続・サンタロガ・バリア  (第141回)
津田文夫


 3月もいつものようにあっという間に過ぎ去り、花見かあと思ったらすでに散っている。毎日何をしていたのかなどと思い出すこともできない。高円宮妃殿下のご案内を担当したり、イギリスから来たお年寄りたちを大山祇神社連れて行ったりしたのは確かだが・・・。

 最近はジャズの1000円盤が大量に出ていて時々買っているのだが、ショップでいろいろ眺めていたら、今年になってソニーが出したシリーズに、アート・ファーマー「The Time And The Place」があったのでびっくりした。
 40年ほど前、ジャズを聴きだした頃に買った1枚だけれど、廉価盤だったとはいえ、なぜこんなものを買っていたのか全く思い出せない不思議な盤だ。ジャズを聴いている人にこのタイトルを告げてもたいていは、エーどんなヤツだったけといわれるくらい影の薄い一枚。浪人時代に何回か聴いて、グローフェのセミ・クラシック「組曲大峡谷(グランド・キャニオン)」から「山道を行く」を演奏していたことが記憶に残っただけで、その後は聞くこともなかった(当時グローフェ「組曲大峡谷」はそれなりに有名曲で、アーサー・フィードラーとボストン・ポップスで聞いていた)。
 棚から取り出すと、帯に日本初CD化と書いてある。懐かしいジャケットをみながら買って帰り、40年ぶりに聞いて驚いたのが、拍手が入っていたこと。疑似ライヴだったのである。やー、すっかり忘れていた。改めてジャケットの小さな英語ライナーノートと日本語解説を読むと、これは1967年発売でニューヨークのMoMA(現代美術館)でのライヴという触れ込みだったらしく、原文解説もライヴ録音したように読める。しかし、録音はクインテットのマルチモノ録音で拍手が疑似ステレオっぽい。マイルス専属プロデューサーのテオ・マセロが、コルトレーンやコールマンやアイラーが最先端を担っていた時代、そてマイルスさえエレクトリックへ移行直前というときに、当時としても時代遅れなこんなジャズ・ロック風アルバムをつくっていたんだなあ。まあ商売ということか。原文解説にフリーやアヴァンギャルドに辟易しておられる皆様にオススメ!と書いてあるし、日本語解説には日本発売当時好評だったらしいと伝聞形で書いてある。オールド・スタイルが聞きたいジャズ・ファンにはモテたかもなあ。
 そんな時代も遠い過去となった今、フリューゲルホーン中心のこのアルバムは結構耳に心地よい。メンバーはハードバップ時代にそれなりに名をなしたメンバー、ジミー・ヒースのテナー、ウォルター・ブッカーのベース、ミッキー・ローカーのドラムにシダー・ウォルトンのピアノで、調子のよいナンバーを好演している。「シャドウ・オブ・ユア・スマイル」とか「メイク・サムワン・ハッピー」とかのポピュラー曲が楽しく聴けてうれしい。二十歳前の自分にはこの楽しさはわからなかったろうなと今にして思う。でも拍手はいらん。

 これに味をしめて、もしかしたらわが最愛のジャズ・ピアニストであるジョージ・ウォーリントンのこれまた最愛の1枚「Knight Music」も出ているかもと思い、ググってみたらなんと2年前に1000円盤になっていたのを発見、早速HMVに注文した。
 「ナイト・ミュージック」はこれも40年前の浪人時代、当時はいくつもあったオーディオ各社のショー・ルームをハシゴしていて、パイオニアのショー・ルームでたまたま耳に入り、その後一番のお気に入りとなった1枚だ。その頃はウォーリントンなんて知らなかったが演奏の洒脱さ、西洋甲冑を着て演奏しているピアノ・トリオのイラストの雰囲気に魅了された。このCDも長い間日本発売がなくこれが日本初CD化だ。
 送られてきたその日、喜び勇んでCDプレーヤーに入れ、音が出るのを待つ。始まったとたんひっくり返る。何だこれは、ステレオ録音だあ。でかすぎるバスドラ、定位しないピアノ、もろ疑似ステレオ。パイオニアのショー・ルームにあったLPも疑似ステだった可能性はある。何しろステレオを売るためのショー・ルームだったのだから。そして昔買ったLPが疑似ステレオだった可能性も否めない。しかし、頭に残っている音はモノであり、瀟洒なピアノトリオの音はバランスよく響いていた。原文解説に当時の録音のトレードマーク'HIGH FIDELITY'はあっても、ステレオ表示は当然無い。ルディ・ヴァン・ゲルダーが1956年にステレオ録音をやっていたら驚くだろう(ゲルダーの初ステレオ録音は1957年3月とされている)。持っていたLPは全部街の反対側にある崩れかけのアパートの一室に放り込んであるので、当分現物で確認できない。それにしてもいつから疑似ステにしたんだろう。

