内 輪   第275回

大野万紀


 ディスカバリーチャンネルで、「SFの巨匠たち」というドキュメンタリー・シリーズを放送していました。リドリー・スコットが進行役で、メアリ・シェリーから始まり、ヴェルヌ、ウエルズ、アシモフ、クラーク、ハインライン、ディック、それにジョージ・ルーカスまで、その作品と未来へのビジョン、作家のエピソードなどで構成されています。でも主なテーマは、SFが描いた未来が、21世紀の今どのように実現されているかという点にあったようで(原題はProphets of Science Fiction)、科学者が多数出演し、未来の予言者としてのSFについて語っていました。それって、ちょっと観点が古い気もしますが、面白かったです。ハーラン・エリスンが歳を取ってもあいかわらずの語り口でしゃべっていました。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ガーメント』 三島浩司 角川書店
 タイムスリップ/歴史改変SFで、美少女ラブコメで、かつ『ダイナミックフィギュア』とも通じる人型戦闘ロボット(ロボットじゃなくて、「ヌキヒ」だけど)ものでもある。
 そして、タイムパラドックスにこれまでなかったような新たな解を与え、超々宇宙的な時間を扱い、さらに歴史と意識の意味にまで迫る哲学的SFだ、といえば凄い話みたいだけれど、うーん、何というか『戦国BASARA』というか、ノリが軽いというか、ちょっと不思議な読後感の小説である。
 失恋したばかりの大学生、花輪めぐるは、突然まわりの時間が停止する事象を経験し、そして空中に空いた穴から体半分抜け出した美少女ツゥを助ける。びっくりの導入部だ。何だか素性のわからないツゥと下宿で生活を始めるが、彼女が「決して扉を開かないように」と言い残して部屋にこもってしまい、中からは機織りのような音が聞こえる。めぐるが扉を開けると、何と戦国時代へタイムスリップ。現代に戻るには体のまわりに出現する「ヌキヒ」というガーメントをまとって、織田信長らと戦って歴史を変えるような働きをしなければならない。彼は、同じように現代からタイムスリップしてきた仲間たちと共に、現代と戦国時代を行き来しながら、やがてこの宇宙の真相に、そしてツゥの正体に迫っていくのだった。
 しかし、キャラクタたちが、ごく普通の現代の若者として描かれているにもかかわらず、物語はとにかく普通じゃない。とんでもなく非日常なできごとに、どうしてこう平然としていられますか。ものすごい平常心の持ち主なのか、非常識なのか。常識的には非常識だよねえ。現代パートは基本的にリアルなのだが、めぐるとツゥの関係はかなり変。鶴女房というより、妹か娘のような関係性で、今時はそれが普通なのだろうか。
 その後の展開も、コミカルな雰囲気はあるにせよ、バカSFというにはとても生真面目だし、何か物語に入り込みにくいのだなあ。「輪廻」という言葉にSF的意味を吹き込むところはさすがに面白い発想だと思うのだが、SF的・科学的な概念というよりもおとぎ話的・神話的イメージの方が強く、平凡でリアルな日常的ストーリーとのギャップが大きすぎて、ちょっと戸惑ってしまうのだ。

