みだれめも 第200回
水鏡子
□『微睡みのセフィロト』の解説仕事をした。不器用なので、一度向き合った作家について、ちがう言葉を紡ぐことなかなかできない。大森望にすっぱ抜かれたしまらない理由もあったりするけど、それ以上に、復刊された本なのだから初見の印象を重視して、昔のTHATTAの文章に今現在を重ね合わせて書き直してもいいだろう、と自分の中で辻褄を合わせた。ブラッシュアップであるぶんいつもより出来はよくなったと思おう。仕立て直しそのこと自体に迷いはないが、『微睡みのセフィロト』でググると、元ネタの文章がかなり前の方でヒットするのにけっこう参った。舞台裏を見られるのは正直つらい。かといってネット上から削除するのも、もっと姑息な気がして嫌だし。悩みどころですね。
答えを求めた小説と、求め得た答えを検証する小説、手にした答えを呈示する小説と、3つ分ける方法は、ほかの作家にも援用可能なはずなのだけど、なぜかすぐには思いつかない。ただ、冲方丁についていうなら、『オイレン&スプライト・シュピーゲル』は、9・11の衝撃を経て、現実世界と向き合う立ち位置を痛切に求めた小説に見えた。まだ1冊目であるので、確信はできないが、『テスタメント・シュピーゲル』は、そのあたりの問いかけからふっきれた、前シュピーゲルで得た答えを検証する作品となるのでないかと思ったりしている。そして『天地明察』を、ほのみえる答えの呈示となる小説、『微睡みのセフィロト』に位置する作品として読み解けるとうれしい。
で、『天地明察』である。この傑作はユートピア小説であって、〈サイエンス・フィクション〉であるけれども、ぼくの中では〈SF〉でない。
山本弘の『詩羽のいる街』が〈SF〉であり、『天地明察』は〈SF〉でない。
それは『詩羽のいる街』が、ひとつのシステムが立ちあがり、立ちあがったシステムは制度化され、自己運動を起こしながら世界の仕組みを変えていく物語であるのに対し、『天地明察』は人の意思が科学的な思考を支えに世界を変え、システムを変えていくからである。昔、山田風太郎の忍法帖をSFと断じ、チェホフの「決闘」がSFでないとした意見なんかとつながる論旨。
ユートピアの核となるのは『詩羽のいる街』ではシステム(科学)だが、『天地明察』の核を形作るのはイデオロギーだ。懐かしの二分法。ちゃんと読んできてないからまちがった使用法だと思う。どちらが是ということでなく、ユートピア小説として同じく心地いい小説ながら、ぼくのなかで片方が〈SF〉であり、片方が〈SF〉でないというだけの話。
□システムが立ちあがり、世界が変わる。それがSFであるというのが最近のぼくの好みとするSFの条件であり、定義であったりする。同時にそこに、システムが立ちあがり、世界が変わることに対する作者のわくわく感ドキドキ感と、それを読者に伝えたい、読者と共有したいという強い思いがあってほしい。それはそんな世界が眼前で展開されることへの作者自身の興奮であり、それが驚きつまりセンス・オブ・ワンダーの正体ではないのかなどと考える。また、そんな驚きとは無関係でも、小説世界が立ち上がり、眼前に展開していくことへの興奮による作者のわくわく感ドキドキ感、それを読者に伝えたい、読者と共有したいという思いこそ、あらゆる小説が生み出され、読まれていく本質でないかと思ったりする。
1930年代のSFでは未来や宇宙や異世界といった舞台概念、人類やタイムマシンや宇宙旅行といったアイデアが小説に導入されただけで小説世界を変えた。ほとんど同じあらすじの話であっても、〈人類〉の物語は〈人間〉の物語から小説世界を変容させる。まるっきり同じ展開の話が舞台や未来であるだけで小説世界は変貌する。世界を変えるシステムは概念そのものののなかに内在し、存在するだけで十分だった。ファンタジイの舞台や魔法や妖精とのいちばん大きな違いは、それらが荒唐無稽でありながら、どこか現実世界と地続きである可能性にあった。そしてそれはイデオロギーであった。
