ウィアード・インヴェンション〜戦前期海外SF流入小史〜033

フヂモト・ナオキ


ロシア編(その三) ボグダノフ(ボグダーノフ)/大宅壮一訳『赤い星』Красная звезда : роман-утопия

 ロシア文学史上の位置付けとか、今日的な読み所なんてところは、もう沼野充義先生(「空飛ぶ共産主義―ボグダーノフの火星ユートピア」<へるめす>43号:1993年5月→『ユートピア文学論』作品社、2003年)と永瀬唯先生(「血のコミュニズム 赤い星、吸血のユートピア」(デッド・フューチャーReMiX)<SFマガジン>2006年12月)を見ていただければ、ってところ。

 で、まずは大宅壮一(1900〜1970)による独逸語版Der rote Sternからの訳本が出たころのお話。大宅は『赤い星』邦訳刊行直前の<新潮>23(3):1926年3月1日に「文学とユートピア―ボグダノフの近著「赤い星」を読む」を発表。時期的にも内容的(訳書の序文と重なっている)にも、これは新刊のプロモーションを意図したものでもあろう。『大宅壮一全集』に収録されているが、初出年が間違っているよ。
 <新潮>は、さらに6月号に新居格「無産階級論理の根本問題―ボグダノフの「赤い星」を読む」を掲載。
 ちなみに7月には出版記念納涼会と称して新居『月夜の喫煙』大宅『赤い星』木村毅『文芸東西南北』の合同出版記念会が開かれる。木村毅は後に『大衆文学十六講』の中で『赤い星』を取り上げており(浦島太郎と『赤い星』を比較して、説得力がお伽噺とユトーピア文学を分けるとする「第六講 ユトーピア文学と科学小説」)、いやもうこの際、ここは強力なボグダノフ・コネクションが三人の間にあったということにしてしまうのはどうか。←だめでしょう。

 <新潮>5月号に掲載された広告文に改行を多少加えて引用しておこう。新聞広告だと、さすがにここまで長くないダイジェスト版なんだが「新生活に対する激しい憧憬を有する読者は来つて此画時代的作品に接せねばならぬ。」と煽ってます。

 マルクスは彼以前の社会主義者を一括してユートピアンとして斥けた。然るにマルクスの流れを汲む経済学者にして労農ロシヤの経済委員長であつたボグダノフがユートピアを描いたとすれば、それは果たしてどんなものだらうか。
 話は全世界を震駭させたボルセヴヰキ革命の勃発と共に始まる。主人公はインテリゲンチヤから革命運動に身を投じて衆望を一身に集めてゐる勇敢なる青年闘士である。彼はどんな経路を辿つて地球の兄星たる「赤い星」即ち完全に社会主義化した火星に赴き、其処で何を見聞し、どんな失敗を演じたか。次から次へと奇想天外な事件を展開させて行く作者の驚くべき豊富な想像力と、多方面に亙つて正確な科学的知識と、寸分の隙も見せない創作的手腕とは、唯々驚嘆する外はない。
 彼が革命前南国伊太利のカプリ島でレーニンやゴルキーと共に労働学校を開いてゐた時、彼の頭に描かれた様々な夢が、革命の坩堝に投じられて此物語を生んだのである。此物語全体を貫いてゐる思想は、新しい生活に対する激しい憧憬と、旧い世界の烙印から逃れようとする血の出るやうな苦悩とである。これをチエホフやツルゲネフの作品を色づけてゐるブルヂヨア臭味芬々たる「悩み」と比較する時、驚くべき割時代的の相違の存することがわかる。此相違こそ、嘗て地球の人類が嘗めた最も偉大な経験、即ちロシヤ革命が我々に与へた貴重な贈物である。
 レーニンの「国家と革命」が社会革命の第一段階を理論づけたとすれば、此書は第二段階、即ち万人が銘々「その能力に応じて働き、其要求に応じて分配」せられる世界を描いたのもである。芸術と社会科学と自然科学とが完全に調和して人類の未来を奏でる素晴らしい管絃楽である。

 下田将美(1890〜1959)が<時事新報>に書いた一文「五月雨の書斎から」から『赤い星』にふれた部分を引用すると、以下のような感じ。結構広告文に引っ張られてる気が。

