ヴェルヌ、ロビダに続く明治のフランスSFというと、やっぱりダンリー大尉っすかね。誰も再評価しませんけど。無茶苦茶な新兵器が登場しまくればともかく、リアル指向の架空戦記は今読むとどのあたりにどの分量の「フィクション」が投入されているのかが良く分からないところ。邦訳作品からすると今日イメージするSFからは離れとるんだが、架空戦記がSFのサブジャンルとされている以上、避けては通れません。
日本でレトロスペクティヴな関心を持たれるダンリー作品は黄禍物ぐらいだよねえ。でもオリエンタリズムのヴァリエーションとして黄禍論を読むなんてことは何十年も前に橋川文三先生がやっとるわけで、今から重箱の隅をほじくりかえすなんて、結構恥ずかしい気がするけど、改めて発掘されるディティールの面白さってのはあるよな。
なにせ「英国黄禍論小説集成」「黄禍論史資料集成」なんて復刻本の叢書(Edition Synapse。後者は近刊予定)が刊行されてますよ。しかしなぜに英国。ピアソンがいるから本場なの? 編者に英文学の人を持ってきたからなんでしょうけど。仏文の人は、対抗してがんばったりしないのか。案外フランスだと普通にダンリーのリプリントが買えて、新たなパッケージで大学図書館向けに商品化するのが難しかったりするのか。
ちなみに、橋川文三(1922―1983)が黄禍論について調べるにあたって最初にやったことは、国立国会図書館へ出かけて、M.P.シールを読むことであった。いや、国会図書館になら黄禍論関係の資料がいっぱいあるだろうといって目録カードを繰ったが、結局空振りに終わって、とりあえずYellow
dangerを読んで帰ったのだとか。それで、『黄禍物語』には「筑摩書房の「世界ロマン全集」とか、早川書房のSFものに入れても結構いけそうな感じがした」という評価とともにシールの粗筋紹介が載っているのである。
今や蔵書検索はウェブでチョチョイとできるようになっているが、俺がかつて国会図書館にヘンな洋書が所蔵されてないか調べた時は、橋川先生と環境は変わってなくて、帝国図書館時代の洋書を調べるには年季の入ったドロドロの目録カードが頼りであった。で、妙に架空戦記が所蔵されとるのに行き当たって驚かされたものである。
いまや架空戦記の過半は娯楽小説として書かれ、受容されているけれど、時代を溯ると、imaginary war fictionはプロパガンダと警世の書として存在し、軍人や政治家もおベンキョーのために手にとり、お堅い図書館が蔵書として買い入れる対象だったという事実を改めて突き付けられた気がしたね。
橋川先生はYellowとかPerilとかで調べて(あとドイツ語文献)たらしいので、当然到達できなかったんですが、国会にはダンリーのL'invasion jauneが入っている。改装されているが元は紙装っぽい三冊本がある他、第一冊のA mobilisation sino-Japonaiseだけは日本関係書扱いで大型版が所蔵されている。webcatでみると三冊揃(A mobilisation sino-Japonaise/Haine de jaunes/A travers l'europe)で持っているのが立命館大学、三巻だけを熊学大が持っている他、九州大学法学部の西山文庫にもL'invasion jauneとして入っているが、これはセットものなんだろうか。
東京大学教養学部図書館には1979年のリプリントの第一冊だけが入っているけど、これは平川祐弘セレクションなのかねえ。中途半端に一冊だけってのが謎だが平川先生は黄禍論研究のために三冊とも読んでいて「黄禍論と国際政治」(『内なる壁』TBSブリタニカ, 1990.7.5)で同作品をダンリット大尉『黄人大侵入』として紹介しておられます。
自分のダンリーに関する記述の粗雑さは棚に上げて、注で「学問的厳密さには欠けるが橋川文三『黄禍物語』(筑摩書房、1976年)がある」などと平然と書いているあたり、先生、なかなかええ根性したはります。橋川先生には、是非「学問的厳密さには欠けるが、ダンリーについては平川の紹介がある」とチクチクやっていただきたいものである。←虎の威をかりてみました。
平川先生はダンリーを黄禍主義者扱い(少なくとも読み手がそう解釈するように誘導する形の記述である)しとるが、その第一の敵はもちろんドイツなわけで、それにあきたらずL'invasion noireで黒人とイスラムを敵に、そいでもってイギリスを敵役に を書き、そいでもってL'invasion jauneを書いてるんだよ。第一次大戦で戦没してなければL'invasion rougeを書いて今頃インヴェージョン・トリコロールとか銘打ったボックス・セットが出ているとみたね。この様に文字どおり「多彩」な作家を黄色呼ばわりはないと思うぞ。
