数学エッセイの席、最近は誰が座っておるのか。ちょっと前は森毅(1928〜2010)で、おっさんらの子供の頃は、矢野健太郎(1912〜1993)な気がするけど、どっちもほぼ読まずに来たなあ。どちらかといえば、その一世代前の吉岡修一郎(1902〜1998)の方が生き残っていて手に取る機会があったかも。
いや、吉岡修一郎が戦前にクルト・ラスヴィッツ Kurd Lasswitz(1848〜1910) の話を紹介してるので、翻訳も探せば出てくるのかと思ってたんやが、今日に至るまで、結局行きあたらず。吉岡の本が珍しくないので、わりと皆、知っている話のような気もするけれど、今回はその紹介。
まあ、羽太鋭治が『両惑星物語』Auf Zwei Plantenから影響を受けてるっぽい科学小説を書いていて、多分外国種なんやが、詳しいところは調べがついていない。大体、なんで羽太が火星人の出てくるSFなんだよ。というところからして問題なわけやが…。
編集部は当然、性科学小説を書いてもらうつもりで科学小説と発注をして、羽太はそれをわかっていて、捨て身のギャグで普通の科学小説を送り付けた説。
ってのは、おいといて、吉岡修一郎は『数のユーモア』誠文堂新光社、1939年所載の「恐しい観兵式」で
「一人の大学教授と一人の編輯者とが万有図書館の大きさに就いて話し合つてゐます。万有図書館は、その言葉の示す通り、科学・歴史・道徳・芸術・哲学などあらゆる方面について、人間の到達し得るあらゆる知識の書物を網羅する様な図書館のことです。さて、そんな図書館の大きさはどんなものでせうか。それを計算して見ます。」
と書き出し、本の冊数がこれこれ、1冊2cmとして書庫に並べられた本を、光の速さで移動するとして、2年で見られるのはこれだけで、図書館全体に並ぶ本の数はそんなものとは全く桁が違う。ってな調子でここに現れるのが如何に途方もない数であるかを説明する。
で、「この話は私が作り出したのではなくて、クルト・ラスヴィッツといふ小説家のモダンお噺話「シャボン玉」といふ本の中にあるのです。」と紹介する訳やね。
これがあれですな、『世界SF全集31巻』所載の「万有図書館」(Die Universalbibliothek 邦訳は英語訳からか)。
しかし Seifenblasen: Moderne Marchen が吉岡さんの手元にあったのかねえ。なんかドイツの数学雑学本経由かもしれないという気がしないでも。
というのは、Seifenblasenには邦訳のあるAuf der Seifenblase(「シャボン玉の世界で」『独逸怪奇小説集成』国書刊行会)、Aladdins Wunderlampe(『魔法のランプ』郁文堂)が入っているだけで、Die Universalbibliothekは収録されていなかったようなんだよねえ。
吉岡は、もう一つ「同じラスヴィッツの小説で「夢の結晶」といふのには、相対性原理に関係した面白い話が出てゐます。」として「悪魔と相対性原理」の項目を立てて Wie der Teufel den Professor holte を紹介してるので、Traumkristalle を持っていたとすれば、そっちに万有図書館が入っていたはずなんやが。
Wie der Teufel den Professor holteはF&SFに英訳されていて、ファイデマンの数学SFアンソロジーにも入っているので、他でもあらすじ紹介されたことがあるような気がする。
吉岡の紹介はこんな感じ。
「一人の教授の所へ悪魔がやつて来て、彼を宇宙旅行へと誘ひ出します。そして、特に宇宙旅行の為に設計された空中自動車に乗つて飛んで行きます。スピードはいくらでも、お好み次第に加減出来るので、光の速さの十倍乃至二百万倍程度でどんどん昇うて行きました。
所が、困つたことに、この航空自動車は直線的に前の方へしか動けないのです。」
でも、宇宙が曲がっていて有限なので、まっすぐ行くと戻って来れました、ちゃんちゃん。
って、宇宙の曲率がどうこうというのは一般相対性理論(1916年)で、ラスヴィッツがこの話を書いているのは19世紀末なんだが、相対性原理の小説なのか、これ? いろいろなことについて詳しくないが、勿論宇宙論の歴史だって詳しくないので、よくわからん。とりあえず、ラスヴィッツ偉いっ、で済ませておいてかまわんの?
さて、この吉岡修一郎さん、かなり面白そうな人物なんですよねえ。
今だとウィキペディアにも項目がたってますが、東北大の理学部を卒業。そのあとさらに九州大学法文学部を卒業して、戦後には医学の博士号を取ってるって、ちょっとおかしいのではないかと思える万能ぶりである。いや、博士論文の題が「人の性格に関する脳波学的研究」というあたりも怪しさをかもします。
<科学読物研究>26号・2005年に科学読み物の作家として興味をもって吉岡修一郎さんを追いかけた松崎重広さんという方のレポートがあって、紆余曲折な経歴は、そちらにも出ているんだけれど、学生社が出していた「科学随筆文庫」というシリーズの遠山啓&吉岡修一郎の巻、『数学のきずな』の「著者略年譜」が何も書いてないけど内容的に自筆の年譜なのは確かなので要注目。
ちょっと抜き書きすると
「大正十一年四月、東北大学理学部へ入学。この大学の理学部は、日本一自由な男女共学の学校で、わたしの性質によく合っていた。ここでわたしは、病気のために、家にいながら試験を受けたことが二度もある。これは世界でも珍しい記録だろうが、それほどここの先生は自由で、少なくとも数学・物理学の教室では試験に監督なんていたためしがなかった。」
で、1925年に卒業して、鹿児島で先生をやっていたのが、1931年に九州大学の文学部に入って哲学を専攻、心理学の勉強も。1934年に卒業して、講師と著述の仕事をやっていたのが「昭和二十五年ごろから精神医学を中心に医学の勉強をはじめた。昭和二十九年九月から久留米大学医学部の講師になって、翌年三月から専任講師として医学概論と医学心理学の講義を始めた」
って、この記述だけだと独学で医学を修めて先生になっちゃってますが、行間に何かあるんでしょうか。
久留米大学の哲学教授のかたわら医学部の講義もやってましたで、脳波学的研究で医学博士になるわけで、興味津々、ラスヴィッツなんてどうでもよく…なりませんかそうですか。