スヴャトスラフはリヒテル、カールはリヒター。って、そうかピヤノひきのひとはソ連(ロシア)やったっけ。
で、オイゲン・リヒテル、現行表記だとオイゲン・リヒターなわけだが、知ってか知らずか田中芳樹が『銀河英雄伝説』の登場人物の名前として採用、検索すると埋もれてしまうのよなあ。
ということで、Eugene Richter(1838〜1906)の日本での表記は歴史的表記に準じてオイゲン・リヒテルってことで一つ、と提言してみるが、あかんかのお。いやまあ、この原稿は当然そいつで突っ走るんやが。
オイゲン・リヒテルは、ドイツの政治家。1906年3月13日の<読売新聞>は「自由党首領死去(十二日着)」として「独逸国自由党の首領オイゲン、リヒテルは逝去せり宰相ビユロー侯は吊辞を述べ且つ故人の政事家たる天性を称揚せり」と、その死を伝えていたが、右手に見えますビスマルクの軍国主義、左手に見えます社会主義勢力の勃興、その両者を相手取ってひるむことなく奮戦しとったというから偉いもんである。
で、ロシア革命の遥か以前の1891年に
Sozialdemokratische Zukunftsbilder : frei nach Bebel
として社会主義革命後の世界を描き、そこに現出するであろう矛盾を指摘しとったわけ。
こんな本が書かれたということは19世紀末には社会主義に対する過剰なあこがれがあって、バラ色の未来が空想されておったということなのである。念のため。
現今の大不況に共産党にがんばっていただきたい、と祈念しておる様相から多少は類推できても、今となっては、あんまし実感がわかんが、ようするに資本主義社会の現状が、酷かったんでオルタナティヴな道として提示された社会主義の姿には、かなりゲタがはかされとったわけで、そこんとこを実に鋭く見てとっております。
すかさず1893年に、Pictures of the socialistic future : freely adapted from Bebelとして英訳された同書は、社会主義信仰に対する解毒剤として非常な反響をもたらしたという。そやから反社会主義のプロパガンダやと思うやろけど、そんなことはないでー、きっちりとスペキュレーションされた未来像として高く評価でけまっせ、とブライラー先生も書いたはります。
英訳を手に入れようと思った場合、後から出たチープ・エディションの方は確かに紙は悪いが、T.
Mackayの序文が付いている分、お得な気もするので悩ましいところ。
ともかくも現実の社会主義国家の末路を見せられておるので、その通りの未来像を19世紀末に描き出したリヒテルの手腕については近代デジタルライブラリー所載の勝屋錦村訳、オイゲネー・リヒテル『社会主義が実行されたなら』1910年4月、天書閣刊で瞠目させられて下さい。もちろん面白いかどうかは別問題ですけど。
ビスマルクの論敵としてのリヒテルについて、その軍事観を分析する中島浩貴「ドイツ第二帝政期の自由主義と軍隊―オイゲン・リヒターを中心に」<年報戦略研究>5、芙蓉書房が2007年に発表されている一方、社会主義に警鐘を鳴らすリヒテルの姿については近藤潤三の「近代ドイツにおける社会主義批判の展開2―1870年代を中心に」<社会科学論集>(愛知教育大学)29号、1989年が、その背景のみならず、リヒテルに寄せられた反論についても紹介しているので必読。もっとも、論題が論題だけに、日本で明治〜大正に読まれてたなんてネタは拾いにいってません。
さて、『社会主義が実行されたなら』の勝屋錦村は本名、英造。同時代の記事で無責任に「かつや」とルビの打たれている例も散見されるので、カツヤと読むと思い込んでいる人も多いと思われる。カ行に勝屋錦村を出す索引の多い事。勝屋は、語学書Ellipsis in Englishも出していて、そこにローマ字表記があるので、正式にはショウヤと読むのが正しいはず。いや、英三とか栄造とか漢字表記もいいかげんだったりするので困りモンなんやが。
文科大学の学生として<火柱>という文芸雑誌に関わっていたということには、すぐたどりつくが、卒業後の進路については、まだ、良く分からない。一時、勝屋五橋という名でも執筆していた。『外来語辞典』や『通人語辞典』なんてものも出していて、それが復刻されとるが、その解題では経歴については触れられてないねえ。
新刊紹介を二つばかし引いておく。
◎社会主義が実行されたなら(勝屋錦村訳)
原著は独逸の自由党代議士リヒテルが社会主義を攻撃若しくは防衛せんとして書きたる寓意小説なり(菊版仮綴二一〇頁本所区須崎町天書閣書房価六十銭)<読売新聞>
◎社会主義が実行されたなら(勝屋錦村訳)
独逸ハーゲン選出代議士自由党員オイケネー、リヒテルの著を訳せる小説なり、正直一編な製本職工だつた男の記録に擬したるものにて、新社会の謳歌より漸くその呪咀に至り理論の実際に伴はざる所を書いて見たものなり(菊版二一〇頁△価六十銭郵税六銭△本所須崎町天書閣)<万朝報>
もっとも勝屋訳は、結構簡単に忘れ去られてしまったとみえ、1918年、再び荒川賢によって英訳版からの翻訳が登場する。これはまず<社会と救済>の7月から翌年の5月にかけて「幻影に捉はれたる社会主義の審判」として連載され、完結したものの、そのまま放ったらかしになってしまう。
ところが突如、1921年2月にオイゲネ、リヒテル『社会主義審判』として協調会事務所から刊行されることに(発売は有斐閣)。
ドイツ語原書は手にはいらなかったので英訳からでゴメンとか書いているけど、ドイツではこの頃には絶版品切れだったのかのお。改版状況のデータにも触れとるが、はしがきなんぞに紹介されている反響はチープ・エディションに引用されてる書評を使っているとみた。
荒川賢は協調会にいたのは確かなんやが、その経歴を調べらるとこまで手がまわらず。いや、研究がありそうなもんやけどねえ。