続・サンタロガ・バリア (第130回) |
4月はあっという間に月末が来たような気がして、何をしていたのか思い出せない。忙しい訳じゃないんだが。
大森望のページで殊能将之が亡くなっていたことを知った。「福井の天才」と直接話をしたことはなかったけれど、大学SF研ファンジン界で名を馳せた時代の名大にいた人ということでそれなりに親しみもあり、その作品は読んで楽しかった。HPも時々のぞせてもらってたけれど、早世が残念だ。
日本SF作家クラブ編『SF JACK』は、40年前の日本SF短編をいくつも読んだ後で読むと話の密度が高い(小難しくなっている)のがよくわかる。オリジナル・アンソロジーとしては力の入った作品が揃った高レベルの1冊で文句はないけれど、続けて読むとちょっと疲れる。昔風なSF落とし話になっている今野敏「チャンナン」や昔懐かしいという感じで一ひねりあるロボットSF宮部みゆき「さよならの儀式」それに夢枕獏の陰陽師系統のミステリ「陰態の家」などが読みやすい。きっちりとしたSFのテーマを据えて情報量を上げた作品はとにかく重い。馬力を掛けた冲方丁「神星伝」が中では異色に見えるけれど、『仙術超攻殻ORION』が思い浮かぶようなアクションの割にはやっぱり重い。その点では吉川良太郎「黒猫ラ・モールの歴史観と意見」が人類滅亡と次期人類への希望を語って軽いのがいい。でも好みで行けば山田正紀「別の世界は可能かもしれない」や堀晃「宇宙縫合」あたりがベストかなあ。
で、また古いSF短編を集めた大森望編『てのひらの宇宙 星雲賞短編SF傑作選』を読むと読みやすくてホッとする。大森望の狙いの一つに古びないタイプの作品というのがあったようで、ここに集められた作品はある意味エヴァーグリーンといえる。筒井康隆から大原まり子までヴァリエーションはオリジナル・アンソロジーの『SFJack』よりも遥かに広く、その分面白さも多様だ。何十年かぶりに読んだ荒巻義雄「白壁の文字は夕日に映える」も雰囲気の醸成だけで読ませる力がある。昔はしょうもないと思った小松左京「ヴォミーサ」だって今読むとその洒落に頷くことができる。リアルタイムだとそんなにピンとこなかったものがこうして長い時間をおいて読むと面白さがわかるというのもいいものだ。各作家の個性が際だって見えるのも大森望の功績か。
アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』がてっきりサンリオSF文庫の再刊だとと思っていたら、どうも出ていなかったらしい。ニセ記憶だ(記憶があやふやなだけとも言う)。200ページ足らずに14編を収めて、その内に8パートからなる表題作が70ページを占めるのだから、実質断片的短編集といっていい。なかにはまともな短編小説らしい結構を備えた作品もあるけれど、どの作品からも伝わってくる感覚は同じものだ。それは一種の神経症的感覚だけれど、カヴァンの文章はそれを的確に読者に伝えることに成功している。こんな感覚を持って生きるのはイヤだよ、と。でもそれを作品に表すことができたことは本人にとってまた読者にとって福音といえるかもしれない。これは「純」文学だ。
短編ばかり読んでいるので、ついでに昨年の積ん読本からかなりの評判となったケイト・アトキンソン『世界が終わるわけではなく』を読んでみた。こちらはカヴァンとは遥か懸け離れた、逞しいといっていいほどの企みとクスクス笑いでいっぱいの作品集。個々の作品は独立したものとして読めるけれど、こちらの作品では端役だった登場人物が、あちらではメインキャラクターになっているという形からすれば連作短編集でもある。冒頭の「シャーリーンとトゥルーディのお買い物」の、終末を迎えている世界で買い物をしようとしているおしゃべりな女性2人は、末尾の短編でも主役となって作品集を締めくくっている。そしてこの短編集のタイトルは末尾の短編の最後の1行となったトゥルーディの台詞から取られているので、実は長編なのかもしれない、といった案配だ。もしかしたらイギリスのコニー・ウィリスかも(あの大長編を書く体力はなさそうだけど)。
