続・サンタロガ・バリア  (第138回)
津田文夫


 年末に大瀧詠一が林檎を喉に詰まらせて亡くなったというニュースがあってビックリ。そういうことで亡くなるにはまだ若いような気がするなあ。60代のみなさまは気をつけましょうね(ホントは解離性動脈瘤だったらしい)。

 HMVに注文していたケンペとキュヒとELPのCDが発売延期の影響で12月にまとめて届く。1月の引き落としが心配だなあ。と、それはさておき、ケンペはドレスデン・シュターツカペレとのR・シュトラウス管弦楽全集9枚組、シュトゥットガルト放送交響楽団とのバルトークの組曲「中国の不思議な役人」とR.シュトラウス「ツァラトストラはかく語りき」、BBC交響楽団とのマーラー交響曲第4番ほか、テスタメント・レーベルから出た1962年ザルツブルグ音楽祭シリーズのベルリン・フィルを振ったハイドン交響曲第55番「校長先生」とベートヴェンのピアノ協奏曲4番、ソロはマガロフ、それにモーツァルト交響曲第39番(これは先に注文したのに発売延期に気がつかずダブり注文)。
 9枚組は以前EMIから出ていたボックス・セットのニュー・リマスター盤で、今回はワーナー・クラシックスから出た。レコード・レーベルの合併吸収はここ10年でだいぶ進んだけれど、EMIのクラシック部門がユニバーサルからワーナーへ売られたらしい。クラシックに関する限りワーナーは信用できないというのがこれまでの個人的な印象だったけれど、この9枚組でもそれは証明されている。リマスター盤としての音質向上は評価するけれど、EMI盤にあった懇切丁寧な楽曲解説が無くなっていて、これでは「ホルン協奏曲第1番」が19歳の若いシュトラウスがホルン奏者の父親のために書いた作品で、まだシュトラウスらしい作曲法よりは先輩作曲家の影響の方が色濃く出ていること、そして2番目のホルン協奏曲は78歳になった老練な作曲家が、自身の曲の特徴であった派手な効果を押さえ技巧を凝らして仕上げた作品だということが全くわからないだろう。リマスター盤を買うのはファンしかいないという戦略なのか、それはちょっと悲しい。
 シュトゥットガルトとの演奏は「ツァラトストラ」が素晴らしい。「2001年」のテーマとして手垢にまみれたあのイントロが、虚仮威しとは無縁な響きでもって静かにわき上がる。BBCとのマーラー4番はやはり珍品だろう。バーンスタインを聞き慣れていると、非常にスッキリした響きを持つケンペのマーラーはちっともマーラーらしくない。マーラー・ファンにはケナされそうな粘り気のなさがいかにもケンペらしい。
 カラヤンをはじめ色々な指揮者の演奏がザルツブルグ音楽祭ライヴとして出てきたが、ケンペも期待の一枚だった。ようやく聴けたのはうれしかったが、レコードでは抜群の相性の良さを見せたベルリン・フィルとのやり取りが、ここではあまり上手くいってないような感じがした。それはベルリン・フィルがカラヤンのコントロール下に置かれ始めたということかもしれない。若い頃フルトヴェングラーの指揮下でオーボエを吹いていたケンペにとってベルリン・フィルはフルトヴェングラーの楽器だったんだろうな。伝説のピアニストの一人ニキータ・マガロフの演奏は初めて聴いたが、ケンペがいまひとつということもあって、マガロフの演奏もあまりピンと来なかった。残念。

 ELPは74年のカリフォルニア・ジャムと77年のモントリオールのオーケストラ帯同ライヴで、どちらも正規盤が出ているし、カリフォルニア・ジャムはYoutubeでほぼ全曲画像付きで視聴できる。それでも買うのはマニアだからだけれど、正規盤『THEN&NOW』には入っていない10分ばかりの「展覧会の絵」を聴いていて、突然「キエフの大門」の歌詞が何を歌っていたのか気がついた。何百回と無く聴いてきた歌の意味が今さらわかるというのはなかなかの感動です。もちろん英語の感覚を備えた人は1回聴いただけで気がついたろうが、40年以上聞き続けてようやくピンと来るアホウも我ながらいいものだ。何に気がついたのかというと、この歌詞は新生児が母親の胎内を抜けて顔を見せるまでを歌い上げているということに。いや、それは単なる思いこみでしょ、とツッコミが入りそうな解釈ではあるけれど、たとえ間違っていてもうれしさが湧いたことに満足がある。
 モントリールの方は正規盤『ワークス・ライブ』と数曲異同がある上、正規盤は10分しかない「庶民のファンファーレ」が、ノン・エディットで17分聴ける。まあ、これこそマニアしか相手にしていない商売だが、バカはいくらでもいるのである。

