続・サンタロガ・バリア (第109回) |
夏が来て、変な台風が来てそこらをウロウロして去っていった。後片付けが大変。などといっている場合ではないのだが、暑い部屋で東京事変の『大発見』を聴きながら冷たいビール(モドキ)を飲むぐらいしか消暑法がないのが現実というものです。
ロバート・チャールズ・ウィルスン『クロノリス』は、物語を紡ぐ手つきが後に書かれた『時間封鎖』とまったく同じなのにびっくりする一作。話のネタはまったく違うので、それなりに愉しめる。なんといっても未来から現在に次々と出現する独裁者(?)の銅像(銅じゃないけど)とタウ・タービュランス理論がバカSFの楽しさを作りだしてくれている。でも、主人公の人生のグタグタは(たとえ現実では誰もこんな家族問題を経験しないとしても)ありがちで、そちらは興を殺ぐ方向に作用している(そんな感想はいくらなんでも作者がかわいそうか?)。それにしても銅像を(おそらく巨費をかけて)過去に向けて送り出すって、笑えてゾっとするアイデアは素敵。
サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』は、ようやく日本語で読めるようになったということ以外に何といっていいか、ちょっととまどう作品だ。学生時代にあの分厚いペイパーバックを買って最初の数ページをパラパラと眺め、こりゃ判らんとあきらめて以来、これを(仕事として)訳す人間がいるとは思っていなかったので、翻訳が出ると知ってからでも、あんまり信用してなかった。しかし、時代は変わって少々遅れ気味でも、ちゃんと読める形になったのは嬉しかった。
30年以上前に感じた取っつきの悪さは、いきなり文の途中から入ることもあって、日本語でも同じ。読み進めている内に気づいたのは、ここにはディレイニーらしいナイーヴさが表に出ていて、60年代の作品に見られる詩的で華麗といってもいいイメジャリーとしてのSFガジェットがない分、それが痛々しいほど感じられることだった。物語自体は60年代のヒッピー・コミューンでの体験を反映した、名前を失った男の架空都市ベローナでの経験を三人称ながら独白的なスタイルで綴ったもの。物語全体として構成はゆるく、ディレイニーは自分の経験とベローナを神話化することに失敗していると感じさせる。
しかし、ここにはディレイニーがそれまでに手にした文学的技法をすべて注ぎ込もうとした跡がそこここに見られ、それがこの作品を謎めいて魅力的なものにしている。『ダールグレン』のディレイニーは、ジョイスにもマルケスにもそしてピンチョンにさえ比肩しうる作家とはいえない。でも魅力的なディテールや仕掛けに満ちていることには違いなく、翻訳されたこととそれが読めたことで、十分ではないだろうか。
ところで以前仕事で戦艦大和のことを調べていたら、戦後米軍に大和型戦艦用46センチ主砲が接収され、ワシントンDCから車で2時間あまりのヴァージニア州ダールグレン大砲試射場に持ち込まれたが、結局試射するまでもなくスクラップにされていたことを知った。また大和型戦艦の主砲塔前面を防御する厚さ65センチの鋼で出来た装甲板もダールグレンに持ち込まれ、こちらはアメリカ製41センチ砲で撃ち抜いたものがワシントン・ネイビー・ヤードにモニュメントとしていまでも展示されている。これは『ダールグレン』とは何の関係もない話。装甲板は返して欲しいなあ。
『ダールグレン』に思いのほか日にちを費やした為、読めるはずだったものが何冊か積ん読状態になったけど、その間読んでいたもうひとつの長い作品が佐々木中『定本 夜戦と永遠』だ。一部で話題の『切りとれ、あの祈る手を』は読んでないけれど、『本の雑誌』で鏡さんが読んだというので気になったのがこちらのタイトル。
本屋で手に取ったとき、サブタイトルの「フーコー・ラカン・ルジャンドル」を目にして、えっ、その手の本かよと思ったことは確かだ。20年くらい前、出たばかりの『アンチ・オイディプス』を知り合いからタダで貰って、自腹を切って買ったフランス現代思想解説本を片手に読了したものの「器官無き身体」が何なのか最後までサッパリ判らなかった。それでも買ったのは、鏡さんが読んだのだから見所はあるのだろうというのと、フーコー・ラカンはともかくルジャンドルって誰だという興味もあったからだ。
で、読んでると判るのは、この作者はまず「オレのハナシを聴け」タイプの読者を引きずり回す強力な文体の持ち主だと言うこと。現代フランス思想界の橋本治みたいなヤツだ。強い評論家というのはまず戦うに足るもしくは戦える相手と場所を選んで、得意技をかけて読み手にその腕力を示してみせる。橋本治は日本人しか相手にしないし、当然註もないけど、こちらはアカデミックな「おフランス物」なので原文の註が何十ページもついている。そして、ところどころに入れられた注釈がこれまた面白い。この作者はここぞというところで、難しいコトバに凡人が連想する俗な常識をぶつけて読者を安心させたり、何かというとミエを切ってみせるので、しちめんどくさい論旨がバッとほどける(ような気にさせる)。作者はラカンとフーコーの著作を丹念に追って(るかどうかわわからないが、そのように見せている)、両者をルジャンドルで計って見せるという形を見せて、読み手にラカンとフーコーの難儀さを伝えている。しかし、この長い長い言説のエピローグは、躁的な昂ぶりを感じさせる物言いで、書くことの根拠「永遠の夜戦」を宣言するのだ。すべては書くことから始まる、と。これはその野心と策略からエンターテインメントな作品といっていいが、たとえば東浩紀が『存在論的、郵便的』で見せたデリダの声を探し求める生真面目さはない。