 なつかし盤ではないけれどもう一枚買ったのが、マイルス・デイヴィス「We Want MILES」。70年代半ばに轟音エレキバンドを解散して5年あまり後、復帰して直後のライヴ・アルバムだけれども、当時は復帰第1作「The Man With The Horn」を聴いてあまりのヘナチョコぶりに、それ以降のアルバムは買わなかった。
 しかし寺島靖国は『辛口!JAZZノート』(講談社+α文庫1994年初刷)に、オーディオのすごさで有名なジャズ喫茶「ベイシー」に近所のジャズ喫茶店主たちと聴きに行ったとき、寺島靖国はその音の良さに打ちのめされたと書いている。その時かかっていたレコードがこのマイルスの演奏だった。それから『CDジャーナル』にイラストエッセイを連載している牧野良幸が、もうずいぶん前のことだけれど、このCDに収録された東京新宿での野外演奏をバイトの帰りに高架歩道の近くで目撃し、ヨレヨレになって演奏するマイルスの姿を描いていた。この二つのエピソードがいつまでも頭から離れなかったので、今回聴いてみたわけだ。
 アメリカで行われた復帰ステージでの演奏では、マイルスのトランペットは結構元気がよく、東京での演奏は確かに音がヨレていた。でも復帰第1作のスタジオ盤よりははるかに楽しく聴ける。ただし、ここでの演奏のリーダーはもやはマイルスではなくてベースのマーカス・ミラーだ。このあと亡くなるまでの10年間、マイルスは多数のライヴをこなし、新作スタジオ盤を出し続けたけれど、それは若いジャズマンたちのための学校だったのかもしれない。

 ジャズの棚をじろじろ見ていたら、パット・メセニー「FIRST CIRCLE」が目について、やっぱり聴いておこうかと思ってしまい買ってしまった。坂本壱平『ファースト・サークル』の冒頭に出てくる11拍子の手拍子が直接このタイトル曲から引用されているというそれだけの理由だ。
 わが家にあるパット・メセニーの演奏が聴けるCDはただ1枚、それも現代音楽専門弦楽四重奏団クロノス・クァルテットに加わってスティーヴ・ライヒの曲を1曲演奏しているというモノだ。要はメセニーには興味がないということなんだけれど、ジャズ好きな知り合いにも確認してみたら、彼もメセニーは大嫌いといっていた。メセニーの音にはジャズのにおいがないのだ。
 それはともかく買ってきたCDは1984年の作品で、ECMレーベルでのメセニーの最終作とのこと。ECMといえば高校生の頃、レコード店内に流されていたエレピの神秘的な響きに思わずこれくださいと、なじみのお姉さん店員に駆け寄っていった「リターン・トゥ・フォーエヴァー」のデビュー作を思い出す。その後はチック・コリアとゲイリー・バートンの「クリスタル・サイレンス」やマイナーなところではフュージョン系ギタリストのテリエ・リピダルのアルバムが思い出される。プロデューサーのマンフレート・アイヒャーやオスロのスタジオで録音というのもその頃覚えた。そういやキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」もECMだったっけ。
 しかしこの演奏はニューヨークのパワーステーション・スタジオでの録音で、演奏全体を彩るのは南米音楽の雰囲気である。タイトル曲の手拍子はおもしろい発想だけれど、演奏そのものはサンバ・フレーヴァーのフュージョンで鼻歌入りのイージーリスニングに近い。9分間の演奏は盛り上がるところもあるし悪くはないが、30年前の清新さは60年近く前のハード・バップの定型的な演奏のおもしろさよりも色あせて聞こえる。あと20年たったらこの演奏もおもしろく聞こえるようになるかもしれないが、その頃にはもし生きているとしても、こちらの耳が聞こえなくなっているよなあ。

