今月はブックレビューです。
著者の2004年から11年にかけての116編を収めたエッセイ集。俳句誌「渦」、短歌誌「あめつち」に連載していた随想を集めたものである。SF作家眉村卓と俳句/短歌に、どんな関係があるのか、という疑問を抱かれた方は、深夜叢書社から出ている句集『霧を行く』(2009)を参照されれば良いだろう。著者は高校時代から俳句に取り組んでおり、同人誌(俳句の場合、プロ雑誌というものはない)に掲載もしてきた。
さて、しかし本書は句集ではない。既に古希を過ぎた(本年で喜寿77歳)が、もはや珍しくもないコキである、として始めたエッセイである。数字が常に気になる、妻が亡くなり子供が独立した後の漂泊の気分、独白に答える会話機、つまずかない歩き方のみっともなさ、めんどうなので論争を避けること、何にでも「もうよせこんなことは」をつける、意識的な時代遅れ(パソコンもデジカメも使わない)、(技術が変化し)予備が持てない時代、仕事の発想狭窄、疑似記憶、歩く速度が遅くなった、チャンネルの数、処女長編当時の予感、ご都合主義を前面に出した作品、不満処理します、自分から抜け出した内面の声、鬼の潜んでいた暗がり、自転車泥棒との騒動、幼いころの冒険、失われた風景と記憶、刃物の恐ろしさ、聞いたことのない音を出すハイファイ、強いもの勝ちになった超能力、就眠儀式と無念無想、ものの見方と気持ちの揺れ、――と、ここまで間を飛ばしながら、ようやく半分である。
著者はそもそもワープロも導入せず、今でも手書きで原稿を書く。携帯は(通院などしていた関係で)やむを得ず持つが、メールは自ら打たない。仲間は次々亡くなるものの、まあ自分も同じことだと動揺しない(そういえば、同い年の筒井康隆も、似た趣旨で書いていた)。近頃の世の中は何でも明確な結論を求めがちだが、そもそも世の中に真理などありはしない、あるのはさまざまな立場とさまざまな真実だけだ、という眉村作品全般を象徴するような一言もある。「しょーもない」と称する、諦観なのか余裕なのか分からない166のエッセイからは、一歩退いて物事を見極めるベーシックなSF作家の視線が感じられる。
ところで、同じく1934年生まれのハーラン・エリスンは、訴訟を起こすなど、まだ枯淡の境地には至らないようである。
|