 これは明かに社会小説と銘をうつたもので著者は労農ロシアの前経済委員長ボグダノフ氏である、著者が著者なら小説が社会小説だと云ふ以上誰しもボルシエビキーの宣伝を目的とした半事実半理想をまぜた小説であるかのやうにも考へるであらうが実は全然架空の夢的小説である。完全に社会主義化した火星から地球の代表的人物を求めて来る。選まれたロシアの実行家であり理智の人である立派な青年が遥々火星まで連れられてゆく。そこには彼が今まで理想として描いてゐた世界が現実の姿となつて行はれてゐる。青年は驚嘆する。しかしやがて彼は非常な失敗をして再び地球へ送り返されて来る。何によつてかかる失敗をしたかと云へば彼の心に知らぬ間にこびりついてゐる人間の過去の因習である、ボグダノフはこの小説によつて理智や理想では人間の正しい進路を充分に知りつくして居きながら、過去の環境によつていつか人間の心にこびりついてゐてはなれない旧い心の悲哀を描き出さうとして居るのである。著者が有名な経済学者であり、科学的知識が充分である為めに、ユートピアを描いた小説ではありながら、いかにも真実性を帯びてゐて、読み出すとしまひまで読まずには居られない。蓋し、近来訳された所謂社会小説中の白眉だと云つてもよい程愉快で面白いものである

 ボグダノフ Aleksandr Bogdanov(1873〜1928)を読んだ話を書いている人には全然行き当たらないが、田中英二のお父さん(田中英光)は読んでいたみたいやね。
 ボグダノフ・ネタとしては日本に移住して早稲田でロシア語の先生をやっていたワノフスキーがボグダノフのお友達だったらしいのだが、いまいち詳しいことがわからんので(なんか宇宙精神の啓示を受けて、日本に興味を持ったようなことも書いていて、要注意なんだが、まあどう見ても、おめースパイやろっ、と問い詰められそうな立場の人やし、電波系フレーバーをまぶして撹乱を図ってた可能性はあるかと)、以降、田中英光ネタに走る。

 1947年7月の<近代文学>に「無名作家の手記」として田中英光は「ウエルズや、ヴェルヌやボクダァノフやエレンブルグなぞの、未来小説というものが、いつも、それほど面白くない、これらは三流小説以下に思われる。モッとも日本の、俺は二流小説だといつていた若い作家の吹けば飛ぶような際物純文学よりも面白いが」なんて書いている。これは読まずに馬鹿にしているわけではなくて、モロー博士の島の内容にふれていたりするので、実は結構喜んでSFを読んでいたらしい。

「一体にただ筋の面白い本が好きで、左翼関係の本でもアプトン・シンクレアの「ジャングル」やボクダノフの「赤い星」のような小説類を好んで読んでゐたから、私の頭は理性的に鍛へられるよりも、ただ乱雑な放恣な空想の中で水膨れになつている塩梅だつた。」って話が、「少年の信仰」<新小説>1947年8月に出てくるのだが、そこで空想していたという話が以下。

自分を英雄にした空想物語で過すやうになつてしまつた。…その物語の見本をいま思い出すままに書いてみよう。その物語によると私は実はその昔に、東勝神州の火焔山、それはつまり日本の富士山のことだが、その富士山がまた一大活火山だつた頃に、その火坑内にあつて五行三昧火の修練を積んだ真人なのだ。…私の真術は天下無敵で、歴史あつて以来、人類に仇を為すあらゆる妖魔を征服して、全人類の驚嘆と感謝の的となつてきた。即ちいまは私は天界を追放されてゐるので、私に関する歴史は人類の記憶から抹殺されてゐるが…他の島宇宙の天帝から、私たちの銀河系宇宙の天帝に突然、宣戦が布告され…

 ち、中二病全開かよっ。いや、ありがちな妄想かもしれんが、ちょっと凄い気が。空想だけではなくて、どこかに原稿が残ってたりせんのか。ちなみに左翼関係の本が手近にあったのは、英光の兄が筋金入りの活動家だったからと思われる。

 英光のSFってことで横田順彌氏が単行本未収録の作品から『日本SFこてん古典』で「地球と火星の戦ひ」を紹介して、『戦後初期日本SFベスト集成』に「現代変形談」を収録してますが、『田中英光全集』に入ってるものでも「人魚恋愛行状記」は本当に人魚の出てくる話だし、「肉体交換」はW.L.アルデンの「実験魔術師」を下敷きにした、そのものずばりな話。あと「忍術使」ってのも相当無茶苦茶な話です。
 田中英光のヘンな話は基本的に単行本未収録のまま埋もれていそうなので、この際、発掘して光二&英光のダブル・ネームで(『かわったかたちのオリンポスのくだもの』と銘打って作品集を作っといた方がええのと違うかと。


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