内 輪 第280回
大野万紀
傑作と評判の映画「ゼロ・グラビティ」を近所のTOHOシネマズで見てきました。3D字幕版です。評判どおり、これは凄い映像体験でした。衛星軌道の宇宙空間と無重力の描写が素晴らしい。というか、凄まじい。物語もストレートで力強く、テーマも明確です。スペースデブリ怖すぎ! 最後にカエルが泳いでいたのも嬉しい(NASAのロケット打ち上げの写真でなぜかカエルがいっしょに飛んでいるのがあったのです)。もちろん、あのデブリがいくら何でも怖すぎだろう、とか、軌道要素が違うのにあんなに簡単に宇宙ステーションを渡り歩くなんて、とか、最後のあれはちょっと無理すぎ、とか、落ち着いて思えば他にもきっとツッコミどころがあると思うのですが、もうそんなのぜーんぜん気にしない。ボーマンみたいなのもOK。堪能しました。あと、ジョージ・クルーニーがカッコ良すぎ。ふだんはおやじギャグばかり飛ばすうっとおしいオッサンだけど、やるときゃやるという、ある意味ステレオタイプなマッチョなオッサンですが、宇宙空間に置くとカッコいいですねえ。何とボーマン化もするし(笑えるし、感動するところです)。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『誰に見しょとて』 菅浩江 ハヤカワSFシリーズJコレクション
SFマガジンに掲載された短篇10編からなる連作短篇集。ひとつながりの物語であり、全体としてはひとつの長編となっている。化粧SF・美容SFである。『カエアンの聖衣』みたいに服飾SFというのもあるのだから、化粧SFもありだろう。服から化粧になって、より肉体に近づき、これって進化形?
それはともかく、SFのアイデアとして化粧や美容を選んだだけであれば、良くできたアイデアSFとして、なるほどそういうのもありか、で終わっていたかも知れない。作者はそこから一歩も二歩も踏みだし、化粧・美容を人間の肉体と外界とのインタフェースとして捉える。衣装・服飾よりさらに肉体に近いだけに、その界面は人間とは何か、自分と外部はどう関わるのか、見るものと見られるものとの相互関係、といった問題意識に近づく。SF的アイデアとしても、アンチエイジングや身体加工から、人体改造、サイボーグ、さらには海中や宇宙空間で暮らせる人類というコンセプトにまで発展する。
正直、想定外な展開である。美容+医療を謳う革新的な企業、コスメティック・ビッキーが、製品の目新しさと、その専属モデルの美少女リルが人気を呼ぶ、単なるベンチャー企業から、いつの間にやら世界を牛耳るような巨大グローバル企業へと発展していく経緯。そして、その人類の意識を「良い方へ」変えていくパワー。それはとても強力で、かなり危なっかしくも思えるが、本書ではそこはさらりと流して、むしろ前向きで肯定的な力をストレートに礼賛する。だからこそ、本書はとても力強く感動的で、SF的な変革と進歩のイメージに満ちているのだ。
とはいえ、やはりひっかかりも感じる。特に中盤以降の、ビッキーの強引な、ほとんど犯罪的ともいえるやり方にはその暗黒面を強く感じるし、また個人の自由を肯定し、自傷行為までも「美」のあり方として捉えようとするその倫理観には、同意したいとの思いと共に、美しければ自殺も肯定しかねない、またその行為自体が他者へのハラスメントになるような嫌悪をもよおす行為への、何らかの線引きを考えなくていいのかといった、倫理的な危うさもある。本書の中でもほのめかされているが、自分たちが正しいと思う方向を善として、強引にでも世界を変えていこうとするビッキーの姿には、明らかにGoogleが反映しているように思える。