 パク・キュヒ(朴葵姫)のは国際デビュー盤がNAXOSでよかったのかという疑問がつきまとう1枚。ナクソスといっても冠シリーズの盤で、これはアルハンブラ・ギター・コンクールを主催するアルハンブラというギター・メーカーがスポンサー。キュヒは2012年の優勝者だからまあ当然CDを出すわけだけれど、使用ギターが愛器のフリードリッヒ(フランスだからフレドリックかも)以外にアルハンブラ製品を弾かされている。曲はいかにもキュヒ好みで、自身編曲のラモーのソナタからお得意のバリオスまで。セカンドアルバムに入れたバークリーのソナチネとデビューアルバムの1曲目に入れたバリオス「森に夢見る」と「ワルツ第4番」は再録音。「森に夢見る」はキュヒの名刺代わりの曲で今回は演奏時間が30秒くらい短くなっている(1回目は7分30秒)。ところが、カナダの教会で録音したというその音は、ギターはこういう風に録音するという常識で割り切られたもので、キュヒの魅力はほとんど捉えられていない上に、フリードリッヒのあまりの音色の悪さに、わざと音色を殺しているのではないかという疑いさえ生じるのである。毎年の優勝者を始め何人ものギタリストの録音を、おそらく一見で録音するのだから、あまりキュヒの特徴云々は言えないにしても、アルハンブラ製のギターの録音になると音が燦めくのは、何かあるんじゃないのかと疑われてもしようがないのではないだろうか。それから最後に入っているホセ・マニュエル・ロペス・ロペスという現代作曲家の、ハーモニクスとグリッサンドだけで構成されたいかにも現代ギターの技巧披露のみが目的な曲は、これもアルハンブラ・ギターの委嘱作品ということで、なんだかなあ。極めつけは日本語のオビ。「笑顔のステキな好青年、しかしひとたびギターを手にすると音楽の化身となる」バカヤロー。

 3Dで『ゼロ・グラビティ』を見ようと思ったら、吹き替え版しかない。それでも見に行ったのは、3Dで見たかったからだけど、これは3Dが正解なシロモノだった。ストーリー的にはこれしかないハリウッド物語だけれど、CG映像のすごさと『2001年』を初めとした各種SF映画へのオマージュ/パロディやどう考えても喜劇にしか見えない大げさな演技に、これは面白さ以外の何者も詰め込まれていない映画なんだなあと感心しきり。そういう意味でも90分が正しい上映時間な作品、上出来でしょう。

 書評を見てちょっと気になった恒川光太郎『金色機械』は、時代劇風な舞台の中に異星テクノロジーの産物である元サーバント・アンドロイドが前半は佇み、後半は動き回るという、昔のSFファンタジーを思わせる読みやすい話ではある。恒川光太郎を読んだのはこの作品が初めて。アイデアの組み合わせと落ち着いた文章は評価するけれど、作品全体に時代劇のリアリティが希薄な感じがするのはちょっとマイナスかな。

 NOVAコレクションの第3弾、北野勇作『社員たち』はオリジナル・アンソロジー『NOVA』掲載作以外にも同傾向な掌編を集めた1冊。個々の作品の読後感は初読時と大きく変わらないけれども、全体としてみると北野勇作のホラー体質が強く感じられる。でも、北野勇作の魅力はホラーそのものよりも異色短編作家的な独特のもの悲しさを湛えたユーモアにある。ここではエピローグにあたる書き下ろしの「社員の星」がその特性をよく表している。