 翻訳成分が足りないということで、翻訳ばかり読んでみた。まずはジーン・ウルフ『ピース』から。今や「信用できない語り手」小説の代名詞みたいなウルフの作品だが、これもその一つ。この作品では老年となった語り手の子供時代や青年時代の出来事が入れ子になって回想される。表だったウソつきのエピソードは古書を偽造する古書店主の売った本を語り手が偽物と見破る話だが、最大の嘘つきは当然語り手だろう。ところが、不注意な読者にはその仕掛けがさっぱりわからない。訳者解説で西崎憲が「ウルフは嘘をつかない。ただ描写するだけだ。嘘をつく人間を。」と、非常に的確に「信頼できない語り手」の作り方を定義してくれている。でもボンクラな読者は気がつかないんだよね。何となく雰囲気が伝わるだけで。でもそれがこの小説を読む楽しみだと思いたい。

 前巻を読むのにずいぶん時間がかかったので、しばらくほおっておいたキャサリン・M・ヴァレンテ『孤児の物語U・・・硬貨と香料の都にて』に手を出したところ、やはり数ページのエピソードを二つほど読んでは寝てしまう。とにかく本が重たいのだ(値段も高いが)。新鮮さとバラエティでは前巻の方がインパクトがあったように思うが、こちらは大きく分けて、硬貨を作る工場にとらわれた少年と少女から始まる話と、その硬貨を受けて湖の島へ渡す船頭にまつわる話。後半は古き都と魔(女)神〈ジン〉の話が主体をなしている。もちろん少女のまぶたに書かれた物語を読み続ける枠物語の進行もある。
 この物語は、話の中の登場人物が出会った相手の話を聞き、その相手が出会った相手がまた話をするという、訳者井辻朱美いうところの「リニアな物語」で膨大な短いエピソードが積み重ねられている。20代でこの作品をモノにしたヴァレンテはたいした技量の持ち主だ。登場人物たちは荒れ狂うこともあるが、基本的には静謐な物語であり、いわゆる強靱なヴィジョンが現前するような古典的なファンタジーとは違う。またメタフィクション的な身振りは当然あるわけだけれど、それを技巧としては意識させず果てしないエピソードのロンドを奏でている。このことは、訳者解説では、現代は「まことしやかさ」への執着が失われ、「現実対異世界」ではなく「拡張現実」の時代となったとしている。まあ、人は物理的に死ぬことに代わりはないにもかかわらず、死の切実ささえ「拡張現実」に覆われてしまっているいまの現実の堅さが曖昧になっていることは感覚的には理解しうる。艦コレと『永遠の0』人気はコインの表裏でさえないもんなあ。

 ヴァレンテを読むのがちっとも進まないので、その間に手を出したのがフィリップ・カー『静かなる炎』。復活グンターもの第2作ということで、第1作を読み逃していて、躊躇していたのだけれど、読んでしまった。1950年代敗戦後のドイツを逃れてアルゼンチンに移った50代のグンターの物語と戦前ヒットラーが権力を掌握する選挙直前1930年代の物語が交互に語られ、後半はグンターの今である1950年代に集約される。ベルリン三部作が好きだったので、どうしても1930年代の減らず口グンターに惹かれてしまう。甲状腺ガンを患いながら相変わらずタフな状況を生き延び、苦い結末を迎える壮年のグンターだってまあ悪くはないが、やはりグンターは1930年代から40年代の人だろう。

 ヴァレンテとほぼ同時に読み始めたせいか、読むのにえらく時間がかかったのが、ヴァーナー・ヴィンジ『星の涯の空』。銀河の中心と外延で物理特性(だけじゃないみたい)が違い、それに合わせて思考速度や光速限界条件も違うというヘンテコな宇宙を舞台にして一面ハードSFだが、他面普通の異星冒険SF(こちらの方が物語の大部分)というシロモノ。『最果ての銀河船団』は読んでいるけれど、前作の『遠き神々の炎』は読んだ覚えがない。そのため「疫病艦隊」の脅威がいまいちピンとこない(これは主人公に対して反乱を起こす子供世代と同じだ)。いかに集合知性体〈鉄爪族〉の設定がよくできていても、やってることや考え方が人間と変わらないので、あんまり本気になってストーリーを追いかけることができない。「犬型」というところにカワイイと反応する人もいるでしょうが、ロートルSFファンには「ホーカ」でしょう。あと、身体改変に関する表現がほとんどないけれど、じつはここに出てくる人間や鉄爪族は『ハローサマー・グッドバイ』と同じように実態は見かけの物語と全然違う可能性もある。ま、ヴィンジがそこまで考えて書いたとは思えないけれど。