SFファンやオタクたち、いやオタクじゃなくても普通の男性なら、化粧にはそれほどの興味を持たない人が大半だろう。でも本書では、その意味が、まさに宇宙との関わりにまで発展し、あらためて考察される。本書では、未来パートと共に、古代の日本の、縄文から卑弥呼の時代に至る人々の刺青や化粧に関わる物語が並行して語られており、化粧が単なる表面的な装飾ではなく、人の(あるいはディスプレー行為をする動物全般にとっても)肉体と環境とのインタフェースであり、表現なのだということを主張している。本書はまた、卑弥呼から美少女モデルのリルに至る、姫巫女の物語なのでもある。
『富士学校まめたん研究分室』 芝村裕吏 ハヤカワ文庫JA
ラノベ風のタイトルに表紙。ところが読んだら印象は違った。
ヒロインは自衛隊の技官で、30歳の研究熱心だが口べたで人間関係に問題のある女性。彼女がまめたんという大量生産向きの小型歩兵支援ロボットを、そのコンセプトから開発するストーリーである。ただ物語はむしろ、自らを残念な女と呼ぶ、彼女のほんわかとしたラブストーリーがメインとなっている。
見えない空気の重さに自家中毒を起こしている「残念な」30女――。いや、ここで、彼女の「残念さ」に、そんなものは男性中心社会の「世間様」から見た評価であり、否定すべき概念じゃないかと思うのは当然だろう。近未来を舞台にしているにもかかわらず、この「世間様」は今と大きく変わっていないわけで、彼女を苦しめる「残念さ」は、彼女にとって現実の、リアルなものなのである。
それは、戦争なんて誰も得をしないし、そんなもの起きて欲しくないとみんな思っているにもかかわらず、いくら観念的に否定してもそれがなくなるわけじゃない、という本書のリアルさとも通底している。
ラブストーリーもプロジェクト・ストーリーもよく書きこまれている。作者は後書きで、本書は決してリアルじゃないといっており、確かにぼくは30女のリアルも自衛隊の技術開発のリアルも実際には知らないのだけれど、それでもリアリティは十分にあると思う。というか、計画立てて工数を見積もってプロジェクトを進めていくやり方は、似たようなことをやっているぼくにもすんなりと納得しながら読めた。
しかし、攻殻機動隊のタチコマを思わせるどこか可愛いまめたんが、やがては人殺しの武器となって実戦で使われることになる。ここで書かれた近未来の極東情勢と、自衛隊員も含めて誰もがまさかと思いつつ、戦争が現実のものになっていく様子は、これまたリアルだ。色んな面でファンタジーでありながら、それがリアルに読めるのだ――困ったことに。
ところで、複数の自立ロボットの協調動作で、思わぬことができるというのは、実際YouTubeでも似たような実演の映像を見たことがあるだけに、こういうことも現実にありかと思う。やっぱり、リアルだね。
『みずは無間』 六冬和生 ハヤカワSFシリーズJコレクション
第1回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。かなり独特な傑作である。これは壊れた神と壊れた悪魔の物語。
ただし、神は衆生に興味ないし、悪魔も悪意はなく、いくつかのリミッターがちょっとバグっているだけ。さらにこの小説では神は悪魔の影響をべったりと受けてそれと一体化している。でも彼ら以外の他者には関係ない。(この小説では他者は最後に出る異星知性体だけで、それも自己の影響を受けているので、本当の意味では他者はいない。すべては自己で完結している宇宙なのだ)。
そして最後に神は悪魔と変わらないものになってしまう。他者でありながら自己に入り込み、ひたすら繁殖していくウィルスのように。あるいは癌細胞のように。テーマとしては、貪欲と依存、執着。イーガンで、外部に伝えることのできない知識の探求の意味は、という話があったけど、それどころじゃない。外部なんて、情報を取り込む相手でしかなく、そもそも他者の存在など無視というか、興味がない。何かを知らせたいでなく、知りたいのみ。一方通行。そこがみずはの悲劇の中心なのだ。
しかし、情報への一方的で病的なともいえる執着と貪欲、依存って、自分の中にもある。一生読めるはずのない本を買い続け溜め続ける強迫観念にも似たものとか。恐ろしい話ですね。