『丕緒の鳥 十二国記』 小野不由美 新潮文庫
 十二年ぶりの十二国記は短編集で、yom yomに2008年と2009年に掲載された「丕緒の鳥」、「落照の獄」と、書き下ろし「青条の蘭」、「風信」の4編が収録されている。
 いずれもシリーズの主な登場人物は登場せず(陽子は少しだけその姿を見せるが)、十二国を舞台にしているが独立した小説である。王も麒麟も、半獣も妖魔も、全くというかほとんど出てこない。市井の人々が、傾いた国の中で、自分の仕事に命をかけ、少しでも人々のためになろうと必死に仕事を続ける話である。それでも十二国の雰囲気はしっかりとあって、それは本当に気が遠くなるほどに細かく深く構築された世界観によるものだ。
 「丕緒の鳥」、「青条の蘭」、「風信」の三作では、いずれもこの世界での技術者や科学者といってよい人々が、政治的な逆風や自然の猛威にあらがって、自分のできることを愚直に行うことでそれに立ち向かっていこうとする。特に書き下ろしの二編には、明らかに3.11の影を見てとることができる。それは吹けば飛ぶような人間であっても、実際に現場にあって、具体的で現実に即した行動を、決してあきらめず継続することこそが、巨大で不条理な脅威に対抗する道であるということだ。
 「落照の獄」は死刑を復活するかどうかという法律と倫理の問題が描かれていて、他の三編とは少し趣が違うが(理系なストーリーと文系なストーリーといってもいいか)、それでも主人公の人々を見る目には同じ視線がある。
 「丕緒の鳥」と「風信」は陽子が王になる前後の慶国が舞台で、「落照の獄」は国情が傾きかけたころの柳国、「青条の蘭」はかなり昔、延王・尚隆の登極前後の、まだ乱れていた雁国が舞台となっているようだ。いずれも十二国の本編を読んでいれば、それぞれの結末により深い感慨が浮かぶだろう。ということで、本書の短篇はいずれも強い印象の残る作品ではあるのだが、やっぱり早く本編の続きが読みたいよーっ!となるのである。ただいま鋭意執筆中とのことだけど、本当に何とかしてほしいものです。
 本書の中では、とても美しい職人技を見せる「丕緒の鳥」と、専門家と一般の民衆の関係性、現場の技術者の責任感といった問題から、主人公の凄まじい苦闘が感動をもたらす「青条の蘭」が特に印象に残った。「風信」に登場する、民衆のための暦作りに力を注ぐ、少し浮世離れしたオタクな学者たちの姿にも共感を覚えた。「落照の獄」も悪くはないが、ちょっと頭でっかちな感じがした。

『日本SF短篇50 3』 日本SF作家クラブ編 ハヤカワ文庫
 3巻目は1983年から1992年。毎年各1編ずつ、1作家ずつの10編が収録されている。
 山田正紀「交差点の恋人」は30年前の作品だが、ちっとも古びていない。もっと最近の作品だといっても通るだろう。それにしてもこのあたりのテーマには「ゴルディアスの結び目」など小松左京の影というものをとても強く感じる。だが当時の小松左京との最も大きな違いは、山田正紀の文章がすごく軽やかで、いい面でも悪い面でも「若々しい」ということだろう。
 栗本薫「滅びの風」の淡々とした恐怖も、今のような時代にこそ読まれる意義があるように思う。
 中井紀夫「見果てぬ風」は螺旋状に壁で区切られた世界を果てしなく旅していく男の物語だが、これもまた傑作だ。
 草上仁「ゆっくりと南へ」もいい。日常の時間と大きな時間の並置には、SFのセンス・オブ・ワンダーがある。
 だが本書で最も印象に残る作品は、森岡浩之「夢の樹が接げたなら」だろう。言語SFというジャンルが確かにあるのだが、SF的アイデアの面白さとわかりやすさという点で、その中でも抜きんでているといっていい。今でこそ仮想現実テーマと関連して扱われることの多い言語テーマだが、ここではコンピュータとソフトウェアの例を使ってイメージしやすく描かれている。しかしここでの「翻訳」とは、一体どう考えればいいんだろうね。