 コニー・ウィリス『空襲警報』はベスト短編集の後半部分でシリアス編というけれど、昔からウィリスのシリアスがピンとこなくて困っている。読み物としては非常に読みやすく、それなりに感心するのだけれど、感動はしないんだんあ。「ナイルに死す」が初読だったけれど、それ以外は再読。まあ、表題作はずいぶん久しぶりに読んで、この間に〈史学部シリーズ〉がガンガン訳されたので、結構な感慨を持って読むことができたけれど、肝心の「最後のウィネベーゴ」にはあまり心が動かされない。犬や猫に思い入れがない所為かねえ。「マーブル・アーチの風」は当方も身につまされるが、そこまでロンドン大空襲にこだわるか、というところでちょっと疑問。付録はおもしろい。

 最新イタリアSFというのがちょっと気になったので読んでみたダリオ・トナーニ『モンド9(ノーヴェ)』は、ちょっとした衝撃を感じる1作。SF的には別に新しいアイデアはないけれど、世界の描きかたや人物設定と物語の展開に日米SFとは違った感触があり、一見シリアスでサイバー/スチーム・パンク以降なスタイルに見えるが、じつはフランスSFコミックの影響が強く感じられ、それを文章で定着させているところがすばらしい。異星の砂漠を継手タイヤで航行する巨大船〈ロブレド〉が難破。タイヤユニットは勝手に逃げ出し、それに乗って船を脱出した2人の艦長と副長の話から始まり、この難破した巨大船に関連した中編が全部で4編収録されている。本文240ページというコンパクトさだけれども、奇矯なイメージの広がりやエンターテインメント系では滅多にみられない主要キャラの扱いが強い印象を残す。文体の感触はいわゆる文学というよりシリアスなコミック調だと感じられるけれど、そこにSFを感じるのかもしれない。それにしても〈9〉を使うタイトルが偶然そろったのには何かあるんだろうか。

 最後まで翻訳物をと思っていたけれど、日和ってしまい、初めて読む作家を読もうとハヤカワSFシリーズJコレクション最新作矢部嵩『〔少女庭国〕』を読んだ。読むんじゃなかったというのが、とりあえずの感想。卒業式に向かっていたはずの女子中学生が密室で目が覚め、そこには扉が向かい合わせにあるが、一方にはドアノブが無く、他方にはドアノブがあり、そこには卒業試験の指示書が張ってある。というところから始まるのだが、50ページの短編の表題作の舞台としてなら、フーンですんだものが、「少女庭国補遺」というバリエーションにはいると作者がこだわったこの設定が妄想の足かせになって空中分解してしまう。最後のエピソードにはそれなりの叙情があり、それこそ中学卒業生くらいの、まだ小説が新鮮な時代に読めば感激することもできようが、何十年も読むことの刺激を求めてきた年寄りには用がない。

 今回は翻訳小説を読むのに時間がかかり、ノンフィクションは1冊だけ。早川タダノリ『神国日本のトンデモ決戦生活』(筑摩文庫)は、戦時中の(今にしてみれば)アホバカを集めた、はっきりとした反戦思想に貫かれている1冊。カラー図版多数で、初めてこの手の資料を見る読者にはなかなか楽しい本だけれど、長年ここに取り上げられた生活を現実に送ってきた人たちに話を聞いてきた者には哀しい思いのする1冊である。まあ、戦時中の神懸かりヒステリーを嗤いのめすことは今だからこそ必要ということは確か。でも、その嗤いのめされた神懸かりを演じざるを得なかったのがわれわれの親(またはジイチャン・バアチャン)であることの恐ろしさを学ぼうとするには、不向きといわざるを得ない。


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