続・サンタロガ・バリア (第111回) |
111のゾロ目回だけれど、イマイチ気分が盛り上がらない今日この頃、歳の所為かなあと低空飛行中。
とりあえずジャズでも聴こうと昔は手を出さなかったファンキー系をブルーノート廉価版CDで聴いてみた。アート・ブレイキーはまあ当然の音だけれど、ハンク・モブレーの超有名作『ディッピン』が1965年の作品だったのを知ってびっくり。コルトレーンやマイルスの音に慣れた耳で聞くと、とても同時代とは思えない。後で調べたらリー・モーガンの大ヒット作『サイドワインダー』が1963年だったので、それほど時代離れしてるわけじゃない。むしろ一般的にはこちらが普通のジャズだったんだ。ファンキー系を聴いてなくてもどこかで耳にしている「リカード・ボサノヴァ(これに歌詞が付いのが「ザ・ギフト」)」は調子の良さで聴かせるけれど、聴いてて嬉しいかというとやや疑問。ここら辺はもうファンキー系じゃなくて、当時云うところのジャズ・ロックなんだろうな。エイト・ビートを取り入れたジャズといいながら、60年代後半から出てきたシリアス系ロックのソフト・マシーンやニュークリアス、またはアメリカのブラス・ロックなどとはまったく違う70年代クロスオーヴァーとも違うし、60年代前半の独特のジャズという感じがする。
夏枯れか積極的に読みたいと思う新刊SFがないと思い、星雲賞を受賞した山本弘『去年はいい年になるだろう』を読む。星雲賞受賞作は海外長編を除いて読んでないものが結構あるなあ。山本弘はすばらしいSF作家だけれど、時々ついて行けないくらいマニアックな指向の持ち主なので、出版当時は作者本人を主人公とした山本弘臭が強すぎる自伝的作品と云うことでスルーしていた。読んでみると確かに作者の経歴を生で書いているように見えるし、安田均の描き方も現実の安田さんの雰囲気を彷彿とさせるので、やや鼻白むことがないでもない。しかし、最後の方を読む内に、これはかなりの芸当ではないかと感じるようになってきた。必ずしもSFが読みたい読者が多いとも思えない掲載誌で、読み手のリアリティ感覚を保証する為の戦略がオタク作家「山本弘」をキャラクター化することだったと思われる。タイム・トラベルの論理の暴走の面白さを読者に、たとえそれ自体は読者を選ぶとしても、とにかく伝えたいという意志は伝わってくる。それがSFとして良い作品になっているということだろう。
本棚を埋めている未読本の内、そろそろ片付けるかと思って手にしたのが、マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』。奥付(前にあるけど)の2002年を見て、もう10年も経つのかと感慨に耽りながら読み始めたんだけど、すぐにこれはリアルタイムで読んでおけば良かったと後悔した。まず、モノとしての本が重くて疲れるし、脚注で延々と続く物語を読むのは老眼には辛い。デジタル技術が普通になった今、この物語で使われた撮影・録音機器が古い時代の刻印を帯びてしまい、リアリティが括弧入りになってしまったことや『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の面白さも今や伝説に過ぎなくなってしまっていることなど、ホントに祭りの後。基本的に『紙葉の家』は生モノであったのだ。10年で腐ったと云うよりは、干物になったというべきか。
2週間あまりかけて読み終わったけれど、ある意味ディレイニーの『ダールグレン』ほどにも読み応えがない感じが残った。それでも発刊当時の様々な言説、そして何といってもこれを日本語にして見せた嶋田洋一と編集部の大変なノリは驚異的としかいいようがなく、その結果は今に残り、伝説の確かさを証明し続けている。とはいえ同じ形態での復刊は難しいだろうなあ。
『紙葉の家』を読んでる最中に、ちょっと辛いので、ササっと読めそうなものを読もうと瑞智士記『展翅少女人形館』を手に取った。作家の名前は読めないが、中身の話はスイスイと読めて2日で読了。ホント、わが国のエンターテインメントは如何に読みやすく文章を組み立てるかについては最高度に発達したよね。話の造りから浮かぶのは、ちょっとこそばゆい感じのゴシック・ロリータ学園演劇みたいなものだけど、悪くはない。どうせここまで舞台設定に無茶ぶりを持ち込んだんなら、もっと暴走しても良かったのにと思ってしまうが、それでは商品にならないか。ラノベ系作家の作品は読みやすいし、それなりのモノが出てきていると思うけれど、基本的に上品印のタガが嵌っている。