『年間日本SF傑作選 極光星群』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
 2012年の日本SF傑作選。様々な所で発表された11編と、第四回創元SF短篇賞受賞作、宮西建礼「銀河風帆走」が収録されている。
 冒頭、宮内悠介の「星間野球」。宇宙空間で汗臭くむさくるしい二人のおっさんが、昔の野球版で必死になって勝負するという話で、何とも切なく面白い。「ヨハネスブルグ~」系統のシリアスな話もいいけど、こういう話が書けるところが、作者の強みだなあ。
 上田早夕里「氷波」は土星の輪を舞台にした宇宙SFで、芸術家の感覚を科学の言葉で語れるかといった内容である。そんな話の語り手が機械知性なのも面白い。
 西崎憲「奴隷」は、短編集収録時に話題を呼んだ傑作。古い日本映画のような、普通にお手伝いさんがいるような家庭で、主婦が家庭用の奴隷を買うという話だが、ごく日常的な文体で淡々と描かれる中での、制度的な奴隷の存在が強烈な異化作用を生んでいる。
 円城塔の「内在天文学」も傑作である。設定のイメージがつかみにくいが、遠い未来の、物理法則を再発見しようとしている子供たちの話として読めば、楽しく読める。
 この作者の作品を初めて読んで印象に残ったのが瀬尾つかさ「ウェイプスウィード」だ。これは本格SFである。大災害後の世界で、海ばかりとなった地球に残った少数の人々の所へ、宇宙に進出した人々のシャトルが不時着するが……という、本当に良くあるパターンの話ではあるが、文化的背景の違うそれぞれの人類や、海底に生じた新たな生態系など、非常に良く書き込まれていて読み応えがあり、感心した。ややラノベっぽい所と、後半ちょっと急ぎ足なところが気になるが、ぜひ長篇化して欲しい作品である。
 瀬名秀明「Wonderful World」は、「未来」のヴィジョンを示そうとするSFというジャンルに自覚的な、一種のメタSFであり、人々の意識がもつ未来への多様なベクトルを、倫理という側面で拾い上げ方向を示す(誰かが上から指示するわけではなくて、人々に内在するそれを科学的に見える化する)ことで、メタファーとしての未来を実現しようとする、意欲的な作品である。ただし、本作だけでは何かのプロローグのようにも読め、ここは関連作品であるという「ミシェル」を読まなければいけないのかも知れない。
 最後に創元SF短篇賞の「銀河風帆走」だが、これまた驚くほど古典的な宇宙SFであり、作者がまだ大学生だというのにも驚く。遠い未来、太陽爆発で地球は滅びているが、人類は姿を様々に変えつつ銀河系に広がっていた。ところが銀河中心の巨大ブラックホールが、膨大なフレアを発し、銀河中の生命を破壊し尽くすことがわかり、語り手たちは銀河を渡る播種船となって、想像を絶する長い旅を続けている……という、SFファンにはそれだけで嬉しくなるような話ではあるが、逆にいえばそれだけの話だともいえる。技術的・科学的ディテールは良く書き込まれており、タイムスケールも雄大で、確かに受賞に値する作品だと思うが、円城塔の評にもあるように、これだけでは小説として、SFとして物足りない気もする(でもぼくはこんな話も大好きなのだが)。次回作がどのようなものになるのか、とても楽しみである。

