みだれめも 第194回

水鏡子


■書庫設置計画続報です。
 結局平行移動書庫に決定しました。正確なことを言うと書庫は値段が高いので、商品管理用の多段式移動ラックです。両側からB5規格の箱を縦に置ける複式奥行50cm幅180cm9段(高さ200cm:収納部分180cm)の移動式ラック4つと同じくA4規格複式奥行65cmのもの1つの計5列。これに壁際に奥行き27cm幅3400cm9段(収納部分高さ210cm)の固定書架を置くことになりました。天井までの高さが2m少ししかなく、照明の加減もあってこの高さが限界でした。
 決定的だったのは、やはり荷重の問題。平行移動書庫というのはご承知のとおり書架をレールで移動させるわけだけど、このレールを敷設するコンクリートの橋桁を作ることになった。これで床が抜ける心配をしなくてすむ。値上がり直前の定価で6掛け程度に抑えてもらって、内装工事費込みで220万くらいに収まる予定。

 残念ながら、収納可能冊数は二万冊を割り込みそうだ。
 商品管理用の既製品の規格なのでどうしてもいろんなところに遊びの空間が生まれるのである。
 まず、奥行。当初の構想では44cmの幅があれば、文庫本を両側から2冊ずつ並べることができ、四六判は同様の配置で55cmに収まる計算だった。5列で計30cm余分が生じた。これがなければ6列の配置が可能だった。これで3千冊の減である。つぎに棚の設定間隔。文庫本の場合、16cmの高さがあれば並べることができる。3cmピッチの可変棚だと、棚板が2cmの厚みなので18cm間隔で設置して10段の配置が可能と考えていた。安価な商品棚を求めた結果棚ピッチが5cm幅になり、これだと棚板2cmを含めて20cm間隔でしか棚を置けない。棚高18cm、つまり新書の並ぶ高さにしかできない。結果9段になってしまった。これで2千冊減った。一応奥にハヤカワSFシリーズやペーパーバックを並べ、前に文庫を置くような段違い配置が可能になったメリットはあるものの、合計で5千冊の減である。収納予想は、文庫・新書・ペーパーバックで12,000冊。SFマガジン・雑誌サイズが2,500冊、単行本サイズが3,000冊。これに書庫の天に500冊くらいは積み上げることができるので、18,000冊くらい。増殖用の空間を残す必要から、当面15,000冊の収納ということになる。配置を考えなければならない。とりあえず、コミックはオミットですね。

 工事は7月。2週間の大工事である。書庫の設置そのものは最後の1日で終わる。残る日程の大半は、コンクリートの打ち込みと乾くのをまっての造作工事である。ただ、工事に入る前にぼくのしなければならない大仕事がある。部屋の中と出入り口とにタンスが3つと水屋が2つ置いてある。当然中身も入っている。これを移動させなけれなならない。どこにどうやればいいのだろう。もう日がない。
 リサイクル店に電話した。タンスを引き取ってもらうためだ。
 「10年以上前のものは引き取れません」7つくらい電話を入れて例外なくそう断られた。材質とか劣化度とかの確認一切なし。すべて10年経っていますかで、おしまい。呆然。
 考えてみると納得がいく。タンス10個引き取って、売れなかったらとんでもない場所ふさぎである。そうでなくても、ある程度空間に余力のある家でないとタンスに場所など取られたくない、押入れのカラーボックスで収納管理という時代。そもそも中古のタンスってあんまり買われそうにない。
 それはまあわかるのだけど、だからといって、壊れているわけでもないものを粗大ゴミとして処分することへの抵抗感はいかんともしがたい。廃棄自体は排出ゴミになるので請負業者の引き取りが可能だということだけど、そんな処分はまちがっているという気持だけは大事にしたい。


