続・サンタロガ・バリア  (第90回)
津田文夫


 秋の土日イベントが毎週のようにあってヘタばっていたら、あっという間に11月も終わりになった。どこに行く気力もなく、小遣いも寂しいのでゲルギエフのコンサートもパス。でもいいんだ。ケンペがドレスデン・シュターツカペレを振った1974年3月15日のコンサートを丸ごと収めた2枚組CD が素晴らしかったから。
 これはケンペ晩年のライブでラジオ放送用の2トラ38テープを丁寧にマスタリングしたもの。客席の咳払いが耳障りにならないよう加工されているけれど、オケの音への影響はあまり感じられない、というか演奏が素晴らしすぎてそんなことに気が回らない。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」からすでにケンペとオケが絶好調なことが分かる。シューマンのピアノ協奏曲はケンペがこのコンサートアメリカから連れてきたというマルコム・フレージャーで、日本ではほとんど無名だけど、ここではケンペが見込んだだけの演奏を聴かせる。2楽章から3楽章に移るところで、気がつくと落涙していた。アレッと自分でも気がつかないうちに涙が出ていたのだけれど、シューマンのピアノ協奏曲を聴いて泣いたのははじめてだ。さらに驚いたのが、この日のメインであるリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。ケンペはこのオケとスタジオ録音を同時期に行っているけれど、このライブの方が両者とも集中力が高いように聞こえた。「英雄の生涯」はシュトラウスの自己陶酔が嫌みな曲というイメージで、カラヤン/ベルリン・フィルで聴くのがちょうど良い金ピカ音楽(これはこれで抜群の演奏だけど)。ところがこのライブでは音楽の流れやフレーズやハーモニーに滋味が感じられる驚くべきパフォーマンスが聴かれる。音楽雑誌の評に「"英雄"があまりにも人間的に立派で懐が深く・・・」とこの曲に対する通念を破る演奏であるという意味の文章があった。たぶんケンペの頭の中ではシュトラウスはこんな風に鳴っていたんだろうな、と得心のいく演奏だ。

 you-tubeの音楽巡りは、延々と続いて懐かしのTVオープニング・ソングを漁ったり、70年頃の洋楽ヒットチャートを追いかけたり(ジ・オリジナル・キャスト(カースト?)の「天使の兵隊」が久しぶりに聴けた)、KhanのSpace Chanty を全曲聴いたり(ただし、動画はなくてジャケット写真だけ)していたのだけれど、だんだんアブないものへ惹かれるようになった。顔部分を画面に出さずに超ミニスカート・コスプレ風衣装でバリバリ弾くヘヴィメタ・ギター娘たち(女装も含む)である。まあ、ヘヴィ・メタは興味の外なので全曲聴いてはいられない。レインボーの「キル・ザ・キング」を演奏しているミニスカ・ヘヴィメタギター娘2人いて、外国の物好きが早速2人を並べて見せている。この曲ぐらいなら全曲聴いても飽きない。それにしても投稿コメントに男/女を気にする類が多いのが面白い。スマートなボディや太ももを見せてくれているんだからそれで良いじゃないか。ま、画質が悪いのがミソですね。

 そしてヘヴィメタ・ギター娘たちを鑑賞している内に見つけたのが、ミニスカベース娘。これも色々いるようだけど、中でもminsatellites という投稿ネームの娘の演奏姿には強烈な印象を受けた。この娘がヘヴィメタギター娘と違うのはその選曲の幅広さ、演奏スタイルの自在さ、それにコケットリーの出し方のうまさだ。新しめの画像では顔をマスクで隠して横を向いて弾いているのでわかりにくいけれど、1年前の顔なし画像ではベースのフレット間を走り回る左手が瞬間的に大きく開く時の手自体の魅力そして演奏終了時に大きく開いてみせる右手が見せるコケットリーは凄い。いやあ、これは「ビアンカの手」ですな。この娘にはコアなファンが付いているようで、ニコニコ動画では「くねくね姫」と呼ばれているらしい。ググッみると「みなもだより」というHPも開いていて、「心を射止めた100冊」とか「心を射止めた100枚」を見ると、これまたシビれるセレクション。伊藤計劃や貴志祐介、「ハイペリオン」2部作などが見えるし、オススメ三冊が舞城「世界は密室でできている」に清水マリコ「ネペンテス」に筒井「陰悩録」だもんな。投稿コメントに見られる自己演出のうまさはここからきているのか。100枚の方には上位にフレーミング・リップスとポーティスヘッド、クリムゾンやマッシヴ・アタック、下位にピンク・フロイドやレディオヘッドそのほかレイジ・アゲンスト・マシーンにダフトパンクなんていうのも入っているし、自称23才の娘でこれはオヤジ受けのツボを心得ているとしかいいようがない。もっとも大半は邦楽アーティストでthe pillows が大好きらしい。チャットモンチーや新居昭乃とか女性ボーカルも自分で歌うこともあって好きらしい。肝心のベースはタイトで相当の腕前、細いが良い声で歌う。フレーミング・リップスの曲ではバス・ドラとハイハットを踏み鳴らしながらベースを弾くという芸も見せている。自分が30才ばかり若かったら、ニコ動の「・・・はおれのヨメ」フレーズが頭にめぐったかも。いや、you-tube を見るのに忙しくて本が読めない訳じゃないんだけど・・・。

