続・サンタロガ・バリア (第68回) |
出張で初めて新潟県長岡に行ってきた。大阪乗り換えで行くのかと思ったら、新幹線で東京経由の方が早い。なんだそりゃ。6時間ほど新幹線に揺られていたけれど、行きの上越新幹線ではずーっと外を見ていた。東京の立川近辺に住んでいた子供の頃、友人のひとりが新潟出身だったけれど、40年前の子供の頭には新潟は遙か遠い場所のような気がしていた。今新幹線で行く東京と新潟はとても近いのだった。帰りの新幹線なんて東京へ帰るビジネスマンで結構込んでいた。トンネルを抜けると雪国だった、なんてことは思わなかったが、越後湯沢の駅の目の前にスキー場があるのには驚いた。新幹線疲れか夜の長岡を楽しむ元気もなく、ホテルに入って地元のテレビを見ながら寝てしまった。コートを着ていったけれど11月半ばの小雨まじりの長岡は暖かかったよ。
行き帰りで『ゴールデン・エイジ3』を読み終わる予定だったけれど、読めば読むほど眠くなるばかりで、帰りは長岡駅の本屋文信堂書店で買った夏目漱石『直筆で読む「坊つちやん」』を読んでいた。登場人物のあだ名は全部覚えていたが、話の方は全くといっていいほど覚えていない。ほんとに読んだことがあるのかおまえはッて、自分にツッコミをいれたくらいだ。赤シャツと野だを殴ってオサラバって、こんなにあっけらかんとした終わり方だったのか。マドンナも簡単な描写があるだけだし。漱石の書き文字の癖は慣れるまではかなりつらい。「そ」とか普通に「そ」なんだが、読めない。「小」なんかどっから見ても「小」の字なのにそうわかるまで5秒ぐらい考えたね。野だの「日清談判だ」というセリフや執筆年代から日露戦争の祝勝会と思われるものがでてきて時代背景が伺われるが、話の筋はまったく時代に関わらないくらい祖型的な組み立てになっている。本文は400字詰めでタイトル込みで150枚、中編と言っていい長さだった。
中村融がセレクションしたタニス・リー『悪魔の薔薇』は色彩過剰な短編集。これがタニス・リーだ!っていう意気込みがよくわかる編集っぷりで、さすがよく読んでるなあ。「いま・ここ」から次第に遠ざかる作品配列ということだったけれども、個々の作品の手触りにそれほど大きな違いがあるわけではなく、リーにとって身近と思われる吸血鬼や魔法使いをシリアスなタッチで描く一方、リーにとってもエキゾティックなおとぎ話であるオリエンタル系は軽いタッチで仕上げている。リーは初期のものしか読んでないせいもあって、この短編集に収録された作品は初期の作品から窺われるリーのイメージ通りになっており、ちょっと嬉しい。
小川一水『時砂の王』は、読み始めて未来からやってきたヒーローが出てきたとき、この厚さで大丈夫かと思ったほどスリムな1冊。邪馬台国編と未来編が交互に出てきたときは、ホントに終わる話かと心配したぐらいだ。実際には主要なキャラをヒーロー・ヒロインと敵・味方サブキャラ1人ずつに絞って状況の推移とヒロインの思いに焦点を当ててあっさりと描ききってしまっている。これはこれでいいけれど、じっくりと書き込んだ話でもう一度読みたい。
出たとなれば読んでしまう京極堂シリーズ。番外編の榎木津シリーズも読み始めればページをめくる手が止まらない。長編だったら1日で読んだだろうけど、3編の中編集なので3日に分けて読んだ。京極夏彦『百器徒然袋 風』は相変わらずのコメディタッチ。読んでるときはパッパとページを捲っているが、読み終わったからしばらくするともうどんな話だったか思い出せない。おもしろかったという記憶だけが残っているのだが、思い返してみるとハテ何がおもしろかったのかさっぱり覚えていない。これを書いているときにパラパラ捲ってみてもああこんな話だったっけとは思うけど、そのストーリーがおもしろかったのかというと何か違う。読んでるときだけの魔法は必ずしも記憶となって残るとは限らないらしい。いや自分がボケただけか。
新幹線に6時間も乗ってたら大抵の文庫は読めるはずだが、読もうとすると眠気が襲ってきたジョン・C・ライト『ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉』。訳者あとがきを読んだら、やっぱりゴールデン・エイジはE.E.スミスの時代だった。いまさらそういわれてもなあ。スカイラークやレンズマンの世界を価値観はそのままに、現在の知識でリニューアルして見せたという点ではそれなりに評価してもいいのかもしれないけれど、主人公たちがバカに見えるのと、小説としては低レベルのストーリーテリングなので、読むのに大変苦労する。太陽の中に潜った全長200キロメートルの宇宙船のイメージはなかなか素敵だが、中でやってることがどうにも退屈だ。大森望が『カズムシティ』を800ページ削ったらと何回も書いてるが、これは3冊を1冊に削ったらもっとよくなっていたかも。