内 輪   第273回

大野万紀


 ゴールデン・ウィークがあって自由な時間があるはずなのに思うように本が読めないのは何故なんでしょう。
 念願だったキッチンとトイレのリフォームが完了。30年近くたって、かなりガタが来ていたので、思い切って大改造。ずいぶんすっきりときれいになりました。使いやすくもなったはずなのだが、慣れないところもあって、それはこれから使い込んでいかなければ。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『オール・クリア 1』 コニー・ウィリス 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 『ブラックアウト』後編の1冊目。2冊目は6月に出る予定。まだ話はほとんど進展していない。
 第二次大戦中のイギリスに何故か取り残され、未来へ帰還できなくなったオックスフォード大学史学部の学生たち3人が、空襲の続く戦時下の命がけの日常の中で、当時の人々と心温まる交流をしながら、帰還の道を探ってひたすら右往左往する話。いや、最初から最後までずっとそうなのだ。なのに、前作と同じく、作者の筆力によってとても読みやすく、ハラハラドキドキの連続で、どんどんページをめくらされる。そして最後まで読んで、まだ全然進展していないと唖然とするのだ。面白かったけど。
 甘い期待は必ず裏切られるという、マーフィーの法則をそのまま描いたような小説で、実際、「~となるはずだった。だが、ならなかった。」というタイプの文章が、ギャグかと思うくらい繰り返し現れる。そうなるのは、本書がすれ違いコメディの形式をとっているからだ。戦時下の日常の悲惨さと勇敢さを見事に描いているにもかかわらず、すれ違いコメディとなるのは、主人公である学生たちの最大・最重要の問題である「未来へ帰還できない」という状況が、実際の当時の人々の状況と比較して深刻さのレベルが違いすぎるからだ。はっきりいって、ただお家に帰れないという問題を、彼らは最優先に考える。まわりではたくさんの人が死んでいるというのに。
 もちろん彼らはただの若い学生たちで、混乱しているだけだから、同情の余地はある。最終的には見て見ぬふりはせず、ちゃんと救助にも参加するので救われるが、それにしても未来人としての特権意識があるのが気になる。とにかく彼らはちゃんと立ち止まってしっかり情報を集め論理的に考えるということをせず、思いつきで突進し、右往左往しているばかりだ。しかも、相手を心配させてはいけないというような、上から目線の思いやりで情報を隠蔽し、それでよけいに混乱を招く。リスク管理、危機管理がなっていないのは、ダンワージー教授ら、オックスフォード側も同じだ。中途半端な情報で、間違った判断を繰り返していく。下巻でちゃんと決着がつくのかしら。
 で、危機が深まっていくわけだが、しかし、SFとして考えると、この危機がどうもよくわからない。大きな歴史の動きは確定しているが、小さな事象は不確定、というのはいい(本当はカオス系ならそうともいえないのだが)。問題はこの小説ではタイムトラベルすると並行宇宙に入るのではなく、あくまでも時間線は1本だということだ。ただし、パラドックス=齟齬を避けるように何らかの制約が効いてくる(作者はそのあたりをずっとあいまいなままにしているようだ)。齟齬の発生が危機を招くのだが、どこまでは良くてどこからがダメなのか、さっぱりわからない。だから学生たちも右往左往してしまうのだ。
 齟齬は現に発生しているらしいのだが、本当にパラドックスが起こったら、いったい何が起こるのか、そこがわからないので、読者には深刻な危機感のもちようがない。そして、登場人物たちも言及しているが、1本の時間線でタイムトラベルができるなら、現地時点での時間など意味がなく、救助される時点という意味がわからなくなる。時系列がループするのだ。とするとやはり並行宇宙を考えなくてはならなくなって、そうなると帰還ということも意味を失う。とまあ、読んでいる最中は全然気にならないのだが、読み終わるとやっぱり疑問がいっぱいわいてくるのでした。

『日本SF短篇50 (2)』 日本SF作家クラブ編 ハヤカワ文庫
 1年1作ずつ収録のアンソロジーの2巻目は、1973年から1982年まで。「浸透と拡散の10年」の10編が収録されている。
 毎年重複なしにSF作家クラブ会員一人一編ずつという縛りは、とても厳しいがある意味面白い。普通のベストとは違う作品が選ばれるという意外性がある。本書では小松左京「ゴルディアスの結び目」や山野浩一「メシメリ街道」のように普通のベストでも選ばれるだろう傑作もあるが、眉村卓「名残の雪」や神林長平「妖精が舞う」(これは未改稿のオリジナル版)、矢野徹「折紙宇宙船の伝説」のような、なかなか他で読めない作品も含まれている。
 とりわけ「幕末未来人」の原作である眉村卓「名残の雪」が面白かった。タイムトラベルの扱いは、こういう形の方がしっくりくるなあ。神林長平も、今の雪風シリーズのイメージとかなり異なる雰囲気があって興味深い。大原まり子は(「アルザスの天使猫」も決して悪くはないけれど)さすがにもっと相応しい作品があったように思うのだが。

