続・サンタロガ・バリア (第137回) |
パク・キュヒ(前回キョンヒと書いてました、ゴメン)熱はどうやら続く模様。ようやく聴くことが出来たメジャー第2作(通算4作目)のアルバム『最後のトレモロ』は、中南米の作曲家、特にバリオスとブローウェルを多く取り上げたオムニバスだけれど、これまでの3作以上に魅力に富んだ演奏が聴ける。
このアルバムがこれまでよりも印象的なのは、録音のやり方が功を奏していること。まず、オン・マイクらしい録音で、パクの音をこれまで以上に良く伝えている。音量を上げていっても全く気にならないパクの奏法は驚異的である。ステレオの音空間に2メートルぐらいあるギターが浮かぶような音量でもその演奏スタイルは聴く者を魅了する。そしてもう一つの大きな魅力は、スタジオ録音ではなくホール録音であるため、演奏が始まる前と終了後に暗騒音(楽器音のみを捉えるスタジオと違い、小さなザワザワ音が常時ランダムに入る)が聞こえるところ。これが演奏のライヴ感をかもし出していて聴き手の安心感を誘うのだ。
そしてパクの選曲と演奏のバランスの良さ。これまでの3枚は、繰り返し聴きたくなる曲目・演奏はそれぞれのアルバムで数曲ずつだったけれど、このアルバムは全ての曲の演奏が繰り返し聴けるし、また聴きたくなる。今回のアルバムで一番スタンダードな曲目はバリオスの3楽章からなる「大聖堂」で、プロのギタリストでこの曲の録音がない人はまずいないだろうという曲。パクの演奏は気負いのない流麗さとトーンコントロールのすばらしさで、普通はスピード感重視の第3楽章も緊張感をあまり感じさせずに音の流れを意識させる演奏になっている。その前に入っているアストル・ピアソラのヒット曲「天使のミロンガ」はほとんど映画のサントラのようなポピュラー系な音運びの曲だけれど、もう一つ前の曲がアルゼンチンの天才ギタリストといわれる作曲家キケ・シネシが作った、ボディや弦を叩いたりする激烈タイプの現代曲なので、ピアソラではパクのギターの変化に富む音色がよりはっきりと聴ける。
このアルバムを聴いてようやく気付いたのは、パクは自分のギターの性能を十分意識して弾いていると言うことだ。パクはギターの6本の弦が持つそれぞれの響きの特徴をきちんと意識して、弾き分けることが出来る。プロのギタリストなら当然なことだろうけれど、パクはそのことを誰よりもはっきりと聴き手に伝えることができるのだ。大音量で聴いてもバランスの良さが崩れないパクのギターは、ギター音楽を超えた響きの世界をもたらすことを可能にする。もっともパク本人はインタビューの中で、大ホールでの演奏はPAを使わないといけないので、300人くらいのホールを選んでリサイタルを開くといっている。そういえば村治佳織も福田進一も山下一仁も大ホールで聴いた(大抵「アランフェス協奏曲」)ので、みんな小型PAを脇に置いていた。
収録作品の半分以上が再読になるというお買い得感の希薄な日本SF作家クラブ編『日本SF短編50 volume V』は、読んでもすぐに内容を忘れる人間にもちょっとした躊躇を覚えさせるくらい最近の作品ばかりで、どうしたものかと思ったけれど、読んでみればやはり面白いものが多い。初読は4編、冒頭の林讓治「重力の使命」はハードSFのファースト・コンタクトもので、あとで『ブラインドサイト』を読んだ時この作品を思いだした。タイトルの由来となったハル・クレメントの同題作を読んだのは45年前で何も覚えていないも同然だけれど、全然違う話だったように思う。高野史緒「ヴェネツィアの恋人」思いを遂げられない一組のカップルが、奇妙な占い師に一つの条件の下で、時代と立場を次々と替えながらヴェネツィアで出会う輪舞的なファンタジーをSF視点で描いていて、よく知らないが、シュニッツラーかもしれない。小川一水「白鳥熱の朝(あした)に」は「天冥の標」の第2巻『救世群』のスピンオフとして読める。瀬名秀明「きみに読む物語」は、SFファンダムの居心地の悪さを全面的にアピールした作品になっていて、一応「古参の」SFファンとしては、読み心地が悪い。作品としては著者の立場を2人の「彼」にわけたとも見えるし、自らのポジティブな思いは主人公の女性に託したとも見える。
既読作品では、上田早夕里「魚舟・獣舟」が3回目か4回目の再読だけれど、作品の短さからは想像もつかない世界の広がりを持っていることが今回も確認できた。
池上永一『黙示録』は久々の長編で、タイトルといいオビの惹句といい力こぶが入っていてちょっと腰が引けるが、最近の短編集で使ったネタを多く取り込んだ作品だった。 『テンペスト』よりも少し前の時代の沖縄を舞台にして、踊りという琉球文化の力で薩摩藩、江戸の将軍そして清国高官を相手に琉球王朝の安泰を計るという物語。主人公は沖縄の被差別身分ニンブチャー出身の野生の少年にして天才舞踏家、ライバルは宮廷の公式舞踊演出家子飼いのエリート少年。琉球王の首里天加那志を太陽とすれば、それと対になる月としての踊り手が一世に一人は出てくるという伝説の成就を巡って物語は進む。
これまでの長編の破天荒なエネルギーは、この作品ではライバル二人に代表される踊りとその踊りが醸し出す場面の描写に注ぎ込まれていて時折目眩が生じるが、主人公の地獄巡り的な筋運びがこれまでの長編のような爽快感をもたらさず、しんみりしてしまうので読み手の期待は宙に浮く。まあ、池上永一も大人な作品をモノにしたかったという意味では十分成功している。