■特売品は奥が深い。メーカー価格の半額と表示価格の3割引きのどちらがほんとは安いのか。同じメーカーの商品が特売でなくても店によって大幅にちがっていたり(158円と118円とか)、底値探りには年季がいる。安物買いは基本的に生活者の娯楽であるのが、よくわかる。ぼくの場合は完全に遊びだし、おばさんたちのもそんなところが顕著だけれど、閉店間際に目立つスーツ姿のサラリーマンの姿には生活防衛と独り身の悲しさが漂う。うーむ、他人からみればぼくも同じに見えることだろう。この前スーパーから出てきたところで知り合いに出会い、飲みに行こうと誘われた。消費期限切れ要冷蔵の買い物を抱えていたので誘いを断ったのだけど、哀れに思われただろうなと後で思った。
 それにしてもスーパーに日参してると、生鮮物価の上昇が実感としてわかる。趣味的興味を生活意識にスリ替えて社会正義に自己正当化を図ったうえでのおばさんたちの怒りというのは、もともとが趣味的興味に根ざしているぶん帰って根深い怒りに思える。


■SFマガジンが手に入らなくて、6軒近くの本屋を駆けずり回った。クラーク追悼号である。ぼくがSFマガジンを買い出してから40年近くなるけれども、こうした経験は過去一回しかない。エヴァ・ブーム真っ盛りのときの庵野インタビューが載った号。クラークの威光を改めて思い知らされた。

 野田さんが亡くなった。SF大会で何度となくお見かけしていたのだけれど、バートラム・チャンドラーやキャプテン・フューチャーなど野田さんの中心的訳業をスルーしていることに気後れして、とうとう最後まできちんとしたご挨拶ができなかった。そんなことを気にする人でないことはわかっていたけど、あくまでこちらの出足の問題。

 野田さん以外にも、氷室冴子、今日泊亜蘭、ロバート・アスプリンといろんな方が亡くなった。合掌。

■『北方水滸伝』に★4つをつけてしまったせいで、相対的にラノベの評価が軒並み下がった。いつもの評価より★半分低い。

★★★☆『人類は衰退しました』
★★★『七姫』、『鋼殻のレギオス』
★★☆以下『彩雲国』、『クラッシュギャルズ』、『狼と香辛料』、『鉄球姫エミリー』、『輪環の魔導師』、『ゼロの使い魔』、『マリア様』

・・・書き出して呆然。早いものだと三月に一冊刊行されて、シリーズ最新作を出るたび<新刊>で買っている連作がこんなにある。これにブックオフで大量に買い込み、ぽつりぽつり消化している作品が山ほどあるわけで、翻訳物の読書時間が潰れるのもむべなるか。

 『七姫物語』最新刊は完結に向けて書き急ぎの感があるうえ新勢力が登場する。書き急ぎの印象の最たるものは、主要なサブキャラたちが自分の置かれている立場と姿勢をやけに総括して語っていくところ。そして新勢力だけど、七姫急展開の合従連衡に重要な役回りを果たすのだけど、次回完結となると登場が唐突すぎる。東和篇が終了し、中原篇が始まるというのなら許せるところのキャラである。

 『人類は衰退しました』の3巻目はついに長篇になった。一見キャラで引っ張る軟弱サイエンス・ファンタジイ(じつは意外と褒め言葉だったりする――『ゼロの使い魔』とか『まじしゃんず・あかでみい』とか。おや、どっちも魔法学園系だ)的風情に見えて、予想以上にしっかりとコアSFしている。今回はちょっとクラークっぽく(『銀河帝国の崩壊』とか『宇宙のランデヴー』とか)さえある廃棄都市の探索行。妖精さんたち、助手さんに20世紀出自の新キャラ2体が加わって、さらに好調。科学に弱いぼくなので、電磁波に弱くて電気が平気な妖精さんたちに辻褄がきちんとクリアーされているのかどうか少しだけ気になった。このシリーズをホーカになぞらえる意見が散見するけど、SFとしての性格がちがう。アンダースンはもっと実直で、むしろさっき言及した軟弱サイエンス・ファンタジイの方が資質的に近い。