 第1回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作というオビと何をしているのかよくわからない女の子のイラストがミスマッチな六冬和生『みずは無間』。表紙イラストに何が描かれているのかは、読了後にオビを外してはじめてドーナッツであることがわかった。
 最初からAI宣言して宇宙の旅を語る主人公とその主人公を苦しめる過食症/神経症気味の恋人「みずは」の思い出が物語を覆い尽くしているという変な作品である。ハードSF的なスターログが、いつのまにか強迫観念としての「みずは」の思い出にすり替わってしまうところは、毎回読み手を不安にさせてこの世界の成り立ちに疑問を持たせる。それ自体が作者の求めた効果だとすれば、大変なアイデアだとも思えるが、基本的に自分しかいない鏡地獄の話になってしまっているように思えて、ウジウジしている読者もその鏡を見ている気分にさせられる。これはバルンガの一人称SFだったのか。

 今回店頭に並んだ日に買って読み始めたラヴィ・ティドハー『影のミレディ』は、ブックマン秘史3部作の第2部。話はフランスそして最後にアメリカが舞台となっていて、第1部のトカゲ王国イギリスでの人間王の血を引く少年の物語は、背景の情報としてちらっと言及される程度。今回の主人公は「静かなる議会」の敏腕エージェント、身長185センチ漆黒の肌をしたミレディ・ド・ウィンター嬢、お題は「眼にエメラルドを入れた翡翠製の蜥蜴像」を巡るテンヤワンヤ。そのおかげでミレディ嬢は目玉をえぐり出されたり、手足を切り落とされたりとえらい目に遭うんだけれど、九死に一生を得たミレディはスチームパンク医学で片腕はガトリング銃、空いた眼窩には翡翠が嵌り、見事サイボーグとして復活。それが表紙の勇姿な訳ですね。話の構造は1巻同様だけれど今回はハードボイルド・ミステリのパロディ。ヒロインの名前からしてそうだけど、ミレディが最初に出てくる殺人現場調べの相棒はガスコーニュ人だ。医者はヴィクトル(フランケンシュタイン)だし、イギリス情報局の男はマイクロフト(ホームズ)で、おまけに文章途中に量子パターンとか次元間ゲートウェイ通過とか思わせぶりな言葉が埋め込まれ、その手の読者サービス満載。この話が第3巻でどういう風にケリが付くのかはさっぱりわからない。大体ブックマンはどこへ行ったんでしょうか、期待して待とう。あ、小川隆さんには前もってお礼を言っておかなければ。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ第2期第1回配本はグレッグ・イーガン『白熱光』。ということで、読むのに覚悟が要るかと思ったら、物語部分を読むだけならとても分かりやすい話だった。特に遠未来パートは一種の付け足しみたいな役割を果たしていて、単純明快なお話になっている。一方、天文学的な災厄を避けるために異星の生物たちが努力するエピソードが、遠未来パートに対して過去パートとなっていて、こちらがこの小説の主眼。過去パートもイーガンとしては驚くほど単純な一本道のストーリーだけれど、危機回避のため天文現象の数学的解法を求める異星人たちの発見は、すべて文章で説明されており、数学音痴にはこれがさっぱりわからない。その部分を除けば、物語的には昔のハードSFによく似ている。遠未来パートの主人公の決断などを見ていると、『白熱光』はジュヴナイルとして書かれている可能性がある。

 ノンフィクションに移ると、まず磯田道史『江戸の備忘録』山本博文『歴史をつかむ技法』を読んだ。薄い文庫と新書なので読むには時間がかからない。磯田道史のは朝日新聞土曜版の短い歴史エッセイを集めたもの。わが家は朝日を取っているので、全編既読の筈だったけれど、仕事で幕末の殿様一行の藩内巡視を取り上げたこともあって、読んでみた。エッセイが楽しく読めるように工夫されていることは読む前からわかっていたので後書きを読むと、磯田道史の歴史に関する文章を書く上での信仰告白(昔の夢枕獏の後書きを思い出す)が強く打ち出されていて感心する。ある意味真っ直ぐすぎて引くようなところもあるけれど、幸福感がそれを上回っている。
 その点、山本博文は大人な書き方ではあるけれど、日本の歴史をおおざっぱであっても教科書的ではない専門家としての理解を一般読者に伝えようという意欲は共通している。江戸時代のことを少し調べるとまずビックリするのは「幕府」とか「藩」とかは明治時代になって「廃藩置県」とともに普及した用語であって、江戸時代を生きた多くの人々にとって「幕府」も「藩」も聞き慣れない言葉だったということである。どちらも後世の人間にとって江戸時代の政治体制を理解する上で便利な概念ということに過ぎない。しかしこの概念は便利すぎて「幕府」と「藩」を抜きにしては江戸時代を語ることができなくなってしまっているわけだ。
 当方の勤め先は城下町じゃないので村文書しかない。村側から見た殿様一行のことはわかっても、殿様側の方は調べだしたらわからないことだらけで、県立文書館に問い合わせることが多く、殿様なんかに手を出すべきじゃなかったなあと後悔しきり。