『GENE MAPPER -full build-』 藤井太洋 ハヤカワ文庫JA
 個人出版の電子書籍でベストセラーとなった作品の増補完全版とのこと。ベストセラーになるだけのことはあり、とても面白かった。深いところまで良く考えられ、書き込まれていると思った。
 近未来、拡張現実が当たり前の日常となり、作物の遺伝子操作がコンピュータソフト開発と同じようなレベルで可能となった時代、遺伝子デザイナー(ジーン・マッパー)の林田は、世界的種苗メーカーであるL&B社のエージェント黒川から、自分が遺伝子設計したカンボジアのプラント〈マザー・メコン〉の稲がバグっているとの連絡を受け、原因調査を開始する。凄腕ハッカーのキタムラ・サンの協力を得て、彼は黒川と共にホーチミンへと飛ぶ……。
 フルスクラッチで設計した生物なんて言葉が当たり前みたいに出てくるのでびっくりする。遺伝子をソフトウェアと捉えて遺伝子操作にスタイルシートを使ったりなど、ソフト開発と同じイメージで描くのはとてもわかりやすくて好感が持てるが、実際のところはどうなのだろう。サイバーパンクが意識のダウンロードを当たり前のように描くのと似た、深いギャップの存在を感じる。それはともかく、本書の結末と、科学技術と社会の関係をあくまでも前向きに見ようとする視線には、野尻抱介とも同じ方向性を感じて、とても好ましく思った。
 本書の主人公である林田は、ちょっと平凡すぎてもうひとつ魅力に乏しく、実際のところ視点人物・語り手にすぎないように思う。本書の真の主人公は黒川に違いない。彼は謎も多く、興味深い人物だ。だが何といっても本書で最も魅力のある登場人物は、準主役といっていい、ゴールデンリトリーバをアバターにするキタムラ・サンだ。彼は描かれていないところでもっと凄い活躍をしていたはずで、そこにとても興味がある。キタムラさんと金田さんを主役にしたスピンオフストーリーがぜひとも読みたい。
 本書の弱点は敵役が不鮮明なところだろう。世間に政治的主張をアピールしたい勢力が、すぐにテロだとバレてしまうような手口で、犯行声明もなくバイオテロを起こす。単にヘイトスピーチをアップしたかっただけ? むしろそういうのが現代的なのだろうか。
 しかし、第一作でここまで書ける作者だ。今後の作品にも大いに期待がもてるといえよう。

『第四の館』 R・A・ラファティ 国書刊行会
 最高傑作ともいわれるラファティの1969年の長編。確かに文学的な傑作であり、とても力強い作品なのだが……。
 「第四の館」というタイトルそのものが、解説で詳しく説明されているが、きわめてキリスト教的なシンボルなのであり、キリスト教(カトリック)神学にあまり縁のないぼくには、なかなかとっつき難い作品でもある。何より、ラファティの親しみやすさ、大らかさが背景に退き、あくまでもラファティ流ではあるが、シリアスな神学的、超越的な世界認識が前面に出て、ある意味とても政治的な物語ともなっている。
 普通の、日常的な、親しみやすい世界や人物や動物や怪物は、本書には出てこない。出てくるのは(精神的な面で)超エリートな図抜けた超人たちであり、そのグループ(超自然的友愛会)である。彼らはそれぞれが世界征服――ではなくて、世界をおもちゃにするような神的・象徴的支配の頂点に立とうとしているのである。神への長い(あるいは短い)道だ。
 かなり殺伐とした話であり、ここにきて陰謀論も極まれりといったところ。彼らは共産主義はもちろん、自由主義も保守もリベラルもファシストも、すべて近代の生んだ「犬臭い裕福な嘘つき」として捨て去ろうとする。まさに大虐殺だ。おそらくこの世の新しいものはなべてうさんくさく、太古の節くれ立った固いごつごつした頑固さ、愚かさこそが正しいというのだろう。つまりは原理主義だ。ラファティ自身がそれにどこまでコミットしているのかはわからないが、現世的な政治勢力はみな間違ったものであり、形而上的・超越的な「神の国」こそがあり得べきものなのである。とはいえ、彼は泥臭い人間性を決して捨てたわけではない。それはどこにある? おそらく親子の関係性だったり、敵同士の憎み合いだったりの中に、大笑いすべきヒューマニズムの名残があるのだろう。
 本書の主人公は、過去からの再生者がこの国を支配しようとしているという妄想か陰謀か現実かに取り憑かれた若き新聞記者のフォーリー。彼はテレパシー的な脳波網によってこの世界の背後で繰り広げられる、神的支配を巡る闘争に深く関わっていく。まずは〈収穫者〉たち。フォーリーの恋人も含むこのグループは、一番身近にいるが、騒がしくて危険な連中だ。象徴は蛇。フォーリーの追う〈再帰者〉たちのグループは、ヒキガエル。太古の耳をもつ自己満足でとらえ所のない連中だ。様々なところにひっそりと隠れて聖職者のような階級制度を維持し、古代の帝国を保守している〈パトリック〉たちはアナグマ。ラファティは確かにこのグループに親近感を覚えているようだ。そして最も闘争的で武闘派の〈簒奪者〉たち。巣立ち前の鷹である。こういった精神たちが戦いあい、殺し合い(まあ殺しても死なないのだが)、大声を出し合うのだ。その中をフォーリーは聖別された愚かものとして、また愛する者を守るものとして、力強く歩み、真理を問いかけていく。
 しかし最後に彼は何に変異し、循環は上昇に転じたのだろうか。第四の館は開かれたのか。そして第五の館は……。
 SFとは変化の文学である(と識者はいう)。進化的な未来志向の変化も、原理主義的な回帰的な変化も、どちらも現状からの変化に違いない。例えばイーガンとラファティは「変化」に関して真逆の立場で書いているのだといえる。そのどちらもSFとして楽しめてしまう自分ってどうなんだろうと考えてしまった。そんないーかげんでいいのか。もちろんそれでいいのだ。
 訳者の解説はポイントを押さえてわかりやすく、本書の見取り図を示してくれる。必読である。ネタバレがどうこうという話ではないので、事前に読んでおいてもいいだろう。


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