もっともWho's Who in Military History: From 1453 to the Present Day(1996)のダンリー(ドリアン)の項に記された肩書は「フランスの軍人、作家、anglophobe」。 「anglophobe」って肩書きになるのか。大体、特定の国を敵視しとるわけではなくて、どこもかしこも敵なんですからねっ。だから、日本では黄禍主義者扱いってことでひとつ、ってとこでしょうか平川先生。
まあ、先生が書いておられることは、シュワルツ『近代フランス文学にあらわれた日本と中国』東京大学出版会、1971と一緒といやあ、一緒なんだけどね。ちなみに同書だと表記は「ダンリ”艦長(キャピテーヌ)”」だ。
その一方で今回取り上げるLa guerre de demainを持ってる図書館が見あたらん。同書についていえば、日本人が参考になるかも、などと読んだ時代はせいぜい日露戦争頃までで、第一次大戦あたりにはすっかり骨董品化していて、遡及的な関心を持つのは架空戦記研究者ぐらいなので残っていないのである……で、済めばいいんだが、なぜか昭和の雑誌連載(帝国軍事協会の<大勢>、昭和16年2月に、その連載第13回が掲載されていた)に行き当たり頭を抱えることに。なんじゃこりゃー。
<大勢>に関しては資料が全然集まってないので、こーゆーものがありますということにして先を続ける。
だいたいダンリー大尉って誰やねんと、皆思っとるはずなのでここいらで、プロフィール紹介に移ろう。
本名エミール・ドリアン、といっても、はぁ、という反応しか帰って来んわな。SF史でもプロフィール紹介は見ない気が。俺が見た日本語で一番詳しいドリアンの紹介は渡辺一民が『大仏次郎ノンフィクション全集 第一巻』朝日新聞社(1971)に付けた注釈。
「エミール=シプリアン・ドリアン(1855―1916)。サン=シール士官学校出身。チュニジアに従軍し、1884年、ブーランジェ将軍の副官となり、以後、将軍が軍籍を離れるまで忠実な副官であった。1887年、将軍の娘マルセルと結婚。そのため将軍の没落後昇進もかなわず、1905年軍籍を捨てた。1910年代議士に当選し議会で軍事委員として活躍。第一次大戦勃発ととみに志願して復役、1915年中佐に任ぜられたが、数々の武勲をたてたのち戦死。なお90年代よりダンリ大尉の筆名で、戦争や軍隊を素材にした多くの文学作品を発表している」
なんでそんなところに紹介があるかといえば、ドリアンはブーランジェ将軍の副官で、大仏が『ブウランジェ将軍の悲劇』なんてものを発表しているからである。注釈は索引にもなっているんだけど、それによればドリアンの名前が出てくるのは一カ所。なのにこんな立派な注を用意するとはっ。渡辺一民偉いっ。などといわれるまでもなく十分偉い気はするけど。
架空戦記研究家のI.F.クラークのVoices prophesying warにも同様のプロフィールが出ているが、それを改めて引用する必要はないだろう。クラークは作家としてのドリアンについては仏独戦争テーマで書きまくった、19世紀末フランスにおける架空戦記の代表的作家として扱っているがダンリーをそれほど読んではいないようで、その作家活動に関してはそれほどつっこんだ記述はなされていない。
ともかくダンリーは量があるからねえ。読んで全貌を明らかにする気力も能力もないので、単に量でもって語らせる作戦発動。
La guerre de demain (1889-1896) | 2,827 |
L'invasion noire (1895-1896) | 1,279 |
La guerre fatele (1901-1902) | 1,192 |
L'invasion jaune (1905) | 1,000 |
L'aviateur du Pacifique (1909-1910) | 512 |
L'alerte (1910) | 452 |
La guerre souterraine (1915) | 352 |
計 7616頁 | |
(ピエール・ヴェルサン調べ) |
ううむ。まさしく19世紀の荒巻義雄。架空戦記って書くと長くなるんだねえ。いや、われわれの世代だと、荒巻義雄といえばニューウェーヴ。シュールレアリズムのモチーフを持ち込んだ一味違うハードSFの書き手という認識なのだが、今の人にすれば21世紀のダンリー大尉扱いなんだろうな。
さて、従来、日本におけるダンリーの受容というのは年譜上に単行本の出版が記録されるぐらいで、内容や、その受容に実は枝葉があること、そして、先に触れた通り意外に息が長かったりすることは看過されている。
今回も、もうすでにかなり長くなってしまっているので、ついてきてますか。ウェブで見ている人は見捨てとらんか。取りあえず枝葉(明治期における邦訳の雑誌連載)について紹介するのはまた日を改めることにしよう。いや、複数の雑誌での連載があるんだけれど、これが、そんなんあり?という変則的な連載。しかも、その次の連載がまた架空戦記で、単行本にもなっていない代物。と、ふるだけふって見ましたが、そんな話に誰が食いつくんだ。
