アナトール・フランス Anatole France (1844〜1924)でSFといえば、『白き石の上にて』Sur la pierre blanche『ペンギン島』あたりなんだが、柳田国男もお気に入りな『白き石の上にて』の未来パートを訳したのが<青鞜>の浅野友。一体何者、と<青鞜>研究者がしゃかりきになって調べてきたはずなんやが、未だ正体は不明。<青鞜>1913年5月〜7月に「未来の王国」を連載したことのみで知られる。
「なお、この作品は大杉栄も注目し、「善いものを紹介してくれた」(「小説三編」『近代思想』一九一三年六月)と評価する。」(岩田ななつ『文学としての『青鞜』』不二出版・2003年)って話は有名だが、実は大杉栄の評では、ボロクソにいわれとるのよな。
最初の20行が作品の説明、次の21〜40行で誤訳の指摘。40行目の後半から41行目のつけたりで「だが、善いものを紹介してくれた」ですよ。
「何語からの翻訳か知らないが、一寸原文に合せて見ると、恐ろしい誤訳だらけのものだ。みだしの『王国』とは一体何んだい。あの中には王様なんぞちつとも出て来やしないよ。先づ始めの…其他数へ立てれば、殆んど二三行毎に一ヶ所位の誤訳がある。」
キッツー。
おそらくこれを読んだ浅野友嬢は、腹掻っさばいて歴史の彼方に消えたものと思われる。
連載各回に、それぞれ脱稿の日付が書いてある。
5月号 四月十六日
6月号 五月十九日
7月号 六月十四日
とすると、7月号は大杉栄の評を読んで泣きながら訳してたんかなあ。
いや、<近代思想>の7月号では今度は荒畑寒村が「前号にも大杉が一寸書いたが、…新時代の有様の説明が非常に面白い…」と好意的に評してるんやけどね。
そのわずか2年後、1915年3月には、土岐哀果訳「白い石の上にて」として再度未来パートが<生活と芸術>に翻訳される。
なんか馬場孤蝶先生にお願いしてたんやが、選挙に出るってんで、そら無理やな、と自分で訳しましたと後記にはある。
「『白い石の上にて』は一千九百八年の作であるから、新作とはいへないが、傑作であることは、だれでも否むことはできまい。元来、この原作は、大冊で前後二百五十頁近い長篇なのだが、僕は特に、その中の一部、即ち『象牙の門から』といふ小題のところを選んで、それを全訳した。これが原作中の最も代表的な部分で、フランスが、学者として、文芸家として、文章家として、その思想、その面目を十分に発露したものの一つである。
これは一種のユートピアで、書斎の空想に過ぎない、とばかり言ふことはできぬ。あの老人のことだから、さう正面ばかり見ることはできないにしても、人類の自覚、社会の発達、文明の進歩が、すくなくもこんな状態を実現するだらうと、全く期待されないであらうか。現在に生活する僕等がこれを心読して、多大の暗示と興味とを感得することは、事実であらう。
唯、翻訳を非常に急いだため、思はぬ錯誤がないとも限らぬ。いづれゆつくり訂すつもりである。」
とまあ、土岐善麿はわりかし、普通の未来小説として面白がってるみたいやが、柳田国男や、柳田に薦められてフランスを読んだ和辻哲郎なんかは「西洋文明偉いっ」という思いこみを相対化させる視点を、この書物から獲得して、日本研究に向かうことになったらしい。
和辻は1940年1月の<改造>での座談会「日本文化の検討」で「将来の問題といへばね、もう三十年近く前の話ですがね。まだ文学青年でピイピイしてをつた時分に、柳田さんに、アナトール・フランスの「白き石の上にて」を「大変いいものだから、ぜひ読め」と勧められて読んだことがある。それを読んで、考が変る位に影響ををうけたのです。」と発言している。
柳田国男の入れ込み具合については<展望>1947年1月の中野重治との対談「文学・学問・政治」の中で編集者にふられて答えた部分
編輯者 先生が外国の本で一ばん影響を受けられたのは・・・・
柳田 アナトール・フランスですね。非常に影響を受けてるんです。半分以上は英訳ですけどね。フランスに行つてる時分にも、フランス語の稽古にだいぶ読みました。小説や作品で繰返して読んだ本といへば、アナトール・フランスぐらゐです。ものによると三ぺんも四へんも読みました。例へば「白き石の上にて」などといふのは、英訳で読み、フランス語で読み、日本訳で読みました。
ですってよ。あとこの対談で、日露戦争の取材に出掛けた田山花袋が、ロシア軍の兵士が捨てて行ったアナトール・フランスの独訳版「白き石の上にて」を拾って来て森鴎外に渡したんだとか、言ってるわけですが、これは違うんじゃね、と書いていた人がいたかと。