『NOVA 10』 大森望編 河出文庫
 第一期(?)完結とある。これまで以上に大部な、ずっしりと重い12編が収録されている。内容もまた、軽やかな作品もあるが、けっこう重い。
 菅浩江「妄想少女」はスポーツクラブのゲームの中では(そして彼女の頭の中では)元気いっぱいでかっこいい戦闘美少女である50代半ばのオバサンの話。これ、ちょー身近な話なんですけど。妄想だろうが何だろうが、肯定的に生きていく姿はすてきだ。でも50代半ばだなんてまだまだ若いぜ、とうそぶく年になってしまったことよ。
 柴崎友香「メルボルンの想い出」は日常世界が基本的にはその日常性を保ったまま不可解な変貌をとげる不条理小説で、どこかユーモラスであり、モンティ・パイソンにでも、あるいは「世にも奇妙な物語」にでも出てきそうな話だ。
 北野勇作「味噌樽の中のカブト虫」は、待ってました〈会社員シリーズ〉で、異星人とのファーストコンタクトSF(かも知れない)。タイトルはストルガツキーか。いつもより不気味さが増量しており、ホラー味が強いといえる。
 片瀬二郎「ライフ・オブザリビングデッド」ははやりの(?)ゾンビもの。ゾンビになってしまったサラリーマンの視点から描かれていて、ずいぶんともの悲しい。
 何と33年ぶりの新作は山野浩一「地獄八景」。インターネット時代のシステム化された地獄を淡々と描いている。こんな地獄なら悪くないのではと思わせる。
 山本弘「大正航時機奇譚」も落語SF。タイムマシンで儲けようとする詐欺師親子の話だが、UFOの世界で有名な「うつろ舟」がオチに結びついてくるのはさすがにと学会会長。
 さて本書で一番びっくりさせられたのが伴名練「かみ☆ふぁみ!」だ。ラノベ風な文体で、宇宙のすべて(およそ1億光年の範囲までという限界はあるが)を脳内でシミュレーションできる超能力をもった美少女とのラブ・ストーリーなのだが、歴史上の様々な時点に生存する同様な能力をもつ(精神的な)両親や兄弟姉妹が、バタフライ効果を超絶シミュレーションによって思い通りに実現させるというとんでもない方法で干渉してくる。中二病極まれりという設定だが、これがすごい。いってみれば計算によってすべてが確定している世界なのであって、にもかかわらずそこに自由意志を見いだそうとする、これって小林泰三「予め決定されている明日」への挑戦じゃないのか。傑作だ。ラノベ調ではあるが、登場人物たちがストレートで屈託がないためか、意外とオタクっぽさはない。それにしてもヒロインはともかくとして、この男の子もとうてい普通の人間とは思えない。やっぱり1億光年先から来たエーリアンの仲間じゃないのかな。大したラブストーリーだ。
 森奈津子「百合君と百合ちゃん」は法律で強制的に夫婦になった同性愛者が、代理セックスでの子作りをさせられる話だが、下ネタというよりもリアルでSF的な諷刺が効いている。しかし、最後に出てくるアレは、これももしかして小松左京オマージュなのでは。
 倉田タカシ「トーキョーを食べて育った」は大破壊後のトーキョーであっけらかんとサバイバルする子どもたちを描いた、これも色々と考えさせられる話だが、様々な巨大機械がうごめくSF的イメージが印象的だ。
 木本雅彦「ぼくとわらう」はダウン症の青年が死を前にして自伝を書くという話なのだが、その自伝というのがライフログであって、記憶・記録の改ざん、あるいはハッキングということがテーマとなっている。人の人生というのは、結局のところどこにその実体があるのか、主観と客観が食い違うとき、本当の人生はどこにあるのか。
 円城塔「(Atlas)3」は、主人公が殺され続けるという奇怪なミステリ的場面から始まる。主人公は地図作成者。だがここでの地図(マップ)とは数学的な写像(マップ)と考えるのが妥当だろう。ある種の関数の欠陥によって、写像し変換した結果が矛盾していく。その関数とは小説を語る言語であったり、人間の意識を構成するものだったりするのだろう。この小説を支配している「カメラ」という存在は、観察者であり、ここでも主観と客観の矛盾が立ち現れている。おお、これまた数学SFであり、量子力学SFであり、言語SFなのだ。いや、本当かどうかは知らん。
 そして本書でもっともボリュームがあり、そして読み応えもある中編が、瀨名秀明「ミシェル」である。これは『極光星群』収録の「Wonderful World」の続編であり、小松左京の『虚無回廊』、「ゴルディアスの結び目」、『果しなき流れの果に』その他の作品へのオマージュとなっている。直接には『虚無回廊』の世界がそのまま描かれているのだが、「ゴルディアスの結び目」の設定やテーマ、登場人物も重要な役割を果たしている。主人公は『虚無回廊』に登場する天才言語学者のミシェル。この作品では、ある点では小松左京以上に、言語(情報)と宇宙、そして意識(実存)というテーマが深く掘り下げられている。しかしそのことよりも、ぼくはつい先日の日本SF大会「こいこん」での星雲賞受賞者の発言に、この作品との強烈なシンクロニシティを感じ、それが強く印象に残った。それは、初音ミクを初めとするヴォーカロイドの研究で星雲賞自由部門を受賞した産総研の後藤真孝さんの言葉と、『屍者の帝国』で長編部門を受賞した円城塔さんの言葉だ。後藤さんは「研究者は不気味の谷を怖れてはいけない」といい、人間の歌声でなければ聞く価値はないという言明はすでにヴォーカロイドによって打破された。人間の作品でなければ聞く価値はないというのもいずれは打破されるだろう。その先には人間の聴衆でなければというところまで打破されるのではないか、と語った。これはまさに「ミシェル」での音楽そのものではないか。そして、円城塔は、音楽におけるヴォーカロイドに対応するような、文章における人工知能研究の文脈で「文章にも不気味の谷はある」と述べ、そして宇宙人にも通用するような「言文一致」の追求について語った。それこそ「ミシェル」の普遍言語、情報による大統一理論をイメージさせるような言葉ではないか。瀨名秀明はそこに「メタファー」という用語を用いて(とりあえず宇宙までは行かないが)人々の意識や倫理観のベクトルを創発的、自己組織的に方向付ける言葉の存在を示唆している。ミームよりもっと強いイメージである。そんなことをたっぷりと考えさせられる作品であり、傑作だ。


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