ウィアード・インヴェンション〜戦前期海外SF流入小史〜003

フヂモト・ナオキ


オランダ編(その一) ジオスコリデス博士の島そのほかの物語

 世界三大デスといえば、ジオスコリデス、メガデス、ツキジデスなわけだが(←今決めた)、今回はそのジオスコリデス博士ことピーター・ハルティングの『新未来記』の巻である。『新未来記』といえば翻訳SF第一号として、その名はつとに知られている。
 とゆーことで、そんなメジャーなもの、改めて俺があれこれ言うこともなかろうと、思ってたんだが、これまで言及されてこなかった小ネタが幾つかあるんで、それを紹介するつもりで、目を通しはじめら、あにはからんや。何でも読んでみるもんである。未来を予測した小説とかいわれとったが、それは、この作品の一面に過ぎんがな。

 『新未来記』が複合体的な構造になってることは、それを最初に訳した近藤真琴がいち早く自注で指摘しているが、読めば、予測としての未来世界の描写に加え、その未来世界に現代が如何にして接続されたか、すなわち未来へと導くインフラストラクチャーとして、文化的装置の姿と機能が活写されていることがわかる。つまり『新未来記』は文化施設の効能書きであり、文教政策マニフェストとして読まれるべきテクストなのである。
 近藤真琴が序文で読者の興味を惹くために稗史体を採ったとしていることから、庶民への啓蒙が第一義となっていると解釈され、政策の参考書として読まれ得る、そして読まれた可能性は看過されてきた。しかしながら、書き込み等はないものの田中芳男が架蔵していた事実(後述)を見れば、不要不急の娯楽書として訳され、読まれていたわけではないことは想起される。

 『新未来記』は韻文で訳されている。今日、七五調の韻文を目にすると都々逸にしか見えないし、真面目な「論」=漢文体という先入観があるのだが、そう単純なものではないようである。とはいうものの、当時の<雅/俗>意識が掴みきれない。例の新体詩というのが七五調の韻文で「後世の嘲笑を買ふに至」(矢野峰人)って馬鹿にされてしまう感覚はよくわかる。だが、当時、そうした文体が選択されたということは、今日とは異る言語感覚がそこにあったはずなんだが、どうにも実感が湧かん。

 ともかく、『新未来記』は「図書館」「美術館」「博物館」といった文化施設が、いかに開化=進歩と結び付くか、その機能を、そしてまた効能と必要性を語った書であり、今日、図書館史、美術館史、博物館史の文脈に置いて読み直し、その影響を検討するという課題が立ち現れているとみるべきなのである。
 というわけで、単なるレトロな未来予測小説だと思っていたんだが、意外にも文化史上重要な書物で、翻刻校訂版を作る価値のある、というか作らなきゃ、という気に。それこそ単なる気のせいかもしれんが。

 以前、会津信吾氏が翻刻版を準備していたことがあり、英語版と対照して校訂したゲラまで作業は進んでいたという情報を耳にしたことがあるんですけど、それは諸般の事情で中止になってしまったらしい。だもんで、とりあえず自分でも大雑把に入力して校訂の準備まで始めてしまったよ。はっはっはっ。ま、俺が出す前にひょっこり近藤家か攻玉社から出版されても不思議はないという気も。

 『新未来記』がメジャーだといっても、それはごく狭い世界での話ということで、ちゃんと説明しなきゃいかんのね。
 オランダの科学者ハルティング(Pieter Harting,1812-1885)が一八六五年ジオスコリデス博士(Dr. Dioscorides)名義で発表した未来小説Anno 2065 : een blik in de toekomst。すなわち二百年後の世界のありさまを描いた空想物語である。ハルティングの経歴について日本語で読める文献は全然目につかなかったのでこれまでは英語文献 Dictionary of scientific biographyによって紹介していたんだけど2000年に『オランダ科学史』朝倉書店が出たので(ああ、もう七年もたってるよ)、そっからの引用。