ハヤカワSFシリーズJコレクションで出た西島大介『All those moments will be lost in time』はSFマガジンに連載した作品に1編の書き下ろしを加えたコミック集。タイトルの切なさは各作品を通して読むと心に染みる。5歳から14歳までを東京の田舎で過ごし、関西の大学を出た後は広島県で人生を送ってきた人間とは「広島」に対する感じ方は大分違うけれど、しかし心情の伝わりやすさはあるのだろうな。
同じくハヤカワSFシリーズJコレクションの菅浩江『誰に見しょとて』は、化粧品と化粧という行為という一般的には女性が大いに関与することによって発展したもの(化学物質としての化粧品自体の発展には男性も大いに関わっていると思うが)にSF的想像力の羽ばたきを与えて一種のハードSFにまで発展させた作品集。菅浩江にしろ新井素子にしろなぜか読まずに来たのだけれど、読んでみれば彼女らが面白い作品の書き手であることは明白である。にもかかわらずなかなか手が出ないのは、何らかの心理的なブロックが当方にあるのだろう。それが何かとかはいまさら知りたくもないけれど。
今月も翻訳成分が少なくて読んだ翻訳SFはピーター・ワッツ『ブラインドサイト』上・下(なんで1冊じゃないのか)のみ。まあ、噂の作品だし、ちょっと期待して読んだ。結果は半分は期待以上で、半分は期待以下かなあ。基本的に冷たい感触の作品である。主人公を始め、まともなキャラクターはいない。ファーストコンタクトの相手も何だか壊れているように見えてくる。それでも、主人公初めとした壊れた人格(人じゃない吸血鬼も含む)ばかりで進められる物語は本来は抵抗感があるはずなのに読みやすく、説明不足気味(特に吸血鬼)ではあるもの物語運びはそれなりに新鮮である。主人公の生い立ちや恋人とのエピソードを取ってしまえば、林讓治「重力の使命」と好対照な非常に良くできた短い長編になったろうけれど、そこは作者がこだわったようにも見えるので、仕方がないか。
意識の価値については、人間の存在意義が『タイタンの妖女』程度だとしても自分にとっての意味はあるわけで、たとえ機械の中の幽霊だったとしても存在しちゃったものはしょうがない。
今月の積ん読からは岩波文庫が2冊。1997年初刷りのカッシーラー『人間 シンボルを操るもの』は、学生時代に箱入りソフトカヴァー(文庫同様宮城音弥の訳)を買ったような記憶があるが、ニセ記憶かもしれない。前世紀最後の百科全書志向の哲学者カッシーラー最後の著作であり最も一般向けの作品ということで、関心はあったもののなかなか手が出なかった。人間意識はシンボル操作によってしか現実を把握できないことはいまや常識となったわけだけれど、カッシーラーのシンボルはこの本を読む限りそういう捉え方ではないように見える。「人間性への鍵 シンボル」第2章の末尾に出てくる「理性という言葉は、人間の文化生活の豊富にして多様な形態を了解せしめるには、はなはだ不完全な言葉である。しかし、あらゆるこれらの形態はシンボル的形態である。」というところは当たり前に読めるが、人間を「理性的動物」ではなく「象徴(シンボル)的動物」と定義することによって、「人間の前途にひらかれている新たな道−文明への道−を理解しうるであろう」という結語は理解しづらい。その信念の傍証として書かれた無数の引用とその考察は百科全書派たるカッシーラーの真骨頂を示しているが、現代の読み手にはそれでもカッシーラーの信念は保留せざるを得ない。
同じく岩波文庫から出た『シンボル形式の哲学』全4巻はまだ当分積ん読だなあ。死ぬまで読まないかも。あ、そういえば最近復刊されたので、興味のある人はどうぞ、っても読む人はいないか。
もう1冊は1996年のプルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』。これはゼラズニイのエジプト神話ものの未訳長編『光と闇のいきもの』の参考にするつもりだったのかもしれないが、読んでみると何の参考にもならないような代物であった。
もともとはプルタルコスが書いた「倫理論集(モラリア)」というエッセイ集の1編らしいが、この作品を読む限り高貴な身分の若い女性(「高貴で若い」はこちらの勝手な思いこみだが)のための、エジプト神話講義にかこつけたお説教のようだ。プルタルコスがこんなにもダラダラとまとまりのない書き方をする人間だったとは思いもしなかった。ま、その欠点は訳者が解説で突っ込んでいるけれど。
その学識深い訳者によって、わずか130ページの本文(図版が多いので文章はもっと少ない)に60ページあまりの訳注が施され、そのほとんどがプルタルコスが書いていることに対するツッコミからなっている。もちろんそのツッコミがなければ、達意の日本語で読めるとはいえ、その内容はチンプンカンプンなものに、または読者が勝手に思いこむファンタジーと化してしまうのだろう。本文と訳注でひとつの作品になっているといってもいい。
解説によれば、この書はそれでもイシスとオシリスの神話について書かれた唯一信頼に足る文書なのだと言うことなので、そのことにもビックリする。1900年前の田舎ギリシャ人(と解説にある)プルタルコスが、この本を読んだらどんな顔をするんだろうか。