そんな概念が稚拙なリテラシーの中で使いまわされ驚きを喚起しづらくなるなかで、さまざまな素材に通底するシステム的要素を抽出し、そこにSFの本質性を見出して、ランクアップを果たしたのがアスタウンディング=キャンベルの40年代黄金時代だった。そしてそれは方法論であったというのが、ぼくなりの手垢まみれのSF観。
なんの話かというと、ぼくのなかで、伊藤計劃より山本弘に支持が傾く理由説明だったりする。
「哲学的ゾンビ」という概念は、作家にとって相当のマッジックアイテムみたいだ。山本弘「七パーセントのテンムー」、伊藤計劃「From the Nothing, With Love」、うえお久光「紫色のクォリア」、思いつくだけでも見比べたくなる話がが次々出てくる。
先々月、『悪魔のミカタ』を皮切りに全作一気読みしたうえお久光については稿を改める。(ちなみに先月は成田良悟を一気読みした。新刊が出るたび買うはめになる作家がどんどん増える)。
問題は、伊藤計劃と山本弘である。創元アンソロジーに収録され、同じ素材を扱った両者を並べて、作家的技量、リテラシー・センスはどう考えても伊藤計劃が上位に思える。ところがぼくが読みたかった〈SF〉とは圧倒的に山本弘だった。そしてその評価軸は、今年の『SFが読みたい』のぼくの選んだ「0年代ベスト」の選択とも重なっていく。他の投票者から圧倒的に支持された伊藤計劃を、ぼくはベスト10に選ばず、山本弘の『詩羽のいる街』を押し込んだ。
昔、エドモンド・ハミルトンの短編集を読んだ時の感想を思い起こした。「アイデアの扱い自体は今から見れば稚拙そのもの、以後の幾多の作家によって磨きあげられ使い古され捨て去られたアイデアの粗雑な原型だったりする。それなのに、すごく面白い。
SFにとって大切なのは驚くべきアイデアではないんじゃないか。ほんとうに大切なのは、作者があるアイデアに驚くことができる心であり、その驚きを読者に伝えよう、読者と共有しようとする意思と、それを可能にするための小説を組み立てるフォーマットと技術にあるのではないか(『星々の轟き』レビュー)」
30年くらい前に書いた文章だけど、今もこの考えは変わっていない。ハミルトンと比べると、山本弘のリテラシー・レベルは数段上位と思うけれど、このときハミルトンの魅力として指摘をした部分について現役作家でいちばん体現しているのが山本弘でないかと思ったりする。
そしてこの文章は、その数年前に翻訳されたトマス・M・ディッシュによるぼくの大好きな罵倒文「SFの気恥ずかしさ」への反対意見の表明だったりする。
「おまえたちが、センス・オブ・ワンダーなどと言っているのは上京したネズミが目の前に広がる光景に圧倒された無知のなせるわざにすぎない。都会のネズミがかれらの喜び様、感動するさまを、憐憫と侮蔑を底に沈めた慈愛の目線で見つめているのに気もつかないで」というディッシュに対し、都会ネズミに恥じ入って、田舎のネズミの喜びを否定するのがそんなに正しいことなのかといろいろ考えたりした時代だった。
結局そこで田舎のネズミと居直ったぼくのその後の作家作品評価のなかには読者としての成長は続けていく必要はあっても、あくまで田舎のネズミとしてのプライドは維持しなければという思いが常にあったように思う。
唐突にそんな昔の話を思い出したのは二人の作家を引き比べるうち、田舎のネズミの好きそうな山本弘、都会のネズミが好きそうな伊藤計劃という連想が湧いたせい。