ともかくその後平林初之輔による『白き石の上にて』が1924年、新潮社の現代仏蘭西文芸叢書より、さらに『アナトオル・フランス長篇小説全集 第11巻』として権守操一訳が1950年、白水社より刊行されている。なお、権守訳は終戦直後に出版が計画されていたが、翻訳権が取れずにお蔵入りしてたものが陽の目を見たんだとか。
平林訳は国会図書館近代デジタルライブラリーおよびグーグル・ブックスでネット公開されている。
1924年5月15日の<読売新聞>に出た広告からひいておこう。
「此小説は人間の過去と現在と未来との批評である。キリスト教文明に対する一流の皮肉な批評である。科学文明の発達史である。更に、ユウトピアの物語として最も有名である。それは、従来凡ゆる文人小説家の手になつたやうな神の世界や、完全な世界ではなく、現在よりも少しく高度な人間の社会であつて、それは簡単な科学的社会主義のプログラムから驚くべき程の正確さをもつて描き出されたものである。新しい時代のための勇敢な戦士である此の老文豪の最も特色的な代表作だ。」
中身? 起きてみたら未来だった。見物して回った。はっとさめたら夢だった、だよっ。
なんか日本での紹介が大正時代になったことで、ウエルズと対置して読まれてるみたいだけれど、結構ジオスコリデスの影響があるような気が。気のせいかなあ。
ところで先日、水鏡子師匠と遭遇する前に古本市で買ったキットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』ちくま学芸文庫が、実は古典SFのテーマ・アンソロジーだったのでびっくり。←言いすぎでしょう。
テクノロジーによる知覚の変化みたいな事を論じる本かと気にはなってたので、買ってみたんですが、読み始めたら線引きひどすぎ。これで定価の半額は高すぎるのでは。安物買いの銭失いというヤツやね。
グラモフォンSFとしては、モーリス・ルナールの「男と貝殻」La Mort et le CoquillageとフリートレンダーSalomo Friedlaender「フォノグラフに向かってしゃべるゲーテ」Goethe spricht in den Phonographen。
フィルムSFとしてフリートレンダー「蜃気楼機械」Fatamorganamaschine。
タイプライターSFとしてシュミット「ブリブンケンの人々 歴史哲学的試論」Die Buribunken。
三題噺なタイトルから『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を連想してしまうが、同じホフスタッターでいえば『マインズ・アイ』ですな。←だから言いすぎ。
本文の「テューリング勝負」とか、ピンク・フロイドの「君がいたら」「機械にようこそ」とか、「文庫化で手を入れてこれなの感」成分が結構含まれているので、読めないという人もいるかと思いますが、その時は、そのコロモ部分はあきらめてレア度だけは高いSF短篇が入っているものとして、あきらめて買って下さい。
ま、「フォノグラフに向かってしゃべるゲーテ」は『スフィンクス・ステーキ』未知谷・2005年に「ゲーテ蓄音機」のとして別訳があるけどなっ(フリートレンダーはミュノーナ(anonymをひっくり返すという、ストレートすぎなペンネーム)という別名があって、そっち名義の掌編集がそれ)。
ミュノーナは結構戦前に訳されてそうなところなんだが、確認できているのは『スフィンクス・ステーキ』に入っている「道しるべのネグリジェ」と同じ話ぐらい。どっかに埋まっとるのかのお。
あと、モーリス・ルナールといえば、生田耕作旧蔵の短編集を手に入れてちゃんと読んでいる人がおられるのにびっくりだよ。
なお「ブリブンケンの人々」は、政治学者カール・シュミットの初期著作で、日記が強制された社会についてのウソ論文。そんなもん書いてたんや>シュミット。
これは、皆にライフログが強要されていて、それを国家が吸い上げて分析利用する、一般意志2.0なブリブンケン人社会についての論考。まさしく今日的なネット社会に直結しとるし、もっと話題になっていても良さそうな気がするが、そうなってないところからすれば、意外に読まれとらんな、キットラー。
というか、初期シュミットの諷刺文が読まれてないってことか。研究してる人がいないわけではないようだけどねえ。