 大森望『狂乱西葛西日記20世紀remix』に何が書いてあったのか早くも忘却の彼方だが、大森望の文章を読んでいるとあの頃もそれなりに楽しい時代だったのかもしれないなあと思わざるを得ない。本当にそうだったかは分からんが。個人的には現在よりも気楽に動けた時代たったことは確か。年を取るとなんだかんだで動きが鈍る。あー、大熊氏の岡本さんへのフォロー話は最初に読んだときも大笑いしたが活字で読んでもやっぱり笑ってしまった。

 積ん読になっていたニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』をようやく読了。面白いけどちょっと長すぎるかな。ヨーロッパ(だけじゃないか)の様々な神話の神々がアメリカに流れてきて普通に人の格好をして生計を立てているという基本設定は良くできていて膨大な蘊蓄とともに飽きさせないだけの面白さはあるのだけれど、なんかショボい。主人公を引っ張り回すのが、ワーグナーの指輪でお馬鹿な神々の王を演じるヴォータンで、この小狡くそれでいて偉大なキャラの造形はゲイマンのキャラとしても良くできている。ただ、主人公のキャラがちょっと重くてところどころで辛い。ダーク・ファンタシーといえばその通りだが。好きの度合いで行けば、『ネヴァーウェア』、『アナンシの血脈』で本作か。不気味なユーモアが物語全体の重みに沈んでしまってるのが痛い。

 これまで読んだ長編は『妖都』だけな津原泰水『バレエ・メカニック』は、その『妖都』を読んだときに感じた冷気を含んだ文体を思い起こさせるに十分な作品だった。基本設定は珍しくないものの話づくりは独特で、読みながら昔読んだ様々な作品(どちらかというとSFでないもの)を思い起こさせるシーンが数多く積み重ねられていて文学/衒学の効用が実感できる。特に表題となった第一部にそれを感じる。時間の経過を読者に知らせつつ近未来SF的な舞台に移ると軽くなる物語。そうか三島由紀夫の「豊饒の海」だな。

 『神獣聖戦』が面白かった山田正紀『イリュミナシオン 君よ、非情の河を下れ』は、残念ながら、期待したものとは違った代物で、作者得意の言葉のイメージ喚起力が十分に伝わらない作品になっている。アイデア自体は興味深いが、ストーリーが恣意的に見えるし、考えすぎとしか思えない強引な展開に付いて行けないことも多い。中では「阿修羅−Uの物語」が分かりやすく、これだけで一つの作品になっている。光瀬龍を思い起こさせる所為もある。ランボーの使い方はいいにしてもランボーの魅力が伝わってこないのが辛い。

 ちょっと重いのが続いたので山本弘『地球移動作戦』を読む。Jコレじゃなかったらもっと楽しめたはず、というのが読みながら感じていたこと。もはやJコレのジャケットは作品に余計な先入観を与えるだけになってきている。この作品も文庫上・下巻で出すか四六判ソフトカバーで出した方が良かったんじゃないだろうか。作品自体は「文学」から遠く離れた大見得語りの昔懐かしいSFを「今の科学」とラノベパワーで語り直したもの。読みながら色々別のことを考えてしまったので損した。

 目先を変えようと読んだのが柴田元幸編訳『燃える天使』。90年代当時の活きの良い短編を集めたコンテンポラリー小説集。作品の配列は普通にリアルな失恋話から段々ファンタジー/ファビュレーション風な作品が増えていくというもの。当然後半の作品群が読み慣れた世界だが、普通に良くできた短編も面白く読める。後半に向かうチェンジ・オブ・ペースの始まりにパトリック・マグラアの本当の話がウソに見える作品がおかれ、次にファンタジー作品が現れる。話づくりの上手さが際だつマーク・ヘルプリン。最後の方はヘンテコな掌編ばかり集めてある。表題作はロウソクの炎に集まる虫を天使に見立てたショートショート、不気味である。

 続けて読んだのがSF短編集、中村融編『時の娘』。よくもここまでど真ん中を集めたもの。「ロマンティック時間SF傑作選」と銘打っただけのことはある。それにしても「インキーに詫びる」は素晴らしい作品だなあ。昔読んだ話の内容は当然忘れてしまっていたが、この作品の感触だけは覚えていて、またあの感触が戻ってきたのは嬉しい。C・L・ムーアの初訳作品を読むと、70年以上前のアイデア・ストーリーがその後ずっと共有財産として使われてきたんだなあと感慨深い。もしかしてムーアもそれ以前のお手本を使っていたりしたんだろうか。
 


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