そしてぼくのなかでの仮想敵は、作家作品本体よりも、都会のネズミが「これは単なるSFではない」などといった前振りで行いそうな評価のされかたそのものだったりするかもしれない。『ハーモニー』は、それなりの傑作だと思っている。ただこの流れで書いていくと、不満点探しに入ってしまって伊藤計劃について自分の楽しんだ気分を削っていきそうなので、これらよしなしごとを書きつづり、作品評価に踏み込むことはやめておく。
なんとなく、伊藤計劃は褒めないと、SFファンとしての資質を疑われそうな風潮が生まれかけている気がして、そういうことへの反発もあって一言。
□神戸にビルの1フロアをまるまる借り切ったマンヨー書店という古本屋さんがある。去年の12月30日にひさしぶりに覗きにいったら、店じまいセールをやっていた。文庫と新書が一律30円!という目を剥くたたき売り。あと、雑誌・単行本は値付け525円までが30円、1050円まで100円、2100円までが300円、それ以上の値段の本が6割引きである。セールが始まったのが12月23日で、気がついたのが1週間後。めぼしいラノベや翻訳ものはあさり尽くされたあとだった。それでも、30円や100円なら、買える本は山ほどある。一生読まないだろうなと思いながら、3か月毎週通って(電車代の方が高くつく)、100sくらい買い込んだ。
グラム単位で一番のお買い得は『出版総覧 1959年版』(300円)。『宇宙の妖怪たち』、『火星人ゴーホーム』『わが赴くは星の群』といった刊行作品の並ぶ出版目録は眺めるだけで楽しい。巻頭の座談会が面白かった。この年、時限立法だった学校図書館法が終了し、図書購入費が教材費に包括されてしまったとのこと。おりからのテレビの普及期にぶつかり、学校が児童図書の購入に充てていた予算をテレビの購入経費に使ってしまって、出版界が大打撃を受けると戦々恐々としている。日本におけるSF草創期の業界事情や脆弱性が感得できる。同時にぼくの小学校時代、図書室に児童用SFシリーズが大量に揃っていたり、ベリヤーエフの全集とかソビエトの現在と明るい未来(コルホーズやソホーズとかルイセンコとかが紹介されてた)を語る本が目立った理由も日教組が元気であったこととかとからんだそういう法的事情もあったようである。ということは、日本でSFが子供たちの心を通じて根付くにいたった一因は、学校図書館法にあったといえるのではないか。こういう風と桶屋はみつけただけでうれしくなる。
「ブックページ」98−00年版3冊を各2400円で買えたこともそこそこうれしい。4800円(88年版)の定価ではじまった年鑑だが、年々値段が上がって1万円を越えたため、10冊で購入を打ち止めにしていたものの続きの3冊である。この年鑑はその年に出たあらゆる本の概要・あらすじ(といっても要は裏表紙に書かれた数行の文章を引き写したものにすぎない)が載っていて、買う予定のないエロ小説やノベルズ本のあらすじを嘗めるように読んでた時期があったのだが、数年目にしてフランス書院やマドンナメイトのあらすじがカットされてしまった。どうやら、大口購入先である図書館関係から棚に並べづらいと難色を示されたためらしい。SF・ファンタジイがらみのいかがわしい本のチェックに便利な本だったのだが。
ほかにも、『文学賞辞典』『現代日本文芸総覧(中)』『英米児童文学年表・翻訳年表』『講座アメリカの文化』(南雲堂・全6巻)など資料本をいろいろ100円で拾う。持っていないHMM、持っている通番2桁のSFMやSFAを30円で買った。
最近ちょっと、昔の日本人はどの程度欧米の文学状況を把握していたんだろう、昭和初頭のブームになった円本全集の内容とか見ると、今の日本人よりも詳しかったんではないかという気がしていて、そんな空気を嗅いでみたくて、『世界文学講座』(S6年)、『世界文学鑑賞辞典』(S37年)といったいろんな時代の概説全集も拾ったりもした。
しかしさすがに単行本は場所を食う。そうでなくても、書庫を作って2年足らずで本の数が2,000冊ほど増えているのに。