高野史緒編『21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集 時間はだれも待ってくれない』で読んだ時の印象はもはや忘れているけれど、ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』は英語圏のファンタジーとは別の幻想小説らしさが満喫できる一作。200ページ足らずの長編だけれど、読みではあってかなりの時間を掛けて読まざるを得ない。読めない字で書かれた本を見つけるというのはファンタジーの常套だし、その本に惹かれて別の世界に足を踏み入れてしまうのもパターンだが、舞台の隅が暗がりになっている視点の置き方や幻想世界の描き方に東欧幻想小説らしい重力がある。時々ピンと来ない文章があるけれども、それを含めての幻想世界といえる。
井上さんの訳したR・A・ラファティ『蛇の卵』は、ラファティの「恐るべき子どもたち」が出てくるいろんな短編の集大成みたいな長編。ラファティ作品の魅力は牧真司が解説で語り尽くしてくれているので、こんな長編が書かれていたこと自体知らなかった程度のファンにラファティがどうのこうのとは言えないけれど、ここにはラファティの語り/騙りが溢れていて嬉しい。この長編は丁寧な日本語で訳してあるにもかかわらず、ちゃんとラファティ節が伝わってくるところが凄い。浅倉さんや伊藤さんの離れ業的訳業は短編だからできることなのだろう。『第四の館』も出たことだし、SFマガジンでラファティ祭りをやってくれないかなあ。
仕事の周辺本で面白かったのが、片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』。昨年5月初刷りで、この3月で9刷り。いまさら読むのかの司馬遼太郎賞受賞作。片山杜秀の文章はクラシック(現代音楽)CD評とか音楽エッセイでたくさん読んでいるけれど、本業の作品を読むのは初めてかな。本書は陸軍ひいては戦争遂行を支える思考の元型となる思想の系譜を、第1次世界大戦の観戦武官をキーにして、この人の音楽評論同様、快刀乱麻で語/騙ってみせたもの。一応学問的研究の成果の書なので、フィクションとして「騙って」る訳じゃないんだけれど、余りの明快さに日中/太平洋戦争の悲惨さを思うと、ちょっとその態度はどうなのと思わないでもない。まあ、その感覚自体がフィクションだといわれれば勿論その通りなのだけれど。
そんなことを考えていたら、亀井宏『ドキュメント 太平洋戦争全史』上・下が文庫で出たので読んでみた。太平洋戦争全史を本気で調べようと思ったら、浅田次郎が解説で書いているように100巻を超える「戦史叢書」は勿論、GHQ文書/マッカーサー文書や英国第2次世界大戦アジア戦域関係文書等も視野に入れて研究しなければならないだろうし、それでも「全史」になるかどうかは怪しい。でも、とりあえずどういう順序でどういう戦闘が起きて、それぞれの戦闘の結果が次のステージにどういう影響を及ぼしたかを手っ取り早く知るにはいい本ではある。仕事で読む以外に戦記物に興味はないので、光文社のNF文庫をズラーっと並べているマニアの話には全然ついて行けないのだけれど、軍港の歴史を調べる上では頭の片隅に日中/太平洋戦争の状況を置いておく必要がある。しかし、身が入らないこともあって読んでも読んでも本で得た知識はすぐに忘れてしまう。以前、駆逐艦「浦風」に乗り組んで真珠湾からガダルカナルをすべて経験し、その後駆逐艦「磯風」に移って、「武蔵」「信濃」「大和」の沈没を全部目撃した人にインタビューしたときは戦史マニア的な知識が必要なことを痛感したけれど。
この「全史」に描かれた悲惨な光景の連続は、片山杜秀の快刀乱麻が別世界を切っているような気分にさせられる。