 積ん読消化は3冊。1冊目は山本明『カストリ雑誌研究−シンボルに見る風俗史』、1998年8月初刷の中公文庫で親本は1976年刊。山本明は同志社大学文学部教授で1970年代初期に創立された同大SF研の顧問。1975年に同志社に入ってSF研にいたので、名前は知っていたけれどお会いしたことはない。1976年にこの本を出したおかげで山本先生は話題の教授だったはずだけれど、当方はボンクラなので当時のことは何にも覚えていない。それでも文庫を買うほどには縁を感じていたということで、その縁が役に立つこともある。
 仕事場のオンボロ書庫に10数年前に入れられて以来ほとんど手つかずの書籍雑誌類があり、たまたまその気になって下見をしたら、大正期から昭和高度成長期まで約8000冊程度の単行本と同じ時期の各種雑誌が3000冊程度(たとえば『文藝春秋』の大正12年創刊号から(戦時期の別冊「現地報告」を含む)40年分とか戦後の鎌倉文庫『人間』揃いとか)あった。その雑誌の方の棚の一角を占めていたのが、雑誌の創刊号コレクションである。ビックリして何日か掛けて調べると大正中期から昭和20年代までの創刊号が150冊くらい。なかでも昭和20年と昭和21年の創刊号が合わせて50冊近くあり、岩波の『世界』もあればエロ雑誌と間違えられる文芸誌『りべらる』もある。インターネットでは、神奈川県立図書館を始め雑誌創刊号リストがいくつか公開されていて、そのタイトル数は膨大にあるけれど、このわずか150冊ばかりのコレクションのなかでさえインターネットにある創刊号コレクション・リストに載っていないタイトルもあるのだ。おそるべし雑誌創刊号の世界。
 その頃古本屋で昭和57年に講談社から出た近代日本文学館編『復刻 日本の雑誌』解説編を見つけ、おお、シンクロニシティとばかりに買って(箱入りハードカヴァーで500円)読んだ。この本は幕末の「西洋雑誌」から戦後カストリ期までの雑誌創刊号80種を復刊した叢書の解説書。この本に取り上げられた雑誌の中で、わが創刊号コレクションにある雑誌は数種に過ぎないけれども、それでも雑誌創刊号というジャンルの見通しが少し付いた。
 では山本先生のカストリ雑誌の研究の方はというと、『復刻 日本の雑誌』のような個別雑誌の解説もあるけれど、全体としては先生の専門である社会学的な視点と個人的趣味とが妙にバランスした研究書になっていて、面白く読める。先生の説では、カストリ雑誌は昭和21年12月に出た『猟奇』を以て嚆矢とし、昭和24年6月の『夫婦生活』の創刊を以て狭義のカストリ雑誌の歴史は幕閉じるという。なんで『夫婦生活』を以てカストリ雑誌でなくなったかは先生の考察のキモでもあるので、気になる人は読むがよろしい。 残念ながらわがコレクションに『猟奇』創刊号はなく、創刊号ではないけれども『夫婦生活』はあった。このアヤしい雰囲気の雑誌がカストリ雑誌の歴史を終わらせたと知り、感銘に打たれてしまった。ありがとう、先生。(なお、『猟奇』創刊号全頁はFさんのブログLa biblioteca de Babel 2010-11-29 で公開されています)