とくに榊一郎『まじしゃんず・あかでみい』は、「うる星やつら」に椎名隆志や魔法学園ものを組み合わせ、萌え全開にコミックやライトノベルのジャンル的伝統と蓄積を駆使、さらに悩み多き青春群像とアンノウン型SFのポイントをきちんとつかんだ作品である。★★★。
 のりもめりはりもキャラ立ちも、さらには世界の命運を書けたクライマックスの吹き上がりもそつなくて、免疫のない中高校生時代だともしかしたら作者を神様とあがめたてまつっていた気もしないでもないのだけれど、とりあえずの読後感は、楽しく読めたとてもできのいいプログラム・ピクチャー。作者自らあとがきでのたまうようにライトノベルならず「軽小説」に徹っしすぎ、安定感と安心感と充足感に満たされる一方、読んどかなければならない必要性を感じない。ジャンルを底支えし、ジャンルの厚みに寄与する作品である。
 読まなくていいと感じる本で、読んで腹の立たない本というのは、けっこう好き。読んどくべき傾向の本で読んどかないとと思わずに読める本は、主体としての読者性を放棄してすなおに楽しめてしまうのだ。感想めいたことを書こうとするとけなし気味になるけれど、楽しく読んでる。このシリーズも短編集を含め12冊読んだ。ただしすべて古本購入。新刊で買おうというところまではいかないし、古本屋にでるまではいくらでも待てる。キャラと世界設定を楽しみ、このシリーズを全作拾っておこうと思う割には、この作者にこだわろうという気持にはならない。そういう意味では北方水滸伝への接し方と近い。
 ああそうかと書きながら気づいた。このシリーズって、ぼくのなかでまだきちんと整理がついていない概念だけど、北方水滸伝で持ち出したプランナー性が高いのだ。逆に、この本と並べた『ゼロの使い魔』の場合、むしろ作家性が勝っている。二作を較べて見た場合、『まじしゃんず・あかでみい』の方が2ランクくらい出来がいい。それなのにヤマグチノボルの本は拾うのに榊一郎の本にそんなに食指が動かないのは、ぼくのなかでの作家性なるものとプランナー性なるものへの執着心の差に思える。

 『人類は衰退しました』にはプランナー性より作家性を感じる。タイム・パラドックスやら妖精さんの解析不能の異文化構築やらとんでもなくでかいスケールの話を脱力系キャラ多数でごまかしながらふわふわまとめている。ホーカよりはるかに奔放。そのくせなかなかの科学教養主義が貫かれている。SFとしての潜在的なすごさをゆるゆるふわふわで逃がして(逃げて)いる。なんでここまで褒めて★★★☆なのかと思うところはあるのだけど、実感として★4つにならなかった。北方水滸伝のせいである。

 『北方水滸伝』の読後直後に読んで、なお★★★★☆の評価をしたラノベ刊行作品がじつはひとつある。上記の羅列をチェックして抜けてるものを考えればわりと簡単に推測できると思うけど、とりあえず次回で。

ジェフ・ライマン『エア』★★★☆
 困った。たしか3回読んでいるはずなのに、かれの出世作「征たれざる国」の内容がまったく思い出されない。作品から導き出される作者像を重ね合わせ、イメージした作家の目線から作品を覗きこむように読むというのが評価する作家の作品に対するぼくの基本的な読み方であるらしいのだが、このところ以前に読んだ作品の内容どころか印象すら思い出せないことが多い。「みだれめも」で書きつけた文章をたよりにかろうじて記憶をつなぎとめている現状である。とはいえ、「征たれざる国」の記憶なしにライマンについて書くのはいかんだろうなあ。
 よい小説を読んだ印象。SFとしてはたいしたことはない。またかという感じがある。『人類は衰退しました』と比較してみよう。基本的には辺鄙な村の一主婦がネットビジネスに目覚めて旧弊な周囲と軋轢を繰り返す話に、クリフォード・シマックが好みそうな題材を配し、地味に造り込んでよい小説に仕立て上げたもの。メイの視点で話を進め、力強さを得た反面、メイの視界から外れると他の主要人物が唐突に消え失せる。読後感は充実していたが、『夢の終わりに』ほどではなかった。


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