ともかく邦訳本として知られるのは以下の三冊。
(a)
厩堂散人訳『明日の戦争』兵事新報社、明治27年2月
厩堂散人訳『明日の戦争』博愛堂(池田安太)、明治30年2月
(b)
桃源仙史訳『明日の戦争 野戦の部』有則軒本店、明治32年9月
原著との対象はおこなっていないが(a)はLa guerre de demainの第一部La Guerre des forts。(b)は第二部La Guerre en rase campagneの翻訳とみて間違いないだろう。訳者としてクレジットされている厩堂散人は兵事新報社版の奥付に著作兼発行者 吉村鐘一とあるので、それが本名だとされているが、経歴に関する情報は得られていないし、吉村(芳村とも)は権利を持っているだけで、厩堂散人その人ではないのではないかという疑問も残る。というのは漂舟漁夫編の本も、学龍山人訳の本も吉村が著作兼発行者になっているのである。あと、吉村自身の号として使用が確認されるのは天囚逸士。これは西村天囚(時彦)とかぶってるということで後に上記のものに変更された可能性はあるが、あまりにバラバラ過ぎである。
本の体裁に断絶があるので厩堂散人と桃源仙史は別人ではないかという印象を受けるが、(b)に付された亀丘逸人による序文には「厩堂散人訳の『明日の戦争』」と書いてあって、同一人物が別名を使っている可能性を疑わせている。
一方、桃源仙史については、『明日の戦争』自体には情報がないのだが『朔爾弗里諾之紀念』という訳書から、その本名と御子孫の名前が判明する。というか行き当たりばったりに本を読んでいるもんで、たまたま吹浦忠正『赤十字とアンリ・デュナン』中公新書、1991を手に取り、桃源仙史のことが書いてあるやん。と、なったんですが。
もっとも、同書にはただ『朔爾弗里諾之紀念』が、「寺家村和介(筆名、桃源仙史、1864〜1926[ママ]年)、当時はまだ30歳のエリート軍人」によって訳されたことが書かれているだけで、桃源仙史のその他の業績については記載はない。そこらへんを膨らませた記述になっていないのは、テーマがずれてしまうからだろうけれど、寺家村家が戦災にあっているため当時の資料が残されていないということにもよっているらしい。同家は、代々フランス語の達人を輩出しており、曾孫の寺家村博氏が上智大学在学時に『朔爾弗里諾之紀念』の新訳(『ソルフェリーノの記念』)を刊行されたことも紹介されている。
なお、寺家村和介は雑誌<飛行>の昭和5年、6年の新年号に帝国飛行協会理事としてそれぞれ「年頭偶感二三」「航空の一瞥」を寄せおり、中公新書に記された没年には疑問が残る。
その他、手にはいった資料でその経歴を記すと、明治29年時点で大尉として活動しており、30年9月に結婚願を陸軍大臣宛に提出。明治31年には「北清及西伯里亜地方」へ派遣され、明治34年、少佐に進級した後退役したらしい。同年5月に東京地学協会でシベリア調査の模様を講演し、この模様は同年<地学雑誌>に寺家村和助名で「蒙古及西比利亜旅行談」として掲載されている。あと、昭和8年までは帝国飛行協会理事として<飛行>の年頭挨拶にその名が見える。
ところで寺家村といえば有喜世新聞の社主の寺家村逸雅が連想される。『明治新聞雑誌関係者略伝』の「寺家村逸雅」の項に出ている息子の名は逸雄のみ。また「寺家村和順」の項に逸雅の子と書かれているだけで、和介の名は見えない。もっとも、調べると寺家村逸雅の息子に和介という名前の息子がいたことが確認できる資料もあり、おそらく寺家村逸雅につながる人物だとみて間違いないと思われる。ま、結論は御子孫に取材するか、もっと詳細な情報を記した資料を見出すかまでは留保だなっ。ってとこで今月はおしまい。
まてまて待ていっ。『明日の戦争』がどんな話か書いとらんやろっ。すんません。老化が進んでいてどうにも読む気力が……。昔は普通に読んでた気がするんやが、すっかり忘れたので、読み返そうとして愕然。翻訳小説は登場人物名がややこしくて読めん、という話を聞くけど、普通は人物のキャラクターぐらいは、それなりに立ってるので、なんとかなるはず。でも、地名はキャラじゃないので当然のようにキャラ立ちしてません。
特に、この本は著者のホームが舞台になっていると思われ、位置関係に距離関係、集落の規模が自明のことになっている模様。アウェーにつれてこられた、反射神経ボロボロのおぢさんは、ついてけません。ってことで。
ええっ、しょーもない本だというのがバレないようにストーリーを隠蔽してるんやろって、あ、いや、ま、その。
おおよそのところはドイツ軍がせめてきて要塞の攻防戦があって反撃してフランス大勝利の万々歳という話、ということであってるはず。
ともかく、新訳を出そうという奇特な人は必ず地図をつけるよーに。(いねーよ)