 積ん読消化2冊目は洲之内徹『気まぐれ美術館』平成8(1996)年10月初刷の新潮文庫。なんで洲之内徹(すのうちとおる)に興味を持ったのかもう思い出せないが、名前だけは学生時代から知っていたような気がする。
 カヴァー見返しによれば、洲之内徹は戦前、美校の建築科に入ったけれど左翼運動に関わって放校、田舎の松山に帰っても検挙されたりしたが、「支那事変」で昭和13(1938)年に陸軍に入れられ中国大陸で諜報活動に従事、戦後は共産党に距離を置いた。作家としては芥川賞候補3回という経歴の持ち主。中国戦線で知り合った田村泰次郎(戦後すぐのベストセラー『肉体の門』の作者)との縁で田村経営の画廊「現代画廊」を昭和35(1960)年に引き継ぎ画廊主となる。昭和62(1987)年没。
 経歴が示すようにその文章は一見シニカルだがユーモアと辛辣さを併せ持ち、常に低い視線を保って自分の目だけでものを見る。戦前に左翼シンパだった文学者にはこういうタイプの強靱さを身に着けたヒトが時々いる。本書は『芸術新潮』に連載されたエッセイ集だけれど、ここで採りあげられた画家で一般に知られているのは松本俊介ぐらいしかいない。その松本俊介に対するこだわりは強く、俊介が描いた風景を探すエッセイは4回続きで書かれている。しかし各エッセイはこんなに一点に集中して書かれたものはめずらしく、あっちこっちに話題が飛ぶことが多い。
 そんなエッセイの1編に「小田原と真鶴の間」があり、これは橋本樸々という画家の存在を知ってその画家が住む土地を訪ね、自分の画廊で樸々展を開いた話ではじまるが、その時画廊に来た知り合いと文化大革命の話をしたといい、それがきっかけで途中から以前付き合いがあった真鶴在住の画家高良真木の話になる。
 文化大革命当時、高良真木は日中友好協会の活動に入れ込んでいて絵を描かない。洲之内は真木の画家としての筋を見極めていながら、真木の母親の高良とみも絵を描かないなら出て行けと娘に言っているなどと苦笑混じりな話を続け、その締めくくりに革命下に描かれた中国農民の畑仕事の絵を真木が激賞するのを聴きつつ、自分には真木の眼の曇りを取ることができないと嘆くのだ。この話が印象的だったのは、20年前に仕事で高良とみを調べた時に、高良真木さんからご母堂の資料をいただいたことがあったからだ。また真木さんの妹の詩人高良留美さんとは6,7年前にお会いしたことがある。高良とみとその娘の話にこんな所で出くわすとは思いもしなかったなあ。

 積ん読消化3冊目はM・H・ニコルソン『暗い山と栄光の山』1989年11月刊、国書刊行会の〈クラテール叢書〉の1冊。ニコルソンは昔、世界幻想文学大系に入っていた『月世界への旅』を読んだことがあって、その続きのつもりで買ったんだと思うが長らく積ん読となってしまった。『月世界への旅』の内容はとうに忘れているけれど、この本を読んでニコルソンが、昨年文庫が出た『大いなる存在の連鎖』を書いたアーサー・ラヴジョイの弟子であることに改めて気がついた。
 『暗い山と栄光の山』はジョン・ラスキン『近代画家論』中の2つの章題をつなげたタイトルで、山に寄せるイギリス知識人の感じ方が17世紀後半に劇的に変化していくことを博引旁証を以て証明して見せた本である。すなわち中世のキリスト教哲学者の影響下で旧約聖書の文言から思い浮かべられた山に関する文言は観念的かつ否定的であったのに、科学的知見や実際にアルプス山脈を越える体験が重ねられていくことにより山に自然と神の栄光を見いだし、崇高と美を表す文言が山に被せられていく流れを圧倒的な文献の読み込みで読者を説得してしまうのである。まあ要約すればそういうことなんだけど、読んでる間は全く知らない詩人や知識人の書きものがこれでもかと出てきてやや戦意喪失気味であった。しかし訳文は素晴らしく、特に引用される詩の翻訳が抜群に上手い。普通、詩の引用なんか飛ばして読みそうなものだけれど、ここではそこを読むのが楽しみになるという変わった読書だった。まあ、それだけ地の文のプレッシャーが強かったということなんだろう。SFを読むのにこの本を読んでいたら何かの役に立つかというとたぶん無いと思う。本としては立派な書物だけれどね。『存在の大いなる連鎖』も買って読んでみようかな。40年近く前の学生時代は生協の本屋でその値段におそれをなして手を出しかねていたし。 


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