「ロッテルダムに生まれ,ユトレヒト大学で医学を学び,アウデワーターで医師となった.1841年に彼はフラネッカー大学の薬学と植物学の教授に任命されたが,1843年にこの大学が閉鎖されたので,彼はユトレヒト大学へ移らねばならなくなり,そこで最初は員外教授に,後に正教授になった.彼はそこで薬学と植物生理学と比較解剖学と動物学を教え,それに加えて地質学の領域の研究もしていた.1852年になると,彼は大衆科学雑誌『自然のアルバム』の創設者に加わった.さらに,彼は火葬の熱心な支持者となり,心霊主義とアルコール飲用の熱烈な反対者でもあった.彼は1882年に名誉教授となり,1885年にロッテルダムで没している」

 ダーウィンと文通していて、オランダにおけるその代弁者といったスタンスで進化論を擁護していた模様。教育制度改革への提言も行っており、そのあたりが『新未来記』に反映されとるわけである。
 邦訳を読む限りでは、この二百年後という設定は物語内では全く重要な要素ではないが、ヨーロッパにおいて相次ぐ翻訳では、その数字が重視され翌年1866年のドイツ版はAnno 2066 : ein Blick in die Zukunft、1870年のフランス版はAnno 2070(I.F.クラークの本には、そう書いてあるんだが今のところ確認できず)、そして1871年の英訳版はAnno Domini 2071。本国での再版は年内に同題で出たらしいが、1870年の3版はAnno 2070となっていた。こうした律義さはさすがに東洋でまでは踏襲されない。つまり西暦なんてローカルなものを持ち出されましても、ってことだな。

 実は英訳版からの邦訳『開化進歩後世夢物語』の標題紙には「紀元二千五百卅四年第十月刊行」と書いてある。だったら邦題を『二七三四年』にしてもよさそうなもんだが、さすがに維新まもないこの頃には皇紀はそれほどポピュラーではなくて、実感が湧かなかったといったところか。でも、ヴェルヌのIn the year 2889(1889)が出た頃にはそれなりに認知度がアップしていたらしく、明治26(1893=2553)年の邦訳はタイトルを「紀元三千五百五十三年」としとるんだよな(同作品の明治期翻訳として昔から知られているのは<国民之友>などというメジャーな雑誌に載った「一千年後の新聞社」の方だろうが)。
 もっとも、明治10〜15年の田口卯吉『日本開化小史』の本文が既に皇紀表記だったりするし正確なところを知るのはかなり難しいかも。昔、永瀬唯氏が皇紀の用例を検索して、その流布状況を分析されてたんんだが、それだと「皇紀」という言葉の流布状況がわかるだけで、おそらく昭和に入ってから広がった概念のように見えてしまうのではないかという気が。
 年代にもよるんだろうけれど、明治期に単に「紀元」と書いてある場合、その多くは神武紀元であってキリスト紀元であることは稀な気がする。だいたい紀元節はキリストのお誕生日とかじゃねーしな。
 ともかく西暦は西暦として皇紀以上のポピュラリティーを得ていたことは二十世紀の使用例が二十六世紀の使用例を圧倒的に上回ることであきらかである。ひょっとして「<二十六世紀>事件」の影響もあるのかねえ。この事件については連載が続いて行くとふれることになるはずなので今回はパス。
 ついでに書いておくと、昭和十年代を「世紀末」とする用例を探したことがあるんだが、皇紀二千六百年で大騒ぎしてるくせに、これを二十六世紀末と捉えた表現は結局一つしか見つけられなかった覚えがある。というか、途中で、やっぱりfin de siecle の訳語であって、独立した概念として換骨奪胎した例はなかったのかと思いはじめていたんで、存在していたことに逆にびっくりしたね。

