーリーもアクションもわりとどうでもよく、ツンデレな王女様はよかったけれど、正直なところぼくにはあんまり楽しめないタイプの作品だった。
『バベル』 福田和代 文藝春秋
新型脳炎のウィルスによるパンデミック。だが、その死亡率よりも脳の言語領域が破壊されて言葉が話せなくなり、場合によっては理解もできなくなるという症状の方がより恐ろしい。一度感染すると発症しなくても、回復してもずっと保菌者のままとなるという設定である。
感染者が1千万人を越え、日本政府は「長城」を建設して、感染者と非感染者を厳重に隔離する政策を取る。長城の外、感染者の住む地域にも、一見これまでと変わらないような日常がある。主人公の悠希は感染者だが言葉を失うことなく、ムーン・レディと名乗って世界へ情報を発信する。その恋人、渉は感染して言葉を失い、今では感染者たちの過激派に属しているようだ。アメリカから来たジャーナリストのウィリアムは、長城の向こうへ侵入し、ムーン・レディと接触する。だが彼の本当の目的は、日本で消息を絶った恋人のテッドを探すことだった。
パンデミックの発生時点と、その後の変貌した東京を交互に描き、やがて政府首脳のたくらむ恐るべき計画が明らかになる。パンデミックものではあるが、本書ではあまり大量の死者が出ることはない。それよりもコミュニケーションができなくなる、少なくとも大変困難になるということの方が重大な問題として扱われている。そういう意味でも、本書は言語テーマのSFに接近し、実際にとてもSF的なアイデアが語られるのだが、それはほのめかしに終わり、あくまでも近未来バイオパニックものとしてストーリーが展開する。
後半の主題となる恐るべき計画は、穴が多くてあまり論理的とはいえない。だが、恐怖に狂った権力者の発案として描かれているので、納得できないわけではない。とはいえ、「長城」で国民を分断し、恐ろしい計画を立てるということを推進した側の観点も、もう少し深く描いた方がわかりやすかっただろう。