これはまた、過食症と肥大する自我の物語。宇宙パートはSFファンにはたまらない自我の無限拡大の魅力に満ち溢れている。何でも出来る子どもの神様の視点。だがそのパートはそのままごく日常的ないらいらの鬱憤がたまるみずはパートとシームレスにつながっており、二つが同じものであることを示している。逃げ出したい日常と何でもできちゃう夢。けれど、主人公が精神のみの存在になっていることからもわかるようにそれは夢なのだ。
本書の物語は現実的なリアリティに乏しく、思弁小説といってさしつかえない(少なくとも宇宙パートはそうだ)。悪く言えば頭の中だけの世界。ハードSF的な面白さに満ちており、SFとしてとても満足できる作品なのだが、すべて自分の頭の中に集約してしまい、その他はわりとどうでも良くなる。新たな知的存在を作り出しちゃったりするのも、SF的にとても面白いのだけれど(過去の名作にもありますね)、それが全て「自分」なので、もっと他の何かを、とみずはみたいに言いたくなるのだ。
本書の主人公は仮想人格なのだけど、彼がアクセスする宇宙は現実の宇宙だ――だと思うけど、その証拠はない。現実の環境だとしたら、この魔改造は無理じゃないのかな。リソースとかエネルギーとかタイムスパン、必要な時間とか。後半のとんでもない存在になってしまってからはともかく、前半の状況ではありそうもない。やっぱすべては夢なのかも。悪夢。他人の夢に浸食される、ウィルスに感染した夢。
『白熱光』 グレッグ・イーガン ハヤカワ・SF・シリーズ
奇数章、偶数章で二つのストーリーがそれぞれ展開する、探求と発見の物語。
イーガンにしてはごく大人しい印象の作品だ。テーマ的な驚きやひねりは少なく、異質性や意識の問題にも踏み込まない。異星人もポストヒューマンも、現代人のメンタリティですんなりと理解できる。このあたり、最近のSFでよくある割り切りだともいえる。
それよりも本書でのイーガンは、科学と数学の普遍性を描くのに全力を投入している(暗黒数学は出てこない)。この徹底さこそがイーガンであり、本書を傑作にしているものである。
奇数章はSFファンであればおなじみの、遠未来のポストヒューマンのお話。銀河中心へ、異星人の発見へと向う探求のストーリーである。あり方としてはポストヒューマンだが、その意識は現代人、特に好奇心に満ち、おせっかいな西欧の先進的「高等遊民」な主人公たちである。自分のやりたいことを探し求める、遊び人。ありきたりといえばありきたりだが、楽しい。
だが本書のメインは、何といっても偶数章の、異星人による物理学と数学の発見物語だろう。高校の物理の教科書を持ち出し、紙と鉛筆で書きながら読めばすごく面白いはず(ぼくは時間がなくて、そこまでやらずにすませたわけだが、それでもうん、これはニュートンの運動方程式だ、フーコーの振り子だ、微分法の発見だ、とわくわくしながら読んだ)。特に理系の高校生にはぜひしっかりと読んで欲しいと思う。相対論がからむところはちょっと難しいが、ニュートン力学の範囲はいい復習になると思う。
テンプレートというのがこの世界の数式にあたるわけだが、紙の上に方程式を書くのでなく、物理的な装置となっているので、計算機もかねている。はじめそろばんみたいなものを想像していたが、もっとアナログコンピュータ的なイメージだ。
異星人は昆虫型。メスクリンではムカデのような生物、竜の卵では軟体動物だったが、こういうのは楽しい。ぼくはついうっかりと、Gを思い浮かべてしまったので、それ以後具体的イメージは想像しないようにしている。
ということをツイッターに書いたら、小川一水さんから「私はエジプトのスカラベでイメージしていました」と返信があった。なるほど、そっちの方が賢そうでぴったりだ。何とかイメージを切り替えないと、読むのが辛いよ。ところで、彼らが種族をあげて一生懸命計算を行う姿には、その小川一水さんの「アリスマ王の愛した魔物」を思い浮かべた。