 ところで『明治の文芸雑誌』という、しっかりと現物に当たって明治期の雑誌を紹介した大層立派な本があるのだが、併録された萩原朔太郎の逸文紹介の記事「萩原朔太郎と「今世少年」」の明治33年12月5日発行の<今世少年>からの引用文中の「二十六世紀」にママとルビをふって点睛を欠いてしまっているんだよな。ここは「ママ」じゃなく、明治33年は皇紀2560年という注をつけとくべき箇所。昭和ヒトケタ生まれで明治文芸を専門にしていて、ママはなかろう。朔太郎研究者には、よほど性格の悪いやつが揃っているのか、はたまたモノを知らない人ばっかなのかと、初出<学苑>昭和55年3月を確認したところ、そちらはルビなし。疑ってすまぬ。

 さてAnno 2065は、オランダに派遣された肥田浜五郎(1830〜1889)が持ち帰ってきて(元治元年八月一五日=1864.9.15派遣、慶応2年1月26日=1866.3.12横浜帰着)、近藤真琴(1831〜1886)に翻訳を依頼。慶応4年閏4月17日付の<公私雑報>に訳が成ったという記事が掲載されるも、維新の動乱のために出版されないまま仕舞込まれてしまい、明治7年、英訳版を底本に上條信次訳『開化進歩後世夢物語』が刊行され、その後明治11年になってようやく近藤訳『新未来記』が刊行される。というのが一般的に語られてきたジオスコリデス流入史である。ただ、横田順彌氏は「某西洋人が某所に献本した」という異説があることを発見されて、刊行の遅れを重視して『新未来記』の受容に皇室が関係しているという説をたてておられる(「翻訳SF第1号『新未来記』出版の経緯」<SFマガジン>2002年3月号)。
 この異説は建築家の中村達太郎(1860〜1942)が耳にした噂で、三条実美の序文があるのでさもありなんとしたしたもの。ただし<公私雑報>の記事があることから、慶応年間に近藤の手元にあったことは確かで、この時期の肥田/近藤に皇室との繋がりが見いだせない以上、『新未来記』の序文にあるとおり肥田から近藤に託されたと考えるのが自然であろう。
 なお、上條訳は『夢遊二十一世紀』として清国で重訳が出ている。

 『新未来記』についてSF界で触れているのは横田順彌氏だと、紀田順一郎氏の『明治の理想』三一書房、1965に準拠した前述のものが一番まとまっている。長山靖生氏のものでまとまっているのは近著『奇想科学の冒険 』平凡社、2007(平凡社新書)の2章「「進歩」の発見、「啓蒙」の歓び―近藤真琴」での言及か。もっとも、目を通してみて驚愕。ロジャー・ベーコンが幻視したという設定だって。呆然。そんな『新未来記』はありません。そういう書き方をした先行文献があったんだっけ。「当時はサイエンス・ロマンスと呼ぶのが一般的で」って、そーなんでしょうか永瀬唯先生。まあ言いはじめるといろいろあるんですが、少なくとも作中でガラス張りの巨大建築が立ち並ぶんではなくて、都市がガラスのドームで覆われてるってのは、それなりに有名なネタだったかと…。し、叱って下さい横田先生。←また、虎の威を借りてしまった。

 あと、石川英輔氏が『総天然色への一世紀』青土社、1997◇でカラー写真を予言した書として、その2章[4]節「明治の日本人とカラー写真」で紹介しておられます。

 2002年の<土木史研究>22号に長谷川博/桝山清人「「新未来記」を土木的に読む」が発表されているが、これは新未来記についての一般的な情報のみを記した学会発表のレジュメで、しかもその中では同書中における土木技術に一切触れていないという不満足な資料であり、これだけを入手しても全く役に立ちません。
 1998年10月には岩波書店<文学>に栗田香子「未来記の時代」が発表され、蘭語原書、英訳と対照して近代的な「未来」概念が日本に持ち込まれ、中世の「未来記」が政治小説を中心として明治20年前後に簇生する近代の「未来記」へと変化する結節点として『新未来記』をとらえ、時間概念の変遷をを読解しようと試みている。こうした試みは、1997年4月<文学>の亀井秀雄「時間の物語」、2003年6月<説話文学研究>び小峯和明「未来記の射程」(新日本古典文学大系明治編月報一三掲載の「近代の未来記瞥見」がこれの使い回しってのはサービス精神なさすぎでは)などと問題意識を共有して、ちょっとしたトレンドを形成しているかと思われるが、「未来記」と一くくりにされていても、各々の作品毎、作者毎にその時間意識、作品構造に違いがある。
 そのあたりを論じられる程、一連の未来記に眼を通している訳ではないのでひとまずおくが、未来と現在のコンティニュイティ、連続性に自覚的で、因果律が強く意識されている点で『新未来記』は突出したテクストであって、「未来」というタームにだけ注目して他の寓意を主体としたテクストと同一視して論ずるのは誤りであることには注意を喚起しておきたい。

 物語は突然、未来世界に放りこまれたアノニマスな主人公(すなわちジオスコリデス博士)が、ロジャー・ベーコン(Roger Baco)と幻(Phantasia)という女性に二百年後の世界を案内されるというもので、前半で美術館、図書館、博物館等の文化施設を訪れ、後半にオーストラリアへの空中旅行を体験することになるというもの。従来は、この後半で語られる植民地独立問題が『新未来記』のキモであるとされてきた訳だが、カルチュラル・スタディーズなんぞに曝された現代の読者は、前半の文化施設=文化的装置についての「語り」の方に目を惹かれるはずだ。

 さて問題です。日本で一番ジオスコリデス密度の高い場所はどこ?
 マニアがデッドストックを抱え込んでいるかもしれんが、それは置いとくと、どうも宮内庁らしい。国会図書館とか普通の図書館には1点(2冊本ですけど)しか蔵書されていないはずだが、宮内庁書陵部の蔵書目録をみると、3セットも持っているのである。恐るべし皇室。
 しかも、昔はもっとあったらしい。というのは東京大学の総合図書館に2セットあって、そうちの一つは関東大震災で焼けた東大に宮内省図書寮から寄贈されたもの。ちなみに東大のもう1点は冒頭でちらりと触れた田中芳男の旧蔵書である。こうして2セットあると面白いことに気づかさせられる。
 宮内省本はやはり天覧を意識して造られた本らしく、装丁も大きさも違う特装本なのである。いや、そんなにあちこちの『新未来記』を見て歩いたわけではないので偉そうなことはいえないが、今まで見たことのあるのは黄色い紙表紙の半紙本(approx. 16.5 X 23.5 cm)ばかりだったのだが、宮内省本は、茶色い布張り表紙で、各丁の上にかなり余白がとってあってひとまわりでかい美濃本(approx. 20 X 28 cm)なのである。いや、献上本には良くあるパターンだが、『新未来記』に特装版があったとはねえ。まあ、偉いさんが噛んでるんだから当然想定される事態だが、あちこち見て歩かないと気づきません。
 と、感心してたら横田氏の一文に古書目録で見たと、その事実が紹介されているのみならず、セットで在庫している古書店がン十万という値段をつけて、蘊蓄をかたむけた記事をウェブに置いてたりするんだねえ。「そんなことも知らんかったんかい、ド素人がっ」という罵声が聞こえてくるよ、はっはっはっ。
 田中芳男(1838〜1916)は信濃国飯田生まれ。本草学を学び、維新後に博覧会や博物館行政を担っていった人物である。田中本には別に書き入れとかないんですけど、その田中が『新未来記』を手元に置いていたかと思うと、ド素人の悲しさ、そこになにがしかの意味を見出してしまうのはいたしかたないのだ。

 最初書くつもりだった小ネタってのは、<公私雑報>の記事が転載された話と『新未来記』が講談師によって演じられた話と昭和初年の雑誌連載の話だ>多分、すっかり忘れてるだろう未来の俺。あと、だいぶ長くなったので、当時の新聞広告を三紙分揃えて、微妙な差異についてウダウダ書いたところもぶった切っちゃったよ。


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